◎女性の幸福と男性の幸福
冥想は、大方は男性のための修行法である。女性にとっては、女性のための幸福の道筋がある。
このことは、冥想修行者にとっては、ほとんど常識と言ってよいもののはずだが、OSHOバグワンもダンテス・ダイジもあまりそのことをしつこく言わない。そのことは自明だが、強調すること得策ではないと考えていたのだろう。
さて女性には女性的自我がある。それは、女性は生まれつき肚(丹田)ができているということにおいて女性的自我のスタート地点があり、それを男性との違いとして注目すべきなのだろうと思う。
童話鉢かづき姫では、女性的自我が、最愛の男性つまり魂の伴侶と結ばれることによって充足することがかぶった鉢であることが示される。またこれには、湯殿で汗をかいて合体することに、錬金術的な沐浴と浄化の秘儀が秘められている。
また古い錬金術書「ホルスからイシスへ」に登場してくる魔神的な天使アムナエルが容器を頭にかぶっており、その容器の中にはイシスが探し求める秘密の物質が入っている。この容器が女性的自我。
このように女性的悟りがある一方で、仏教では女人成仏があり、道教では女几のように男性もなるような成仙が何人もいて、キリスト教でもアヴィラのテレサのように七つ目の最終段階まで承知した人物が出ている。つまり女性であっても男性と同様の究極の悟りには到達することはできるが、それをあまり強調してはいけないということなのか。
またキリスト教の女性神秘家のエピソードを見ると、女性的自我の充足を見る場合が多いことは、承知しておくべきだろう。仏教や道教では、そういうエピソードは取り上げないものだ。