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「ビッグE」 =空母「エンタープライズ」〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-04-09 | 軍艦

空母のハンガーデッキを再現したスミソニアン博物館の展示には、
空母の戦争の歴史、つまり第二次世界大戦の日米海戦史について
スミソニアンの視点で紹介したコーナーがあり、それを紹介してきたわけですが、
真珠湾攻撃に始まって日本艦隊が空母を失うことになったレイテ沖海戦まできました。

こうなると、あとは真珠湾の時とは逆転してしまった日米の戦力バランスの上に、
アメリカ軍がふんだんに空母を投入し日本に飛び石作戦で根拠地を近づけてくる番です。

その「日本への道」という展示の前に、こんなコーナーがありました。

■  空母「エンタープライズ」

「第二次世界大戦でもっとも殊勲賞を獲得した艦」

として、「エンタープライズ」が特にクローズアップされています。

エンタープライズは1934年7月16日ニューポート・ニューズ造船所で起工され、
1936年、海軍長官スワンソン夫人によって命名、進水、1938年就役しました。

起工にあたっては日本側に建造する旨通告が行われています。

 
1941年6月、開戦前のエンタープライズ。飛行甲板が板張りの木甲板。

■ 真珠湾攻撃

「第二次世界大戦におけるアメリカ海軍の歴史において最も象徴的な艦といえる」

ジェームズ・V・フォレスタル海軍長官 1945年

フォレスタルというと、わたしはすぐにあの大火災を起こした空母を思い出しますが、
民主党の政治家であったフォレスタルが海軍出身であったことから、
1949年の神経衰弱による自殺後、その名前がUSS Forrestal, CVA-59につけられました。

まず説明を翻訳しておきます。

「エンタープライズ」に最初の戦闘命令が下されたのは、
1941年12月7日の真珠湾攻撃の10日前のことでした。

そしてその4年後となる1945年の10月27日の海軍記念日、
彼女はニューヨーク港で何百万人もの人々にカーテンコールをしました。

その12年間の艦暦において、「エンタープライズ」は太平洋における
たった一つを除く全ての「空母の戦争」を戦い、その結果
20にものぼるバトルスターを獲得し、彼女のパイロットたちは
12異なる敵空母部隊と戦闘を行い、そしてそのうち2隻を撃沈し、1隻を撃破しました。

そして彼女自身も敵の行動によって酷い被害を何度も受けましたが、
しかしそのたびにいつも次の戦いのために戻ってきました。

「エンタープライズ」の記録には、第二次世界大戦中の
他のいかなるアメリカ海軍の艦船にも匹敵するものではありません。

そして写真の横には歴代艦長の氏名と、航空部隊指揮官の名前が記されています。
その中には、ミッドウェイ海戦の時の指揮官

C.ウェイド・マクラスキー少佐

1943〜44年には

エドワード『ブッチ』オヘア少佐

の名前を認めることができます。

ここには「エンタープライズ」が真珠湾からの出航の際に受けた
バトル・オーダー・ナンバーワンの文書原本が展示されています。
ハルゼー中将の名前で発令されたこの命令は8項からなっており、

1、エンタープライズは現在戦争状態に入っている

2、昼夜問わず、いつでも即座に行動できるよう準備しておく必要あり

3、敵対的行動をする潜水艦に遭遇する可能性あり

4、哨戒している間、全ての士官と下士官兵は特別警戒すること
全ての配置によってその重要性は完全に認識されなければならない

5、だれか一人が割り当ての任務を迅速に遂行できなければ、
特にそれが見張り、あるいは動力を操作するものであったら、
それは人命を大量に失い、最悪の場合船を失うことにつながる

6、艦長は総員が非常時の発生の際同等の責任を負うことをを掌握する

7、我々海軍の伝統の一つは、試練の場に置かれた時、総員が冷静に戦うことである

8、安定した精神と強靭な心が今こそ必要である

とあります。
注意していただきたいのは、この発令がハルゼーからなされた日付が
1941年11月28日、真珠湾攻撃の10日前であったことです。 

真珠湾攻撃が全くの奇襲で、アメリカがこのことを夢にも知らなかった、なんてことは
やっぱり米側の事後プロパガンダに過ぎなかったんじゃないか、と思わされますね。

(今ふと、9/11の前日にコンドリーザ・ライスから
『明日の飛行機には乗るな』と忠告されて
出張の移動をとりやめた
サンフランシスコ市長の話を思い出してしまいましたが、
ただ思い出しただけですすみません)

 

さて、この只如ならぬ訓示を受けて「エンタープライズ」では即応体制が取られたのですが、
証言によると、さすがに乗組員の意識は平時とあまり変わらなかったということです。


12月2日に「エンタープライズ」はウェーク島に海兵隊の飛行隊を輸送し終わり、
12月6日夜に真珠湾に戻る予定でしたが、天候不良のため7日の昼に延び、
そのために真珠湾での攻撃を免れることになりました。

もし彼女の帰港がスケジュール通りであったとしたら、定係された埠頭は
攻撃されて損害を受けていたことでしょう。

「エンタープライズ」の定係埠頭には、なぜか標的艦「ユタ」が代わりにいて、
これを撃沈した日本軍は「エンタープライズ型航空母艦」だったと発表しました。

■ 航空部隊司令官マックス・レスリー

マックス・レスリーはミッドウェイ海戦のとき「ヨークタウン」の航空攻撃指揮官で、
「エンタープライズ」航空隊とともに日本の空母撃沈に功績のあった人です。

その後「エンタープライズ」航空隊の司令官に就任しました。

LCDR Max Leslie USN April 1942.jpgレスリー

この感状は、「エンタープライズ」の航空指揮官として、
ソロモン海戦、サンタクルーズ諸島沖海戦を戦ったことに対し
その功績を称えたものとなります。

■ エンタープライズに突入した特攻機

その艦暦において、「エンタープライズ」は何度も損傷を受けています。
もっとも劇的でかつ深刻だったのは沖縄における特攻機の突入でしょう。

 

「エンタープライズ」が特攻を受ける瞬間は映像にも残されています。

Kamikaze Attacks against USS Enterprise CV-6 11 April 1945

5月14日、「エンタープライズ」に鹿屋基地から飛び立った零戦が特攻を行いました。
隠れていた雲から突撃してきた富安俊助中尉機は集中砲火を巧みに回避し、
背面飛行に転じた態勢から、前部エレベーターの後部に突入を成功させました。

これに対し「エンタープライズ」はダメコンを行いながらも対空戦闘を継続、
旗艦として任務部隊の配置を守り続けてその練度を称賛されました。

特攻機パイロットの富安中尉の遺体は損壊したエレベーターホールの下で発見されました。
遺体はアメリカ兵と同じように丁重に水葬され、「エンタープライズ」乗員が
取得していた遺品は、つい最近身元が判明して家族のもとに戻ったということです。

 

■ プラン・オブ・ザ・デイ 1942年8月24日

「プラン・オブ・ザ・デイ」Plan of the dayというのは、軍艦の日報のことで、
これは乗員にも情報として回されます。

ここにある「エンタープライズ」発行のPODが興味深いのは
1942年8月24日が東ソロモンでの戦いの日だったことです。

このとき、「エンタープライズ」は三発の直撃爆弾を受け乗員を79名失っています。

左側には時系列で起きた出来事が記してあり、その後に

「2発の爆弾がD-203-1LMとD-3031L、そしてもう1発D-303-Lに落ち、
およそ450のバンクとどこそことどこそこが破壊された」

などと書いてあります。
日報なので、「1600 ハッチ1の早い深夜食」「1615士官早い夕食」
などという事項も淡々と記してあるのがリアルです。

日報の日付が29日となっているのは、当日は記載どころではなく、
5日後に初めてこういった事務仕事に戻れたことを表しています。

ダメージ報告は以下の通り。

1942年8月24日、「エンタープライズ」と「サラトガ 」 が日本軍戦闘艦と接触。
アメリカの空母艦載機は、敵から攻撃を受けながら同時に攻撃を行い、

空母、駆逐艦、輸送船が沈没せしめ、90機の敵機が破壊す。
小型空母と軽巡洋艦が損傷し、日本軍は退却。

被害を受けた米軍艦船が「エンタープライズ」のみ。

8月24日午後5時12分頃「エンタープライズ」が30機の日本の急降下爆撃機から
5分間の激しい攻撃を受け、その間に3回の直接爆撃と4回のニアミスを受ける。

最初の爆弾は攻撃開始から約2分後に着弾、飛行甲板の3番エレベーターを貫通し、
2番目と3番目の甲板の間の42フィート下で爆発した。
30分後、2番目の爆弾が同じエレベーターの近くのフレーム179で飛行甲板に衝突し、
8フィート下で爆発。
その1分後、3番目の爆弾が2番エレベーター近くのフライトデッキで爆発した。

5時17分、艦体から約12フィート離れた水中で爆弾が爆発し、
艦体と飛行甲板を含むいくつかの甲板が恒久的に変形した。

興味深いのは、ここに記されているのは「艦体の被害状況」だけで、
人的被害は多数が死傷したにもかかわらずどこにも言及されていないことです。

コーナーの片隅には「エンタープライズ」の活動に関するフィルムや写真が
放映されているモニターがあります。

「ビッグE」のあまりに長きにわたる活躍は、そのまま第二次大戦の海軍の歴史であり、
海戦史であると言っても過言ではない、というようなことが書いてあります。

そして「エンタープライズ」の歴史を語るには欠かせない艦載機コーナー。
グラマン TBFー1Cアベンジャー雷撃機の模型とその編隊飛行写真です。

アベンジャーは1942年6月4日のミッドウェイ海戦で初めて戦闘に参加しました。
6機のアベンジャーのうち5機が、日本の艦隊に挑み破壊されました。
この残念なデビューにもかかわらず、アベンジャーは第二次世界大戦の残りの期間、
アメリカ海軍の標準的な雷撃機として活躍しました。

いくつかの特別の目的のためのバージョンが建造され、1954年まで
幅広い役割と任務で非常に有効に機能したと言ってもいいでしょう。

アベンジャーズはゼネラルモーターズ社の東部航空機部門によって
TBMと指定されて製造されました。
生産数は7500機を超え、後年その多くはイギリスの艦載機として使用されました。

この3人はアベンジャーのパイロット、ウィリアム・I・マーティン少佐
通信手のジェリー・ウィリアムズ(左)砲手のウェスリー・ハーグローブです。

マーティンは、第二次世界大戦中、USS「ホーネット」USS「エンタープライズ」
パイロットとしてから爆撃機と戦闘機の戦隊を指揮しました。

最終的には大西洋艦隊の最高司令官および大西洋司令部の参謀長となり
提督として引退後は、グラマン社のコンサルタントを務めています。

二人の若いアベンジャー乗員は、この写真を撮ってほどなく戦死しました。

 

 

続く。