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「ドミノ理論」ベトナム戦争への道〜ハインツ歴史博物館@ピッツバーグ

2021-04-19 | 歴史

さて、それではピッツバーグのハインツ歴史センターの特別展示、
「ベトナム戦争」についてじっくりとご紹介していきます。

このエントランスからも、展示がスミソニアン協会の協力と
資料がベースになっていることがわかります。

■ 第二次世界大戦後のベトナムとアジア

ベトナム戦争:1945−1975

1945年、第二次世界大戦でもは壊滅的な傷痕を世界の人々に残して終結しました。
それから我々はどう歩んでいったのでしょうか。

という言葉から展示は始まります。

何度見直してもベトナム戦争が1945年から始まっていることになっており、
これは如何なる意味かと思いますが、続けます。

戦争中に日本が占領したベトナムでは、100万人以上が飢饉で亡くなりました。

うーん・・・軽く書いていますが、これだとまるで日本のせいで飢饉が起こったようですね。

ベトナムは1887年以来フランスの植民地となっていましたが、
ベトナム国内の民族派は1900年になると日本に留学生を送り、
日本の力を借りて独立をしようという運動を起こします。

アメリカ兵の姿が見えることから、独立後でしょうか。
地面に座っている行商の女たちが傘の下から珍しそうに見ているのがわかります。

独立したベトナムは、冷戦による世界の分断に巻き込まれることになります。

マッカーサーとトルーマンの後ろの地図をご覧ください。
赤で示されているのが当時の共産主義&社会主義国です。

「赤」が文字通り共産主義と社会主義の色であることは、
1800年代半ばに

「不当な資本主義システムの中で苦労している労働者の血」

を表すものとして定着しました。

日本が去った後、ベトナムに進駐したのは中国とイギリスでした。
続いてフランスが進駐し傀儡政権を樹立、再びベトナムの植民地化を試みます。

その少し前のアジアの状況が記されています。

1950年6月25日

北朝鮮が南朝鮮に侵攻
トルーマン大統領はフランスを支援するためにベトナム、ラオス、
カンボジアに軍隊を増援

1950年6月30日

トルーマン大統領、大統領令において陸軍を南朝鮮を
議会による宣戦布告の承認を得ずに実行

C-47輸送機はフランスのため軍事物資を輸送
トルーマン大統領、徴兵制の継続を承認する法案に署名

朝鮮戦争への介入の準備ですね。
第二次世界大戦が終わってほっとしていた国民も、
このニュースには失望し、さぞ反発したのではないかと思われます。

■ インドシナ戦争

アメリカの軍事援助

フランスは1946年から54年にかけて、ベトナム、ラオス、カンボジアでの
植民地支配を維持するために戦争を行いました。

アメリカはこれを支持しました。

トルーマンとアイゼンハワー大統領は、
インドシナでの共産主義者の乗っ取りを防ぐためには
植民地支配の維持が必要であると考えていました。

フランスがホーチミンの下で共産党主導の独立運動を打ち負かすのを助けるために、
アメリカはこの戦争のスポンサーとなり、費用の大部分を支払っています。

その割合はほとんど80%となっていますが、これって
本体というか中の軍はアメリカだったんじゃね?ってくらいですね。

その具体的なアイテムは、

大砲など 5,045

車両 30,887

銃 361,522

戦車 1,880

軍艦 2

航空機 454

に及びます。

結局、フランスはベトミンとして知られるホーの戦闘機に敗れました。

Vo Nguyen Giap2.jpg

軍指揮官であり「赤いナポレオン」と異名を取ったヴォー・グエン・ザップ将軍です。
優れた軍事戦術家であったザップは機動性を重視した戦略を好み、
その動きは神出鬼没と呼ばれ、その指揮ぶりは敵からも味方からも
畏敬の念を持って語られるほどだったといいます。

この戦争の最後の戦いは1954年のディエン・ビエン・フーで行われ、
フランスは敗北を認め、スイスのジュネーブで行われた国際会議で
ベトナムから撤退することを余儀なくされました。

 

■ ハリー・トルーマン大統領と朝鮮戦争

「アジア共産主義をターゲットにしたトルーマン」

核爆弾がもしニューヨークに落とされたらどうなるでしょうか?

1950年、コリアーズマガジンは、この絵画を添えた記事で
その恐ろしい結果を想像して見せました。

「紫とピンクがかった茶色の大きな波が街中に渦巻き、
それは数百フィートの高さで、怒れる海のように急上昇する。

家々が粉塵と化しブラウンストーンだけになった廃墟。

その波の向こうには禍々しい火が真紅に輝いている」

コリアーズはアメリカの原子爆弾が日本にもたらした壊滅と
その後の荒廃をアメリカ人に思い起こさせたのです。

超大国間の冷戦が引き起こす核戦争への恐れは世界中の人々にもたらされました。

この記事は、アメリカが対峙している冷戦の敵から齎されるものとして
その脅威に対する予防策を喚起する目的をもっていました。

第二次世界大戦後、自然発生的に始まった冷戦は、つまり
アメリカの民主資本主義対ソビエト連邦の共産主義の対立です。
対立の果てに得るものは、世界への影響力、つまり覇権でした。

ソビエト連邦が1949年に原子爆弾の試験に成功したあと、
緊張が急激に高まります。

そしてその同じ年、中国の共産主義者たちは内戦に打ち勝っていました。

驚いたことに、当時のアメリカにおける多くの当局者は、
アジアにおける共産主義の拡大を阻止するために、

「アメリカはより軍事的に行動しなければならない」

と結論づけたのでした。

余談のようですが、2020年に行われたアメリカ大統領選の混乱において
今まで断片的だったアメリカの政治の流れというか、
それをコントロールする大きな勢力の欲望みたいなものが
世界の人々に可視化できるようになってきたと思いませんか?

それでいうと、なぜアメリカが絶え間なく戦争に介入してきたか、
どんなお花畑の住人にもうっすらわかってくることがあります。

つまり、アメリカは戦争を望む勢力が政治に働きかけ、
それを実現させ続ける国であるということです。

この時アメリカの軍事行動を決定したのがその勢力であり、
その後のアメリカが関与した戦争の影にも
常にその推進力が働いていたというのがこの「結論」に現れています。

さて、この「結論」をを受けてトルーマン大統領はどうしたでしょうか。

トルーマン大統領はベトナム戦争のためにフランスに武器と金銭の寄付を行いました。
フランスは、ベトナム、ラオス、カンボジア(仏印インドシナ)を
再植民地化するために、共産党主導の独立運動と戦っていたのです。

この「反共産主義」こそが、アメリカを朝鮮戦争に導いた理由でした。

共産主義だった北朝鮮が1950年に韓国に侵攻を行ったとき、アメリカは
共産主義勢力と戦うために国連が承認した連合を組織し、主導しました。

その後の血生臭い戦争は3年後行き詰まりに終わりました。


朝鮮戦争で最も激戦となった長津湖(Chosin Resavoir)の戦いにおける海兵隊

このモニターは「WHY KOREA?」というドキュメンタリーを放映していました。

1950年度のアカデミー賞を受賞したこの作品は、20世紀フォックスが
米国政府と共同で、アメリカがなぜそのような遠い地域の紛争に介入しなければならないか、
その理由を世論に訴えるために製作したものです。

トルーマン大統領とその政府は、全米の映画館・劇場の所有者に
この映画を上映するようにと強く促しました。

アメリカの映画界が政治と深く結びついていることを、こんにち
世界中の誰もが知っていますが、決してそれは政府によって強権的に命令され
背面服従で従っていたというような構図ではないとわたしは思います。

映画界もまた戦争というビジネスによって恩恵を受け続けた企業だったということです。

しかしながら、「真珠湾」のような「リメンバー案件」を持たない朝鮮戦争に対しては、
さすがのアメリカ国民も否定派が多かったというのは事実です。

やっと終わったと思ったのにまた戦争か、しかも反共を旗印に?それ俺らに関係ある?
とうんざりする気分が蔓延しており、
この映画もそれを払拭するために作られました。

ちなみにこのとき、オハイオ州の映画業界団体は、

「聴衆全員がトルーマンの朝鮮政策を支持しているわけではない」

として、この上映を拒否しました。

■ アイゼンハワー大統領

ベトナムの分割を提案したアイゼンハワー

ベトミンはフランスに勝利しましたが、1954年のジュネーブ協定において、
一時的にベトナムは二つに分割され、統一を望んだ
ホーチミンはこれに反発しました。

しかし、アイゼンハワー大統領のベトナム共産主義支配に対する拒否感は、
米国の直接介入に対する「やる気」をビンビンに感じさせたので、
ソ連と中国は慌ててホーの支持にまわり、北緯十七度線で
国境を一時的に仕切る決定を受け入れるように彼に勧告しました。

そのうえで国を再統一するための選挙を1956年に設定したのですが、
南ベトナムのゴ・ディン・ジエム大統領とアメリカの指導者たちは、
どうせホーが勝つと信じていたため、選挙を行いませんでした。

アメリカの批評家たちは、選挙を免除することそのものに疑問を呈しましたが、
アイゼンハワーは、それに対し、

「もし共産主義者たちが選挙結果を『盗む』ようなことがあったら、
アメリカの国益が危機に瀕するから選挙はしない」

と言い放ちました。

そうして、事実上の国境がベトナム北部と南部を分離し、
ホーチミンは北部の共産党政府を、
そしてゴディンジエムは
南部の反共産主義政府を率いるという体制ができたのです。

つまりベトナムを二つに分けたのはジュネーブ協定であり、
ソ連と中国であり、アメリカだったというわけです。

ドミノ理論

「最初のドミノを倒すと最後のドミノまで崩壊は一直線である

当時最も影響力のあったアイゼンハワーは、1954年、この支配的な比喩を使用して、
ダレス国務長官とともにベトナムとその隣国の問題へのアメリカの関与を主張しました。

この「ドミノ理論」とはつまりこういうことです。

「ある一国が共産主義化すれば、ドミノ倒しのように
隣接する国々も次々に共産主義化する」


この映画と地図のドミノは、1964年のCBSニュースに登場したものです。

ニュースが放映された1964年までに、アイゼンハワーの次のジョンソン大統領は
アメリカ軍のこの地域への関与をさらに拡大していました。

自由への道? North to South

ジュネーブ協定後10カ月で、ほぼ100万人の北部ベトナム人が南に移動しました。
その期間中だけ、北ベトナムと南ベトナムの間で自由な移動が許可されていたのです。

大量の移民を生んだひとつの要因として、北ベトナムで起こっていた
過酷な土地再分配の問題があったといわれています。

加えて、盛んに行われた米国発の反共産主義のプロパガンダと、移民の移動のために
アメリカ政府が無料で提供した交通機関もその動きに一役買っていました。

 

 

続く。

 


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3 Comments

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バチバチ (Unknown)
2021-04-20 12:54:02
イギリスが第二次世界大戦で没落した後、アメリカは世界一になりましたが、それに挑戦したのがソ連。「戦争を望む勢力」が働き掛けなくても、遅かれ早かれバチバチしたと思います。

ソ連が崩壊して、次に台頭して来たのが中国。やっぱりバチバチになってますよね。中国がのして来たのは、中国自身の勢い(努力)であって、アメリカで「戦争を望む勢力」の働き掛けではないと思います。

人類の六人に一人は中国人。その力は圧倒的ですが、急速な高齢化もあり、ピークアウトするのは、あと10~20年くらいでしょう。そこまでアメリカがリングに立っていられたら、またもや、アメリカの勝ちだと思います。

アメリカが東海岸から西海岸まで版図を広げて来たように、中華人民共和国は建国以来、チベット、ウイグル、香港と版図を広げて来ました。台湾で集大成でしょう。

尖閣諸島の魚釣島には標高400メートル近い高地があります。台湾に攻め込む場合、この頂上にレーダーやミサイルを置けば、沖縄から台湾への出撃は難しくなります。中国がやる気なら、押さえに来るでしょう。その気にさせないことが大事です。
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北部仏印進駐 (お節介船屋)
2021-04-21 10:04:01
1939年アメリカから日米通商航海条約の廃棄が通告され、1940年屑鉄全面輸出禁止とされました。次に石油が禁止される事は自明の理でした。石油が禁止されれば5か月くらいで干上がってしまいますので南方から資源を得るためにベトナムへ軍隊を送っておく計画を立てました。

ベトナムにはフランス傀儡政府の総督府があり、中国に米英から軍需物資を送っておりこれを遮断する意味もあり、交渉しますが自国が破れており、総督府は承諾します。

進駐ですから平和裏に実施する予定が手続きがごたごたしていた9月23日若い参謀がいきまき、日本陸軍進駐部隊が仏印軍と戦火を交えました。
交渉していた現地の政府派遣の責任者が「統帥乱れて信を中外に失う」との歴史的な名言となったように世界的信用を失うみっともない事象でした。

南方に手を出せば米英との全面戦争となる事は分っていましたが海軍も石油等がなければ動けなくなりますので、対米強硬派で南進派の岡敬純、富岡定俊、高田利種、石川信吾、神重徳等が暗躍し、海軍人事面も牛耳り、及川海相も使い、陸軍や松岡洋右外相ともに政治をも動かして戦争へとなって行きました。
参照平凡社半藤一利著「昭和史」
返信する
第1次インドシナ戦争 (お節介船屋)
2021-04-22 10:16:32
日本敗北と連合国上陸のはざまを見逃さず、ホー・チ・ミンは速くも8月19日から25日ハノイ、フエ、サイゴンで数千万の人民が蜂起しました。9月2日にはベトナム民主共和国として独立を宣言しました。
これに対しサイゴンでイギリス軍の支援を得たフランス軍がインドシナ権益を手放す気はなく戦端を開き、サイゴンを占領しました。
半年後の1946年3月6日停戦の予備協定をパリ結びます。ホーは外交交渉で独立を目指しますがフランスは植民地を手放す気はなく各地を占領していきます。ハイフォン、ハノイと占領を進めていきますがベトミン軍だけでなく市民も蜂起しゲリラ戦に徹し、市街戦が繰り広げられます。武器は日本軍の大量の武器が日本軍の撤収後開錠されたままの保管所から入手されました。
1950年にはフランス軍は12万人を越えますが執拗なゲリラ戦が繰り返されました。1949年中国人民共和国が出来、この年中共軍との連携が成立、1950年中国及びソ連がベトナム人民共和国を承認しました。支援を得て質、量、装備武器が飛躍的に向上、一方フランス軍はマダガスカルやアルジェで緊張が高まり、余裕がなくなりました。交通遮断作戦等でフランス軍の兵器を奪取、フランス軍3個師団が参加したベトバック攻防でフランス軍を翻弄します。
都市を確保しているだけのフランス軍はアメリカの援助で航空優勢でありベトミン軍を過小評価していました。
南ベトナム軍も20万を超えており、1953年指揮官となったナバール中将がナバール計画として攻勢を掛けようとして選んだのが1954年デイエンビエンフーの戦いでした。負けるわけがないと言われた要塞と最先端近代兵器を持ったフランス軍が破れ9年に渡る植民地支配の終焉となりました。

ホーとグエン・ザップは毛沢東の遊撃戦略論を基本に第1は防衛戦、第2はゲリラ戦による勢力均衡、第3は正規軍による総反攻の3段階のダイナミック戦略を実践し勝利しました。
フランス軍は全くこれを理解できず相手を過小評価し近代兵器で勝てると判断したことが敗因では?
この後のアメリカ軍は?

参照日本経済新聞出版社野中郁次郎、戸部良一、河野仁、麻田雅文著「知略の本質 戦史に学ぶ逆転と勝利」
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