■ソロモン海海戦
第一次ソロモン海戦は夜戦となり、戦略的には圧倒的な日本海軍の勝利でしたが、
ここスミソニアンのテーマはあくまでも「空母の戦争」でありますので、
空母が運用されなかったこの夜戦については、勝敗にすら言及されておりません。
スミソニアン航空博物館いうところの「空母の戦争」が行われるのは
第二次ソロモン海戦からということになります。
というわけで写真は8月24日、第二次ソロモン海戦における
USS「エンタープライズ」の戦闘準備の様子です。
日本軍は、3隻の空母を含む聯合艦隊のサポートによって、ガダルカナル島に
1500人から軍勢を送り込み、兵力を強化する作戦を立てました。
それに対し、フレッチャー提督は「サラトガ」「エンタープライズ」
そして「ワスプ」を率いて立ちはだかりました。
日本海軍の戦略は、軽空母「龍驤」を主力艦隊の前方に送り、
ヘンダーソン基地を迂回攻撃してフレッチャー提督を戦争に誘い込むことでした。
その目的は、残る重量級の戦力を全て投じてアメリカ空母を潰すこと。
「エンタープライズ」と「サラトガ」はガダルカナル島の東に向かって急行し、敵機動部隊の位置についての連絡を待っていました。
一方「ワスプ」は南方で燃料の補給をしていました。
「エンタープライズ」偵察機は午後に敵空母を発見して攻撃を試みましたが
ほとんどこれに成功せず、「サラトガ」のアヴェンジャーとドーントレス隊は
「龍驤」に激しい攻撃を続けました。
日本軍の狙い通り、「龍驤」はいわば囮としての目的を果たしていたのです。
その頃、すでに日本空母打撃群の航空機は東に向かっていました。
空母「エンタープライズ」と「サラトガ」をターゲットとして。
ビッグ「E」撃たる
敵の爆撃に対し、十分な予防策を取っていたにもかかわらず、
「エンタープライズ」はその日の午後遅くに行われた激しい日本軍の航空攻撃で、
三発も爆弾を見舞われることになりました。
午後4時47分、日本軍の攻撃は終わりました。
「エンタープライズ」の乗組員は、攻撃と同時に消火活動と修復を行い、
そして、驚くことに1時間後、彼女は航行可能になっていました。
この写真は、「エンタープライズ」の飛行甲板で爆弾が炸裂する瞬間で、
撮影した乗員のロバート・E・リードはこれを最後に命を落としたという説もあります。
8月26日朝、B-17とヘンダーソンの爆撃隊によって日本の輸送艦と駆逐艦が沈没し、
ガダルカナル島への日本軍の上陸は阻止されました。
上からきている赤い矢印は右が「瑞鶴」と「翔鶴」ら空母機動部隊、
左が「龍驤」で、沈没位置が示されています。
対して下の太いラインが「エンタープライズ」「サラトガ」含む米艦隊で、
細い矢印は「ワスプ」のコースを表しています。
なお、赤のガダルカナルへの攻撃マークは、日本機動部隊航空隊が地上攻撃をしたということです。
そして、アメリカ側の青い線は、そのガダルカナルから発進した航空部隊で、
「龍驤」を攻撃しました。
日本はこの海戦で空母「龍驤」を失いました。
赤い星印の場所で損傷した「エンタープライズ」は沈まず、真珠湾に戻りました。
ワスプ沈没
8月の最終日、「サラトガ」は日本の潜水艦の魚雷によって深刻な被害を受け、
修理のために真珠湾に戻りました。
ちょうど2週間後、ガダルカナルへの援軍の輸送を護衛していた「ワスプ」は、
潜水艦から3本の魚雷を見舞われ、炎上します。
弾薬、爆弾、燃料が誘爆し続け、艦長はついに総員退艦を命じました。
そして5隻の駆逐艦の魚雷によって沈没処分になりました。
これによって乗員193名、航空機40機が失われました。
この時点で、「ホーネット」は南太平洋で唯一残された運用可能な空母となりました。
■ 南太平洋海戦(サンタクルーズ海戦)1942年10月26日
日米両軍の機動部隊はサンタ・クルーズ諸島沖で戦い、この時日本軍は
空母「翔鶴」と「瑞鳳」が大破・中破という損害を受けたものの、
米空母「ホーネット」を撃沈、空母「エンタープライズ」を中破させ、
戦術的勝利を収めています。
しかし、日本の攻撃の主目的である飛行場奪回には失敗しました。
そして第三次ソロモン海戦によって連合軍は勝利し、日本軍は
ガダルカナル島への兵力増援を断念せざるをえなくなります。
第三次ソロモン海戦についての説明はこれだけです。
というのも、この海戦では空母はアメリカ側に「エンタープライズ」がいたのみで、
日本軍の航空機は空母を介して戦っていないので、
こちらも当展示の説明対象ではないからです。
しかしせっかく第三次ソロモン海戦が出たので、「空母の戦い」とは関係ありませんが、
最後に、いつ見てもすごいと思わずにはいられない、第三次ソロモン海戦における
一式陸攻の「変態飛行」
の写真をあげておきます。
29機の一式陸攻は二手に分かれて8〜16mの超低空を航行し、攻撃を仕掛けました。
彼らは戦闘機の迎撃と防空巡洋艦の対空砲火により撃退されましたが、
1機の一式陸攻が「サンフランシスコ」に体当たりし、火災を発生させています。
この頃には辛うじて日本には
操縦技術の高い搭乗員が残っていた、
という一つの証拠といえるでしょう。
そして一連の激戦でその多くが失われたその後、日本軍は
航空戦での絶対的優位を二度と獲得できなくなっていきます。
続く。
この間にお家芸の夜戦を打破されたサヴォ島沖海戦が10月11日から12日、南太平洋海戦が10月26日生起しました。
第1次ソロモン海戦は新編の第8艦隊が神重徳参謀の自信で自重的性格の三川長官を促し、山本長官も渋った作戦でしたが米空母部隊が離れており、2度も発見されたにも関わらず幸運でした。
ただ鳥海艦長早川幹夫大佐が目的たる輸送船団攻撃を意見具申しましたが長官、参謀長、神参謀も敵巡洋艦撃沈破で満足し、戦場離脱しました。敵重巡4隻撃沈、重巡1、駆逐艦2隻大破、被害鳥海小破、加古帰投直前米潜水艦S44雷撃で沈没でした。
最大の幸運を生かしていない作戦目的に合わなく敢闘精神に劣りました。
連合艦隊司令部もこの勝利に先行き楽観視しました。
第2次ソロモン海戦は8月18日、米軍を追い払うため一木支隊先遣隊を駆逐艦6隻で上陸させましたが全滅、ガ島奪回を目指し、一木支隊第2梯団、横5特別陸戦隊、歩兵第55旅団川口支隊を増援、前進部隊第2艦隊、機動部隊の第3艦隊を送り支援したことにより起こった海戦です。
第2艦隊近藤信竹指揮の戦艦1,重巡5、軽巡1,駆逐艦8、第3艦隊南雲忠一指揮空母3,戦艦2、重巡4、軽巡1、駆逐艦11、補給部隊の編制でした。
米軍はフレッチャー少将指揮の第61任務部隊空母1,重巡2,駆逐艦5,スプルーアンス少将指揮第16任務部隊空母1、戦艦1、重巡1、軽巡1、駆逐艦5,シャーマン大佐指揮第18任務部隊空母1,重巡2,駆逐艦6でした。
8月23日増援部隊田中頼三指揮の輸送船3隻、軽巡1、駆逐艦5が敵に発見されました。敵の攻撃圏内から離脱したため空母機、ガ島からの海兵隊機の攻撃から逃げれました。
南雲長官は24日空母龍驤、重巡1、駆逐艦2を増援部隊の支援に分離派遣しました。これが米軍の哨戒に捕まりました。龍驤は艦攻6機、艦戦6機をガ島攻撃に発進しましたがサラトガの艦載機攻撃を受け沈没しました。輸送船団もガ島からの攻撃で輸送船1、駆逐艦1が撃沈され、旗艦神通も被弾しました。そのころ我機動部隊も敵機動部隊発見、第1次攻撃隊37機が攻撃、エンタープライズに命中弾3、至近弾2を与えました。2次攻撃隊は発見できず引き返しています。なぜ集中攻撃しなかったのか疑問です?1次攻撃隊の被害は大きく、艦爆17機、艦戦3機が帰らず、艦爆1,艦戦3が不時着でした。第2次に第1次は無線連絡していますが?何故小出しにするのか?
結局空母龍驤、輸送船1,駆逐艦1が撃沈され、艦攻3、艦爆23、艦戦30、水偵3機が損失し、輸送も中止され、米側勝利となりました。
8月31日伊26がサラトガ雷撃、2本命中、修理3か月、9月15日伊19がワスプ雷撃、3本命中、ノースカロライナ1本命中、駆逐艦オブライエン1本命中でした。ワスプはガソリン引火で大火災沈没、オブライエンは船体強度ダメージで後日沈没しました。
第3次はガ島奪回最後の大海戦でしたが大乱戦でもありました。
第11戦隊阿部弘毅少将指揮の戦艦2、軽巡1、駆逐艦14に対しカラガン少将指揮の重巡2、軽巡1、防空巡2、駆逐艦8が11月12日、第8艦隊三川中将指揮重巡2、軽巡1、駆逐艦1、支援隊第7戦隊西村祥治少将指揮重巡2、軽巡1、駆逐艦3にたいし、機動部隊キンケード少将指揮空母1,重巡2、軽巡1、駆逐艦6が10月13,14日、第2艦隊近藤中将指揮戦艦1、重巡2、軽巡2、駆逐艦9に対し、第64任務部隊リー少将指揮戦艦2、駆逐艦11月14日の戦いでした。
12日は夕立の活躍もありましたが戦艦比叡、駆逐艦夕立、暁沈没、駆逐艦4隻損傷、米側防空巡2隻駆逐艦4隻沈没、戦艦1、重巡1、駆逐艦4大破でした。
13、14日飛行場砲撃は成功したが船団6隻沈没、戦死450名、5000名漂流人員は駆逐艦等救助、戦艦霧島、駆逐艦1隻沈没、損傷数隻、米側戦艦1隻損傷、駆逐艦4隻撃沈、なお輸送部隊残は海岸擱座2,000名は上陸したが物資は空襲で焼失しました。
ガ島奪還困難となり、米大統領に戦争の見通しがついたとの感想が出てしまいました。
参照光人社「写真太平洋戦争第5,6巻」新人物往来社「太平洋戦争海戦全史」
10月26日早朝エスピリッツサンド島の哨戒機に発見攻撃されました。所在をくらますため反転北上しましたが、発見されましたが同時に敵空母群発見、250浬離れていましたが夜明け第1次攻撃隊艦爆21機、艦攻20機、艦戦21機を発進、米側からも48機が攻撃に向かいました。
その後第2次攻撃隊瑞鶴翔鶴から艦爆19、艦攻16、艦戦9の44機発進、その時瑞鳳が米哨戒機に爆撃され飛行甲板後部損傷で避退してしまいます。
途中で米攻撃機と遭遇、13機撃墜しましたが零戦4機被撃墜、5機機銃弾なしで帰投してしまいます。
1次隊はホーネットに爆弾6発、魚雷2本命中させるが被害が多く、13機燃料切れで不時着もあり、帰投した20機も10機は被弾で使用出来ない状態でした。
第2次はエンタープライズに爆弾3発命中させましたが致命傷には至らず、20機が被弾自爆、4機不時着、帰着した20機も全て被弾していました。
被害は翔鶴4発命中、筑摩4発命中。
隼鷹発艦の艦攻7機、零戦8機が応急修理なったホーネット攻撃、魚雷1発命中、瑞鶴からの第3次攻撃隊艦爆2、艦攻6、零戦5機が攻撃、隼鷹からの3次隊艦爆4、零戦6機もホーネット攻撃、ホーネットは漂流中を巻雲、秋雲が魚雷攻撃沈没しました。
6回の攻撃でホーネットを沈没に導きましたが肝心の第2師団攻撃失敗、艦載機の損耗が極めて多く、空母部隊は再建を余儀なくされます。小出しにしている所へ哨戒機の1弾で空母1隻が避退になるとは?南雲機動部隊最後の勝利と言われていますが正規空母2、改造空母2の艦載機の損耗、大艦隊派出し、ホーネット1隻の総員離艦後の撃沈だけとは?エンタープライズの早期損傷復帰と迎撃出動は見るべきものがあります。
また我が潜水艦が散開線に9隻以上が出動していますがなにも寄与していません。
このような潜水艦使用は困難だけで得るものはないと分かっていない艦隊首脳は如何に?
参照新人物往来社「太平洋戦争海戦全史」、光人社「写真太平洋戦争第5巻」