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79.引き離すもの章(アン・ナーズィアート)【6】

2007年09月08日 | ジュズ・アンマ解説
  誰でもアッラーの威厳さと偉大さを畏れる者は、低劣な欲から自分を制するものです。欲望とは、悪くとも良くとも、ほめられるものそうでないものなどの何かに引き付けられることをいいます。しかしこの言葉は一般的に良くない意味で使われることが多いです。欲望は、後に何が起こるのか考えることなく、一時的な快楽へと私たちを誘います。そして害と苦痛の原因になる有害な欲望が叶うよう急き立てます。

  理性ある者は、後に苦痛や後悔を及ぼす快楽から自身を制するものです。魂は欲望に溺れやすく、そうならないように努力することが必要になってきます。思考も、魂が求めるものを大きくする作用があるので、これも避けるべきですので、ハワー(低劣な欲)は、すべての悪と災難の源といえます。

  魂を低劣な欲望と隔てることは、成功と喜びがあるための基本です。アッラーを畏れる気持ちだけが、有害な欲を断ち切る力になります。この努力は、アッラーによって来世で楽園と取り替えられます。
 
  「かれらはその時に就いて,あなたに問う。「それが到来するのは,何時(の日)ですか。」」
  その時がここで意味するのは、最後の審判です。ここで時という単語に定冠詞がついていますが、これは他の時とは違う、地球の法則が危険で大規模な出来事である最後の審判を特別に意味するためです。

   不信仰者たちは、最後の審判が起こる時期について質問しました。その答えは、
  「あなたは,何によってそれを告げられようか。」、つまりムハンマドよ、あなたがそれを語るほどそれに関する知識を持ってはいないのだ、という意味です。

  「その終末(の知識)は,あなたの主にあるだけ。」、つまりあなたの主にだけ、審判の日の知識をその詳細は属し、いつ起こるかはかれにしか分からない、いう意味です。

  「あなたは,それを恐れる者への,一人の警告者に過ぎない。」、ムハンマドよ、あなたの使命は、最後の審判の日の知らせをもって、アッラーの懲罰を恐れる人たちに警告することだ、という意味です。

  クルアーンは続けて、その日の恐ろしさを表現します。「かれらがそれを見る日,(墓の中に)滞留していたのは,一夕か一朝に過ぎなかったように思うであろう。」

 この日の恐ろしさは、魂に大きな負荷を与えます。彼らは審判の日、来世を見るとき、短い歓楽と欲望に満ちた現世の生活は、一夕か一朝のようだった、と思います。

  人間は、消え行く現世の生活とその少ない楽しみのために、永遠の来世を犠牲にするのでしょうか?自分の本当の存在理由と、死後の行く末から迷ってしまった人間ほど、無知なことがあるでしょうか。
コメント
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