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”Too Close For Comfort " レイテ沖海戦〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-04-07 | 博物館・資料館・テーマパーク

スミソニアン航空博物館プレゼンツ「空母の戦争」特集、最終回です。
このコーナーによると、太平洋において空母を使った戦闘が行われたのは10、
しかし、そのうち「どちらもの陣営に空母を置いて戦われたもの」となると、

珊瑚海海戦(1942年5月8日)

ミッドウェイ海戦(1942年6月〜7日)

南太平洋海戦(1942年10月26日)

第二次ソロモン海戦(1942年8月23〜24日)

マリアナ沖海戦 (1944年6月19〜20日)

レイテ沖海戦(1944年10月20〜25日)

ということになります。
スミソニアンの「空母の戦争」コーナーでは、あくまでも
「どちらかが空母を使った」という縛りで紹介がされています。

■ レイテ湾の戦い

「日本艦隊の終焉」とサブタイトルが付けられています。
この端的なタイトルがレイテ沖海戦の全てを表しています。

前回のクェゼリンからトラック島までの飛び石作戦のあと、
日米両軍の間にマリアナ沖海戦が起こり、この結果、日本海軍は
空母三隻(大鳳、翔鶴、飛鷹)、艦載機多数と搭乗員を失う敗北に終わりました。

アメリカ軍のフィリピン奪回を日本が少ない兵力で阻止せんとしたのが、
この6日間の戦闘で、その中には4回の海戦が含まれます。

その四つの海戦とは、図の位置で行われ、時系列で並べると、

1、シブヤン海海戦(24日10時27分開始)

2、サマール沖海戦(25日6時57分開始)

3、エンガノ岬沖海戦(25日8時15分開始)

4、スリガオ海峡海戦(25日22時36分開始)

となります。

豊田副武

■ 日本の計画

10月17日の午前8時20分ごろ、アメリカ陸軍のレンジャー部隊が
レイテ湾の河口にある島々に上陸を始めました。

日本軍は三つの海軍兵力のコンビネーションでこれを迎え撃つことになりました。

北艦隊(旗艦空母)〜ハルゼー提督率いる高速空母機動隊を侵攻目的地から引き離す

中央艦隊(戦艦・巡洋艦)〜サンベルナディノ海峡を出て侵攻軍を撃破

南艦隊(戦艦・巡洋艦)〜スリガオ海峡を抜け海岸線より侵攻する敵を撃つ

計画の成功に不可欠なのは聯合艦隊の重機関銃と陸上航空機の投入でした。

ここで日本の豊田副武中将の紹介があります。
ADM. SOEMII TOYODAとなっているのはご愛嬌ってことで。

「聯合艦隊1Sの最高司令官である豊田副武は、アメリカの艦隊が
崩壊しつつある大日本帝国の外側に最初に上陸し、
レイテ湾に侵攻せんとする1944年の5月に就任しました。

豊田はのちにこのように回想しています。

もし万事うまくいけば予想外に良い結果を得るかもしれないが、
最悪の場合、聯合艦隊そのものを失うという可能性はあった。
フィリピンの損失を犠牲にしてまで艦隊を救う意味はない』」

負けた指揮官が色々言われるのはこれはどうしようもないとしても、
この人、「大和特攻」を決めた時もこんなこと言ってましたですね。

「大和を有効に使う方法として計画。
成功率は50%もない。うまくいったら奇跡。
しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと思い決定した」

成功率50%以下の作戦に投入する「大和」とその乗員の生命について
なにか思うところはなかったのか、と聞いてみたい気がしますが・・・。

 

■ レイテ上陸作戦

ウィリアム・F・ハルゼーJr. 提督 
ADM. William F. Halsey Jr.

上の海戦図をご覧いただけばわかりますが、ハルゼー艦隊は
小沢艦隊の陽動作戦にはまって担当海域を離れてしまいました。

護衛空母部隊が栗田健男中将が指揮する第一遊撃部隊との戦闘で
ハルゼー艦隊に救援を求めることになり、ニミッツがこのとき打った有名な電文は

”TURKEY TROTS TO WATER GG FROM CINCPAC ACTION COM THIRD FLEET INFO COMINCH CTF SEVENTY-SEVEN X WHERE IS RPT WHERE IS TASK FORCE THIRTY FOUR RR THE WORLD WONDERS”

「WHERE IS RPT WHERE IS TASK FORCE THIRTY FOUR
RR THE WORLD WONDERS」

(第34任務部隊は何処にありや 何処にありや。
全世界は知らんと欲す)

最後の「全世界はそれを知らんと欲す」は、
電文の意味をわかりにくくするために
付けた意味のない一文だったのですが、
それがアメリカ人なら誰でも知っている
テニスンの詩の一節で、
しかも前文と違和感なく意味がつながってしまったため、

ハルゼーはこれを皮肉をいわれたと思い込んで激怒しました。

ハルゼーは救援を無視し、名前の通りの
「Bull's Run(猛牛の突進)」
小澤艦隊を追撃し、
4隻の日本の空母を撃沈しました。

ハルゼーが罠にはまっておびき寄せられたこと自体は彼の失態であった、
とする歴史家もいますが、アメリカ軍にとって日本の空母壊滅の目的を達し、
結果的に海戦の勝利ということになり、文字通りの「勝てば官軍」として、
ハルゼーはゴールドスター勲章を授与されています。

陸軍部隊のタクロバン上陸

1944年10月20日、
グラマン・アベンジャーが舟艇で上陸する陸軍の掩護をしています。
これらの航空機は、トーマス・C・キンケイド副提督が指揮する
 18隻の護衛空母のグループを含第7艦隊侵攻艦隊の護衛空母から発艦したものです。

■ マッカーサーの戦争

海軍がクェゼリンにはじまってマーシャル諸島をトラックまで
飛び石のように侵攻していたとき、マッカーサーは南西太平洋軍として
連合軍の協力のもと、ニューギニアを制しておりました。

マッカーサーが誇大に勝利を発表して自分の成果にしたため、
同盟国であるオーストラリア軍の働きはほぼなかったことにされるなど、
色々後世には言われているようですね。

マッカーサーの太平洋戦争

 

"People of the philippines!  I have returuned."

スミソニアンではこの写真にこの言葉を添えていました。
1944年10月20日、ダグラス・マッカーサーはレイテに上陸し、
フィリピン人に向けてこの一文で始まる麗々しい文章を記念に残しました。

フィリピンの民よ!私は戻ってきました。

全能の神の恵みによって、私たちの軍隊は再びフィリピンの土の、
つまり我々の血の上に奉献された土壌の上に立っています。

私たちは、あなたの日常生活から敵の支配の痕跡をすべて消し、
破壊できない力の基盤の上に人々の自由を回復するという任務を成し遂げました。

私の側には、偉大な愛国者マニュエル・ケソンの後継者である
セルヒオ・オスメナ大統領とその内閣のメンバーがいます。
あなた方の政府はフィリピンの土壌にしっかりと再建されました。

(中略)

バターンとコレヒドールを忘れない、不屈の精神です。
我々の戦線が前進し、戦いの場にあなた方を連れていくので、
そのときは立ち上がって攻撃してください!
あなたの息子と娘の将来の世代のために、戦うのだ!
祖国の神聖な死者の名において、戦うのだ!
心を強く保ちすべての腕を鋼で固めましょう。
神の導きが道を示しています。

義にかなった勝利の聖杯に神の名を讃えよ!

 

■ エンガノ沖海戦

「比島決戦」というタイトルの当時のニュース映画が見つかりました。
フィリピンでの海戦であり、空母が登場するからには、
これがエンガノ沖の小澤艦隊か?というタイトルは正しいものです。

搭乗員が出撃前に水杯を上げているシーンが映っています。
彼らは司令から

「母艦には帰ってくるな」

と言われていたといいます。

帰ろうにも、エンガノ沖海戦で投入され旗艦「瑞鶴」はじめ
「 瑞鳳」「 千歳」「 千代田」4隻の空母は、
ブル・ハルゼーの怒りに任せた執念の攻撃により全部撃沈されるわけですが。

「千歳」 艦長岸良大佐以下468名戦死

「瑞鶴」 艦長貝塚少将以下843名戦死

「千代田」 艦長城大佐以下全員戦死

攻撃を受ける「千代田」

「瑞鳳」だけは駆逐艦「桑」に艦長以下847名が救助されました。
このフィルムは、「瑞鳳」に乗り込んでいた竹内広一カメラマンが撮影したもので、
乗員が救出されたため、レイテ沖海戦の貴重な映像を持ち帰ることに成功したのでした。

攻撃を受ける「瑞鳳」

フィルム冒頭には竹内氏始め報道班員の名前が6名記載されています。
実は小澤艦隊の各艦には、彼らが特派員として乗り込んでいたわけですが、
あの有名な「瑞鶴」総員退艦前に行われた国旗降納の万歳シーン、↓

これを撮ったのは軍人ではなく、報道班員だったことがはっきりしました。
この人はこの後駆逐艦に移乗し、無事に帰国できたということになります。
「瑞鶴」から「初月」に移乗した人たちは、「初月」が撃沈されて死亡しています。


全員戦死したという「千代田」に乗っていた報道班員も殉職したのでしょうか。

「瑞鳳」に乗っていたカメラマンの撮影した映画を見ていただくと、
敵の航空機を撃沈したこと、着水した航空機の乗員を救助しに行くシーンなどがありますが、
その後の(肝心の)経緯については全くないので、これを見た人は
まさかこのあとカメラマンの乗った空母が沈没したなど夢にも思わないでしょう。

ましてや、冒頭の人々のうち何人かは確実に亡くなっていることも。

 

さて、ハルゼーは実のところオトリ作戦に引っかかったわけですが、
彼にとっては幸運なことに、囮作戦に成功したと判断した小沢長官の

「敵機動部隊を誘致」

という電報は何故か栗田艦隊には届かなかったため、栗田長官は
米機動部隊の在り処を判断する術なく、レイテ湾突入を目前にして
あの「運命の反転」を選択してしまうことになります。

そして日本軍は最後の空母のみならず、組織的なレイテ湾突入の機会を永久に失います。


冒頭に挙げた絵画ですが、ウォー・アーティスト、Tom W. Freeman作の

TOO CLOSE FOR COMFORT

というタイトルの水彩画です。

同名のジャズのスタンダードソングの歌詞だと、この意味は

「あなたとの距離が近すぎて怖い(ドキドキ)」

なのですが、この場合の『あなた』とは艦首に菊をつけた戦艦であり、
ドキドキというよりスレスレでヒヤヒヤ、となります。

1944年レイテ湾の戦いにおいて、米軍のドナルド・D・エンゲン中尉
空母「瑞鶴」に急降下爆撃を命中させました。
この絵に描かれたのは、エンゲン中尉が、その爆撃の後に行われた対空砲を躱すために
帝国海軍の戦艦「日向」の艦首の下方を飛んでいる瞬間です。

この成功によりエンゲンは戦後海軍で中将にまで昇進しました。
どうしてさほど有名でない?海軍中尉の攻撃の絵がここにあるのかというと、
彼は海軍を退役後、1996年にスミソニアンのディレクターになったからです。

その3年後、おそらく現職のまま、彼は操縦していたグライダーが墜落して
75歳の生涯を閉じてしまいました。

 

さて、というわけで、全ての空母(といっても艦載機は4隻全部足しても
『エンタープライズ』の艦載機の数にも満たなかったといいますが)
を失い、その前に載せるべき飛行機も失い、日本はこのあと
最悪の道を選択するしかないところまで追い込まれていきます。

 

続く。

 

 

 



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4 Comments

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大和が沈まないと戦争は終わらない (Unknown)
2021-04-07 17:49:17
今日は大和忌(大和が沈められた日)です。頭がおかしいと言われるかもしれませんが、海軍(自衛隊も含めて)軍人としては、立派な船が残っていると負けた気がしないんですよ。大和が沈まないと戦争は終わらない。それをうまく説明している動画があります。

https://www.youtube.com/watch?v=qK42FwsMCpM

レイテ海戦では、船をすり潰す戦いをしたと思います。大和の沖縄特攻に至っては、最悪とも言えます。でも、言い方を変えれば、三千人の命を犠牲にすることで、戦争をやめる方向へ持って行くことが出来、広島、長崎に核攻撃を受けても、とことん戦い続けたとしたら、亡くなったであろう命(恐らく、多くが民間人)を救うことが出来たとも思えるのです。
返信する
豊田副武 (お節介船屋)
2021-04-08 10:12:06
マリアナ海戦の作戦指導に問題があった豊田連合艦隊司令長官は海戦前に大将となった航空本部長も経験した太平洋戦争3代目の長官でしたが、航空戦についての見識がありませんでした。
この長官を語る前に山本長官の後、昭和18年4月21日親補された2代目の古賀峯一長官をコメントします。
海軍反省会の話題にもなりますが福留繁参謀長ともども大艦巨砲主義でした。空母機動部隊の必要性は理解していましたが、訓練が必要な機動部隊を訓練出来ない東京湾に集結させたり、18年7月中部ソロモンに第2航空戦隊の艦載機を派遣したりして消耗させました。18年11月にも「ろ号作戦」として空母艦載機を派遣、第2艦隊をラバウルに進出させ被害を受ける無謀な作戦を実施しています。ソロモンでの戦いで艦載機の消滅や敗戦とさせています。
昭和19年3月31日パラオからダバオ移動中行方不明となりました。福留参謀長はゲリラの捕虜となり交渉で解放されますが本人は否定しましたが作戦計画書が敵に渡っていました。

豊田長官の親補は昭和19年5月3日であり、1か月以上の空白がありこの間は南西方面艦隊高須四郎司令長官が継承していましたが司令部が全作戦を指揮できず、南西方面に偏り、基地航空隊を無為な移動させ100機以上の航空機を損失させています。
マリアナ沖海戦時航空部隊の練度が低く、アウトレンジ戦法には無理があることは航空関係者が分かっていたのに豊田長官、小沢長官も理解せず作戦実行し、敵に七面鳥撃ちとまで言われる完敗を記してしまいます。
昭和20年5月20日軍令部総長となりましたが、敵を知らず、己を知らず、「あ号作戦」「捷号作戦」、台湾沖航空戦、大和特攻、航空機特攻を指揮、闘志は旺盛なものの戦争をどうするのか、国民の敗戦受け入れをどうするか考慮した形跡がありません。

海軍反省会でも話題となりました開戦時32万の海軍で佐官以上の士官は約2,000名で海軍大学校で教えられた作戦要務令は昭和9年以降改訂されず、頭の固い上級士官で戦い、柔軟な発想や対応が出来ず敗れ去りました。参謀も少なく長官等の補佐が十分ではありませんでした。
平時の陣容で戦前の頭での対応では?
参照光人社奥宮正武著「太平洋戦争と十人の提督」
返信する
マリアナ沖海戦 (お節介船屋)
2021-04-08 15:06:28
あ号作戦として敵機動部隊の撃滅を企画し、基地航空隊たる第1航空艦隊と空母及び支援艦隊の第2,3艦隊を統合した第1機動艦隊を昭和18年7月と昭和19年2月に編成されました。

第1航空艦隊は訓練終了まで温存される予定が昭和19年2月にテニアンに移動し、に5月かけ迎撃や攻撃で天山、彗星等の新鋭機もパイロット練度不足、整備員整備能力不足や品質不良もあり準備した7~800機が失われて行きます。

第1機動艦隊も空母9、戦艦5、重巡11、軽巡2、駆逐艦31隻で艦戦225、艦爆117、艦攻99、艦偵9機を整備しましたがベテラン搭乗員は少なく、米潜の出没でタウイタウイ泊地で1か月以上訓練が出来ず、練度不足に致命的でしたが小沢長官ですら認識不足でした。

第1航空艦隊は角田長官の積極的な攻撃命令のため2月から6月の敵機動艦隊の攻撃や空襲で多くの機が各個撃破され、6月下旬には約50機のみと壊滅してしまいました。
その上福留参謀長の持っていた「連合艦隊機密作戦命令第73号」が敵の手に渡ってしまっていました。

サイパン上陸であ号作戦が発動された時、スプルーアンス中将はこの機動部隊が空母9隻で460機の航空機であることも知っていました。

小沢艦隊は6月18日索敵機31機で米機動部隊を発見、攻撃が夜間になるため諦め、19日索敵機43機を発進しました。
敵空母を700㎞先に発見、アウトレンジ戦法を実施、第1次67機、第2次128機を発進、約40から75㎞前で迎撃され、空母にたどり着いた機もVT信管付きの対空砲等で撃墜されました。

なお1次発艦直後旗艦大鳳は米潜アルバコアの魚雷1本を右前部に受け、前部エレベーター故障、6時間後このエレベーター部を塞ぎ、ガソリン爆発を起こし、2時間後沈没しました。
翔鶴も米潜キャバンの魚雷3発を受けガソリン爆発し、沈没しました。この2艦に搭載されていた100機の航空機も失われました。
第3次攻撃47機が発進しましたが空中集合が出来ず、敵に向かい敵戦闘機と空中戦で被害がありますが空母発見できずばらばらに帰投します。その後18機、15機、47機とばらばらに発進、またも空母発見できず、ロタ島やグアム島に向かいました。これらも敵戦闘機と交戦、着陸出来た機数は僅かでした。
20日敵空母発見で僅かの攻撃機を発進させますが米攻撃機150機の攻撃を受け、「飛鷹」、給油艦2隻が撃沈されました。この日発進した攻撃機は敵発見できず空中衝突もあり、帰投した8機は瑞鶴を発見できず駆逐艦近傍に不時着しました。
結局291機を失い残機は35機となり、ベテランパイロットも大半戦死し、与えた被害は少数艦の小破のみ。マリアナの七面鳥撃ちとは

スプルーアンスの第5艦隊は正規空母7、軽空母8、戦艦7、巡洋艦21、駆逐艦69隻合計112隻、艦載機は891機で戦闘機は475機。
ただ1回のチャンスは初日の薄暮攻撃が出来ていれば敵空母に被害を与えていたかもしれないと言われています。その場合は確かに攻撃隊は帰れず、グアム島でも空襲で失われていたかも知れませんが。

参照光人社「写真太平洋戦争第7巻」、新人物往来社「太平洋戦争海戦全史」
返信する
レイテ海戦 (お節介船屋)
2021-04-09 11:35:02
マリアナ沖海戦後、サイパン、グアム島、テニアン、ペルリュー島等が占領されて行きました。
第1航空艦隊角田長官はテニアン島で昭和19年8月2日、中部太平洋方面艦隊南雲長官は7月8日サイパン島で司令部ともども玉砕しました。なおサイパンでは戦闘中でも米軍は無傷の機を含めて最新の零戦五二型21機等を鹵獲し、本土に持ち帰り性能を把握していました。

第1航空艦隊は寺岡謹平中将が19年8月12日長官となリダバオで再建、9月までに408機、実働250機になっていました。9月10日ダバオ湾米軍上陸の誤報で分散していた航空機をセブ等に集め、攻撃を発動したところで誤報と分かり、警戒を解いたところで空襲があり、150機以上が失われ、陸軍機65機、艦艇13隻商船11隻も失われました。
比島決戦前に基地航空隊は失われ、特攻となってしまいました。

レイテ海戦は昭和19年10月23日から26日の期間でしたがレイテ上陸に先だち日本の航空勢力撃滅のためハルゼーは強力な空母群で台湾方面空襲との戦いが、10月12日から16日に戦われました。台湾沖航空戦。
ありもしない空母11隻、戦艦2隻等撃沈撃破数十隻、撃墜112機等を発表します。陸軍機を含め300機以上を失いますが与えた被害は重巡1、軽巡1大破のみでした。
あとで大戦果は誤りと分かっても訂正しませんでした。
これが陸軍のルソン決戦からレイテ決戦に変更で移動や各個撃破され最大の被害たる数十万の陸軍兵の損害に至ります。

レイテ沖海戦は大海戦であり、第1遊撃部隊第1部隊栗田指揮戦艦3、重巡6、軽巡1、駆逐艦9、第2鈴木義尾指揮戦艦2、重巡4、軽巡1、駆逐艦6、第3西村祥治指揮戦艦2、重巡1、駆逐艦4、第2遊撃隊志摩清英指揮重巡2、軽巡1、駆逐艦4、機動部隊小沢指揮空母4、航空戦艦2、軽巡3、駆逐艦8に対しての第3艦隊、ミッチャー第38任務部隊第1群空母4、重巡1、軽巡1、駆逐艦17、第2群空母3、戦艦2、重巡1、軽巡2、駆逐艦16、第3群空母4、戦艦2、軽巡4、駆逐14、第4群空母4、戦艦2、重巡2、駆逐11、オルデンドルフ指揮第77任務部隊戦艦6、重巡4、軽巡4、駆逐21、魚雷艇39、スプレイグ指揮護衛空母6、駆逐3、護衛5の参加艦艇でした。

23日パラワン水道で第1遊撃部隊が旗艦愛宕が米潜ダーターに魚雷を受け沈没、高雄大破、デースの魚雷で摩耶沈没、シブヤン海で24日艦載機空襲で武蔵沈没、大和、長門、妙高、矢矧被弾で戦艦4、巡洋艦8、駆逐艦11隻に減少しました。
25日第1遊撃部隊はサン・ベルナルデイノ海峡通過、西村部隊はレイテ湾突入前に駆逐艦等の魚雷、戦艦の砲撃を受け戦艦2、駆逐艦3沈没、重巡1大破、第2遊撃隊は軽巡1魚雷艇に撃破され現状把握できず引き返す時、西村部隊の最上と那智が衝突、最上処分で敗退しました。
第1遊撃隊はスプレイグ部隊発見攻撃正規空母と見誤る。護衛空母ガンビアベイ撃沈するも艦載機の反撃等で鳥海、筑摩、鈴谷沈没、熊野大破等の被害を受けました。

小沢部隊は58機を発進させましたが戦果なく米第38任務部隊の攻撃で瑞鶴、瑞鳳、千代田。千歳、多摩、秋月、初月沈没、その他の艦も損傷、損傷の少ない五十鈴、霜月等が沈没艦の乗員救助しました。

レイテ湾突入し、艦船攻撃の目的は実施せず、被害は大きく、戦果は特攻機のものにも及ばず、第1遊撃隊は敗退しますが帰途ミンドロ島付近でハルゼー部隊の追撃を受け能代、早霜、野分、藤波を撃沈されました。

参照光人社「写真太平洋戦争第7,8巻」新人物往来社「太平洋戦争海戦全史」
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