goo blog サービス終了のお知らせ 

アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

冥想非体験(性愛冥想)を読んでみる-13

2025-04-29 03:57:02 | 性愛冥想
◎女への情欲的束縛をやめる方法は、ただやめること


冥想非体験(性愛冥想)の続き
『巨大な情熱は部分的な不条理と、決して戦わないようにできている。巨大な情熱は、人間性そのものの全体的な不条理を、虚無を、眺める。
彼は人間性そのものがもっているどうしようもなさを、恋女房の浮気の姿によって見切ったのだ。
虚無そのものを徹見したのだ。


このような全身全霊的な人間性のどうしようもなさに対する直視は、二度と彼に欲情という錯覚を起こさしめまい。


もはや、彼を充実させるものは、人間性のしがらみの中にはない。
彼の残された道は、この人間的世界を、
絶対否定することによって、絶対肯定することしかない。
それゆえ、第一ステップの欲情離脱とは、人間的世界の虚無性をどれだけ深く直視するかにかかっている。そして、虚無性の直視の深さの度合は、彼のよりよく生きようとする情熱の真しさに正比例する。


あなたが欲情を本当に離脱したいのなら、まず何よりもこの世の人間に心の底から愛着しなければならない。真剣に愛着し合ったセックスによって、
あなたは人間的世界の虚しさを知ることができる。
あなたの全情熱こそが、虚無を徹見して、 欲情を無効にする原因だからであり、 そして全身全霊で、この世の何ものかと恋着しあうことによって
虚無に直面することが欲情離脱としてのセックスである。


それから、いま一つ、欲情離脱の方向がある。
「肉体的な死」に直面することがそれである。
あなたが、あなたの自我と肉体とが、本当に死ぬものであると、晩年のヘミングウェイのように気づいたり、
あるいは、あなたの周囲の誰かの死が、
あなたにとって現実のものとなったりしたならば、あなたは欲情、恋愛の事などどうでもよくなるだろう。
これが性的行為によらない欲情離脱であり、道元禅師などは、この類である。


「善堤心とは、無常を観ずること」とする道元は、幼少時の母との死別によって、早くから人間性のしがらみの虚しさを知っていた。


道元には欲情 離脱としてのセックスは、その生涯を通じて無縁のものであった。
道元童貞説が言われたゆえんである。


虚無を徹見することが欲情離脱の一つのステップであることを、この章では書いてきたが、
この時点での欲情離脱は、けれども神秘性愛の遙かな宇宙へのほんの入口にすぎない。
観無常は解脱ではないのだ。


あなたがもし、情欲をとらわれとする因縁のもとに
生まれたのなら、では、よし、
「今から進んで情欲海の激浪中に飛び込んで、その正体を見破ってこい。」


欲情離脱としてのセックスには落とし穴がある。
ミイラ取りはいつでもミイラになる可能性を持っている。
情熱をフル回転していないミイラ取りは
結局、ミイラになってしまうだろう。
だが恐れるにはあたらない。
今生で欲情のとりこになって終わってしまうあなたも
幾転生の後、結局は美しい性愛冥想を
戯れていることだろうから。


性愛漂流中の島々


好いた惚れたで結婚するのではない
前世の因縁で魂と魂が結ばれて
結魂するのであって、
いったん嫁に行ったら行ききれ、
嫁をもらったらもらいきれ、
結婚であれ、結魂 であれ、
いずれにせよ、家庭は修羅場であるが
その家庭こそがもっとも身近な修行場である。
(天照皇大神宮教北村サヨの言葉)


「永遠に女性なるもの」という言葉のように、 女にとって性愛(単なるセックスではない)は、それ自体、充足的なものであるが、大部分の男にとっては、征服欲、自己実現欲、創作対象がほとんどである。
性愛が一つの冥想行為になった時、
男は初めて、自己充足の何たるかを知る。


ここに小麦色のしなやかな女体がある。
あなたはその肢体を口説き落とし、くっつき、もてあそぶことができるだろう。
そして結局、あなたはその肢体にある小っぽけな穴に、あなたの精液を入れるだろう。
だが、それだけである。それ以上何もない。


神経症的な征服欲としての欲情は、あなたが女体の快感反応の姿に、自我の能力の実現を錯覚することからくる。


経済力や容姿などで、女をものにすることはできるだろう。
だが、それはあなたの欲情の虚しいから回りにすぎない。
本当の性愛冥想を可能にする性愛パートナーは、あなたの表面的美点によるのではなく、
意識の遥かな深みにある神秘的因縁による。


女体という彼女の個別性と結合するのではない。
この場合の女体という個別性は、あなたの自我意識の妄想にすぎない。
あなたは女性と現れた神と性愛するのだ。


射精せねば不満が残ることはない。
もし、肉体的不満が残る感じがする時は、女性のオルガズムに合わせて、全身に力をこめ、筋肉全体を緊張させ、女性のオルガズムが頂点を過ぎるとともに一気に力を抜ききればいい。
射精せずに全心身の緊張-弛緩の要領がのみこめてくれば、あなたは単なる生理的快感を越えた限りない広やかさに気づいてくるだろう。


愛は幾種類もない。
ただ、神の愛があるばかりだ。
神の愛が親子、夫婦、友情の愛ともなり、
社会愛、人類愛、天職愛ともなる。
性愛ももちろん同じだ。


神の愛に生かされる時、生理的な性欲さえも神の愛のあらわれとなる。


性愛は無常だ。
他のあらゆる人間の営みと同じように。
この無常の徹見が、なければ、性愛冥想も性愛三味もない。


無常の徹底的自覚はニヒリズムではない。
人がニヒリズムの観念的なから回りにある限り、定力の充実、つまり、生命力や気力の生ずるはずがない。


無常の徹底的直面が霊的人間を呼びさます。
生命エネルギーと一体になった霊的人間によって、
性愛は虚しくぎこちないものから、
最深の精神的肉体的な法悦となり得る。
あらゆるものは念々に流れ去る。
性愛もまた念々に流れ去る。
流れ去る流れを流れ去りきること
それ以外に愛としての性愛はない。


性的享楽と不安とは一つながりのものだ。
本来、非存在なる人間自我が享楽的刺激という妄念を仮現する。
虚無 と直面することを恐れる自我が
情交の中に踏み込めば、自我内部の個人的無意識は、不安を暗黙のうちに承認したことになり、悪循環の中へ墜落する。


享楽的刺激は、少しでもとぎれるわけにはいかなくなる。
享楽 のとぎれが虚無の不安を思い出させることになるからだ。
これが色餓鬼地獄の一様相である。


気狂いのまねのつもりで気狂いのようにすれば
すでに気狂いである。
女への情欲を断つという名目で女を抱けば、ミイラ取りはミイラになる。
女を抱いた瞬間、女への執着は固定する。
酒をやめるために酒を飲むという悪をおかすなかれ。
酒は飲めば飲むほどやめがたくなるばかりだ。
女への情欲的束縛をやめる方法は、
ただ、やめるということがあるばかりだ。

行為をなす時が現実のおこる時である。
行為の姿が現実そのものであり、それ以外に現実はない。
ちょっとばかりいいだろうと思って、女を享楽の対象として
抱けば、これすでに色餓鬼地獄の住人である。


瓜の垢ほどの事から、すべての現実が始まる。
ちょっとばかり、試してみようということはない。
ある行為をなした時、
その行為の姿そのままの現実があるばかりだ。
人間のあらゆる行為は、霊界と霊線によって
直接的につながっていると言える。
行為は霊界から来るのだ。
人がどのような行為をするかによって、
その人の住んでいる霊界は明白になる。


ある一つの行為が、その人をその人にするのだ。


人々が異性を欲情するのは表面的自覚とは別に、その内奥では深く確かなふれあいを求めている。
このことを心底から納得しないあいだは、虚無の不安から脱することはできない。
男達は、多数の享楽対象としての女体を求めているのではない。
一つの確実な魂の半身を求めているのだ。
性倒錯と呼ばれるものも、この例外ではない。


虚無を見れば見るほど、性的快楽が高まる場合もある。
虚無によって欲情が激しくなる場合もある。
しかし、今だかって、死を越えた人間がいないように、
人間的営為が虚無に打ち勝つことは決してない。
人間があるということは、虚無 があるということだ。
むしろ、 虚無そのものによって 人間が絶対的に否定される時、虚無はまさに虚無ゆえに自消自滅する。』
(冥想非体験(性愛冥想)/ダンテス・ダイジから引用)


『全身全霊で、この世の何ものかと恋着しあうことによって、虚無に直面することが欲情離脱としてのセックスである。


それから、いま一つ、欲情離脱の方向がある。
「肉体的な死」に直面することがそれである。』
恋着と肉体的な死への直面は、人生の隙間をのぞき込むこと。


『虚無を徹見することが欲情離脱の一つのステップであることを、この章では書いてきたが、
この時点での欲情離脱は、けれども神秘性愛の遙かな宇宙へのほんの入口にすぎない。
観無常は解脱ではないのだ。』
虚無を見ただけでは、先へ進まない。パワーがいるっぽい。


『欲情離脱としてのセックスには落とし穴がある。
ミイラ取りはいつでもミイラになる可能性を持っている。
情熱をフル回転していないミイラ取りは結局、ミイラになってしまうだろう。』
情熱の多寡の問題は結構決定的だ。


『本当の性愛冥想を可能にする性愛パートナーは、あなたの表面的美点によるのではなく、
意識の遥かな深みにある神秘的因縁による。』
意識の遥かな深みにある神秘的因縁による性愛パートナーは、縁によって出会う。縁生。また出会ったことに気がつかないこともある。


『愛は幾種類もない。
ただ、神の愛があるばかりだ。
神の愛が親子、夫婦、友情の愛ともなり、社会愛、人類愛、天職愛ともなる。
性愛ももちろん同じだ。』
そうだろうと思った。


『無常の徹底的自覚はニヒリズムではない。
人がニヒリズムの観念的なから回りにある限り、定力の充実、つまり、生命力や気力の生ずるはずがない。』
無常の徹底的自覚は、自我の死の大死一番となり、そこからの復活過程で生命力や気力の充実があるということか?それとも修行法の問題?


『あらゆるものは念々に流れ去る。
性愛もまた念々に流れ去る。
流れ去る流れを流れ去りきること
それ以外に愛としての性愛はない。』
ある流れがあるというのは、わかるが・・・・。どうやって流れを知るのか?


『瓜の垢ほどの事から、すべての現実が始まる。
ちょっとばかり、試してみようということはない。
ある行為をなした時、
その行為の姿そのままの現実があるばかりだ。
人間のあらゆる行為は、霊界と霊線によって
直接的につながっていると言える。
行為は霊界から来るのだ。
人がどのような行為をするかによって、
その人の住んでいる霊界は明白になる。』
すべての人間は、霊線(クンダリーニのエネルギーコード)で神と直接つながっている。善行も悪行も、行為は霊界から来るのだ。
自分の住む霊界からつながっている瓜の垢ほどの事から、すべての現実が始まる。
よって、諸悪莫作、諸善奉行(善いことをする、悪いことをしない)なのだ。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 冥想非体験(性愛冥想)を読... | トップ | 神の子カッサパが釈迦に質問... »

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

性愛冥想」カテゴリの最新記事