◎あなたには、最もふさわしい妻、あるいは夫が与えられている
冥想非体験(性愛冥想)の続き
『これは、サルトルの哲学書『存在と無』の中に出てくる存在欲求の永遠の不満足という法則の小説化というべきものであろう。
いづれにせよ自我の観念的束縛を捨てる時、人は緊張状態から自由になるのだ。
緊張は深さの度合いと多様な形式を持っているが、それはつねに人間活動の自然な働きをさえぎるという点で同じである。
柏木にとって性的障害は虚無を認識させる一つの契機であったが、私にとって性的障害は虚無さえも虚無化してしまう「霊的愛」への一つの出発点であった。
確かに虚無には神的側面が含まれる場合がある。
柏木にとって虚無は、彼の表層的な自我観念の崩壊であり、自我の植えつけられた観念的制約が崩壊することは、より深い自己自身を自由に活動せしめる。
しかし、人間の深淵にある はかりしれぬ情熱は、ついに虚無を感じている自己をも虚無の中へ 崩壊せしめることを願いだす。
なぜなら、すべての本源的な生命欲は、
それがどのような否定的外見をとっていようとも、根本的には「否定的」なものだからだ。
ここに、不可思議極まる「霊的愛」の秘密の一つが内包されている。
人間が自我の抑圧と緊張から受けた失敗にとらわれることなく、再び新たに生きはじめることができるのは、
自我の絶対的不条理、すなわち虚無を徹底的に直視した時か、あるいは自己の深みに神秘的な愛と安心を感じた時である。
「落ちてはいけない」
私自身を、決して実現されることのない自我の不安と緊張の中へ堕落せしめてはならない。
自我という単なる観念が実在しているかのように信じてはならない。
自我の内包している不安と不満から、
感覚的陶酔の中へ必死に逃げ込もうとあせってはならない。
「意識を広く持つのだ」
意識を卑小な牢獄に縛りつけるのは、
自我防衛――― 自我はいつも危険にさらされているから、防衛せねばならぬという固定観念である。
その固定観念から私自身を解き放つのだ。
もっとも素直に理屈ぬきの安心の中に私は意識を限りなく広く開く。
自我という妄想から解放された私自身は、広やかな霊妙な活力の中に性愛を自由自在に戯れる。
限りなく広がった自由な意識は、
すでに神のものである。
それゆえ、私は男神となって女神となった私自身を
抱き、愛する。
「女神の悦びのために」
あの性愛に関するインドラ神の夢によるビジョンを見た後、私は少くとも私にまつわる心理生理的障害から解放された。
私は私の自我によって自我の問題を
解決しようとする不可能な努力を放棄したのである。
私は不思議な活力、精力が、私の肉体にみなぎるのを感じ、ペニスの勃起、勃起の持続・射精というような、一般的には人間の不随意 機能というものに対してあるがままに直面することによって、
それらの不随意性を随意に支配する心の持ち方を会得した。
また、インドラ神の性愛に関する啓示は、私に私の前世での性愛冥想・霊的性愛についての思い出を時たま再起させるようになった。
例えば中国での私の前世では、私は仙道の房中術の修業もしていたので、房中術における錬丹 の原理や射精せずして気を充実させる術、素女経 や三峰派の裁接すなわち、性行為による仙道修行などについて、
そのような関係書を読む以前にある程度、理解できていた。
インドにおいては左道タントラのヨーガ修行をしていたので、
性愛によるプラーナのコントロールを理解していた。
また私は、この「色情修行」を続けている間も、坐禅冥想行法を日々に続けていたが、
坐禅が深まった時の定力が男女の性愛時に深い融合をとげた時に感受する不思議な活力と同質なものであると知るようになった。
人は性愛によっても神秘体験を誘発するためのトランス状態に入ることができる。
自我意識の希薄化はそれがどのような方法で、生じたにせよ、狂気にも至高の神秘体験にも開かれた状態なのである。
そして開かれた意識が狂気に落ち込むか、至高の神秘体験に高揚するかは、結局その人の霊的主体の素直さ、広さ、高さ、深さの度合いによると言える。
私たちは悪霊、狂気を恐れてはならない。
あるがままの卒直さのみが私達を私達自身の本源的光明の中へ回帰させることができる。
性愛による霊的修行も又、大きな危険を持っている。
それはセックスが肉体の感覚的刺激という側面を持っているがゆえになおさらそうである。
日本の立川邪教やラマ教のセックス行法の歪んだものは、人を自我意識を越えた真実の救済へ導くことなく
単なる自我意識の狂乱と抑圧を解かれた低次元な動物的エネルギーの暴走になることが少くない。
男女の霊的因縁をふまえることのないセックスの行法は、必ず邪道に堕落する。
なぜなら、男性原理と女性原理との霊的合一こそが、霊的共同体としての家庭、社会、世界、宇宙の中に
その本来的位置を与えられたものだからであり、それこそが、人間すべての根本願望である不動の大安心、霊的愛、宇宙意識との神秘体験への高みへ人類を導くものだからだ。
霊的因縁の自覚は霊界の中で、本来一体である者同志の出会いを成就する。
あなたには、すでにもっともあなたにふさわしい妻、あるいは夫が与えられているのだ。
真正な仙道房中術は健康や不老長寿、
より高い快楽という功徳も含んではいるが、しかし、その極地は真人としての人間の絶対的解放にあらねばならない。
真正のエロティック・タントラ・ヨーガには、確かに忘我へ至る技術が含まれてはいるが、しかし、その本質は宇宙意識の無限一体性への人間生活の回帰でなければならない。
私が前世 でアトランティス密教の道士 であった頃、私は自己の冥想修業によって得た魔術的力を、官能的享楽 の追求のための手段にしたことがあったのを憶えている。
しかしそれは私に悲惨な孤独感という
報いを与えることになった。
官能的な享楽 追求の欲望は結局、濁った自我が必然にかかえねばならぬ不安からの一時的な逃避行為にすぎない。
神の創りしままの霊的人間の愛の展開としての生活、性愛というものを催眠的魔力によって、次々に女をとりこに
していたその当時の私は今だ自覚していなかったわけである。
その性愛の邪道に落ち入った頃のアトランティス 密教道士としての私の前業を引きついで、インドラ神の霊夢を
見た頃の日本に生まれた私は、自己の魔術力と催眠力と性的コントロールによって官能刺激を追求する日々を
送ることとなった。
私は『色情旅行』と名付けた私の迷いの努力の中に、まだ本当には霊的性愛の真義を思い出してはいなかったというわけである。
私は新しく、身につけた性的支配能力によって、一度に二人の女と性交したり、不感症の女をオルガズムに達しさせたり、
ほとんど一日中ペニスを勃起させて女と性的享楽の限りをつくそうとした。
私は女を傷つけ、私自身を傷つけて
私自身の深い精神的苦痛を味わわねばならない自分勝手な自我の中に生きねばならなかったのだろう。
欲情離脱の漂流
出発点を孤立した「自我」に持つ世界は、虚無との対決やかけ引きによって成り立っている。
この世界では、虚無をいかにいんぺいするかということが、人間自我の最大のテーマになる。
そこに権力・快楽・刺激・陶酔・安定といった幻影が水もれして今にも倒壊しようとする堤防を、石ころや泥でふさぎとめようとする熱心さで、つぎからつぎへと捻出される。
しかしこの自我と虚無 とのイタチごっこに、いいかげん嫌気のさした肥大した自意識は虚無から逃げようとするかわりに、虚無そのものに直面しようとする。
そして、もし孤立した自我が素直にその全情熱によって虚無を直視することができれば、
自我はその直視の程度に応じて自由を得ることができる。
なぜなら、虚無の直視は孤立した自我という妄想をさえ虚無化する力があるからだ。
キリスト教の原罪の教義では、人間にとって原罪は決して逃げることのできぬものとしてあり、この絶対に
どうしようもない原罪を受容し切る時
人の子は救済を得る。
浄土門では自己の悪業を徹底的に見、
自力にはいかなる救いも断じてないと知り切った時に、即座に横超の救いを得る。
それはあくまでも横へ超出するのだ。
カミュの異邦人 ムルソーはこの世に重要なものが何一つないという虚無を、その処刑の前夜に直視することによって「世界のやさしい無関心」という一つの自由を自覚する。
これが虚無を徹見する自我が、自由と化していく消息である。
死、虛無、無常の徹底的直視は、人間自我の執着を解放せしめる人間界最高の妙薬の一つである。
そして虚無を見ることによって、自我を通俗的ニヒリズムに落ち込むのを防ぎ、静かな世界全体に対する受容を
与えるものは、ひとえに彼の自我をささえる深い情熱なのである。
温泉宿
仲村八鬼
真珠の粒をまき散らす
深夜の雨が
廂や木の葉をたたいて
秋の霊魂をひしひしと浄めはじめた
主観を客観におきかえて精緻に抽出した
明快な村野四郎の現代名詩鑑賞に
時を忘れていた
誰にも書けない煮えたぎる
ぼくだけの詩を書きに来たのだが、
書けないから寝られないのだ
食事の時からまつわりついていた
大きな蛾は、襟首にまで飛び込んだので放置できない
妊婦のような動作なのだが
手におえない素早さもある
これはどうしても寝る前に殺さねばならぬ
手洗いに立つと
赤い絨毯 を踏んで階段を下りてくる
男女に出会った 』
(冥想非体験(性愛冥想)/ダンテス・ダイジから引用)
『しかし、人間の深淵にある はかりしれぬ情熱は、ついに虚無を感じている自己をも虚無の中へ 崩壊せしめることを願いだす。
なぜなら、すべての本源的な生命欲は、
それがどのような否定的外見をとっていようとも、根本的には「否定的」なものだからだ。
ここに、不可思議極まる「霊的愛」の秘密の一つが内包されている。 』
ダンテス・ダイジは、すべての本源的な生命欲は、根本的には「否定的」だから、『人間の深淵にある はかりしれぬ情熱は、ついに虚無を感じている自己をも虚無の中へ 崩壊せしめることを願いだす』と、あっさり書いているが、これは、到達した者しか確認できない。
『人間が自我の抑圧と緊張から受けた失敗にとらわれることなく、再び新たに生きはじめることができるのは、
自我の絶対的不条理、すなわち虚無を徹底的に直視した時か、あるいは自己の深みに神秘的な愛と安心を感じた時である。 』
これも体験した者しかわからない。そうかなと、想像はする。
「落ちてはいけない」
『自我という単なる観念が実在しているかのように信じてはならない。 』
これは、悟りの側から言っている。
「意識を広く持つのだ」
“自我防衛の固定観念から私自身を解き放つのだ”
これは、わかっていてもできにくい。
『限りなく広がった自由な意識は、
すでに神のものである。
それゆえ、私は男神となって女神となった私自身を
抱き、愛する。
「女神の悦びのために」』
これぞ秘儀。OSHOバグワンが内なる男性、内なる女性との合一を説明しているが、それとは一段上のことを言っているように思う。、
『坐禅が深まった時の定力が男女の性愛時に深い融合をとげた時に感受する不思議な活力と同質なものであると知るようになった。』
これは、定力のことであって、究極ではない。
『人は性愛によっても神秘体験を誘発するためのトランス状態に入ることができる。
自我意識の希薄化はそれがどのような方法で、生じたにせよ、狂気にも至高の神秘体験にも開かれた状態なのである。
そして開かれた意識が狂気に落ち込むか、至高の神秘体験に高揚するかは、結局その人の霊的主体の素直さ、広さ、高さ、深さの度合いによると言える。』
人はトランスから、狂気や大悟覚醒に進むが、『結局その人の霊的主体の素直さ、広さ、高さ、深さの度合いによる』。よって平素の善いことをする、悪いことはしないに行きついていく。
でもそればっかりだと、実は先に進まない。
ダンテス・ダイジは、戒律を守っているばかりだと、恐ろしくつまらない人間になるとも言っている。ダンテス・ダイジ自身も未悟段階で、魔術力、催眠力、フリーセックス等の悪事があり、その反省があった。
そこで
『私たちは悪霊、狂気を恐れてはならない。
あるがままの卒直さのみが私達を私達自身の本源的光明の中へ回帰させることができる。
性愛による霊的修行も又、大きな危険を持っている。
それはセックスが肉体の感覚的刺激という側面を持っているがゆえになおさらそうである。』
『男女の霊的因縁をふまえることのないセックスの行法は、必ず邪道に堕落する。
なぜなら、男性原理と女性原理との霊的合一こそが、霊的共同体としての家庭、社会、世界、宇宙の中に
その本来的位置を与えられたものだからであり、それこそが、人間すべての根本願望である不動の大安心、霊的愛、宇宙意識との神秘体験への高みへ人類を導くものだからだ。 』
ソウルメイト以外との性愛冥想修行は失敗するが、ソウルメイトとの出会いは保証されているっぽい。だが、その出会いは一生に何回もあるものではないらしい。またこのくだりは、大家族としての宇宙、国家を説いている。
『真正のエロティック・タントラ・ヨーガには、確かに忘我へ至る技術が含まれてはいるが、しかし、その本質は宇宙意識の無限一体性への人間生活の回帰でなければならない。 』
忘我にとどまらず、宇宙意識・ニルヴァーナへ。
『そして、もし孤立した自我が素直にその全情熱によって虚無を直視することができれば、
自我はその直視の程度に応じて自由を得ることができる。 』
虚無を直視しても程度がある。
『浄土門では自己の悪業を徹底的に見、
自力にはいかなる救いも断じてないと知り切った時に、即座に横超の救いを得る。
それはあくまでも横へ超出するのだ。 』
横超というのは、神人合一ではないらしいが、他力には救いがあると徹見するのが救いなのか??それは、見ている自分が残るっぽい。

冥想非体験(性愛冥想)の続き
『これは、サルトルの哲学書『存在と無』の中に出てくる存在欲求の永遠の不満足という法則の小説化というべきものであろう。
いづれにせよ自我の観念的束縛を捨てる時、人は緊張状態から自由になるのだ。
緊張は深さの度合いと多様な形式を持っているが、それはつねに人間活動の自然な働きをさえぎるという点で同じである。
柏木にとって性的障害は虚無を認識させる一つの契機であったが、私にとって性的障害は虚無さえも虚無化してしまう「霊的愛」への一つの出発点であった。
確かに虚無には神的側面が含まれる場合がある。
柏木にとって虚無は、彼の表層的な自我観念の崩壊であり、自我の植えつけられた観念的制約が崩壊することは、より深い自己自身を自由に活動せしめる。
しかし、人間の深淵にある はかりしれぬ情熱は、ついに虚無を感じている自己をも虚無の中へ 崩壊せしめることを願いだす。
なぜなら、すべての本源的な生命欲は、
それがどのような否定的外見をとっていようとも、根本的には「否定的」なものだからだ。
ここに、不可思議極まる「霊的愛」の秘密の一つが内包されている。
人間が自我の抑圧と緊張から受けた失敗にとらわれることなく、再び新たに生きはじめることができるのは、
自我の絶対的不条理、すなわち虚無を徹底的に直視した時か、あるいは自己の深みに神秘的な愛と安心を感じた時である。
「落ちてはいけない」
私自身を、決して実現されることのない自我の不安と緊張の中へ堕落せしめてはならない。
自我という単なる観念が実在しているかのように信じてはならない。
自我の内包している不安と不満から、
感覚的陶酔の中へ必死に逃げ込もうとあせってはならない。
「意識を広く持つのだ」
意識を卑小な牢獄に縛りつけるのは、
自我防衛――― 自我はいつも危険にさらされているから、防衛せねばならぬという固定観念である。
その固定観念から私自身を解き放つのだ。
もっとも素直に理屈ぬきの安心の中に私は意識を限りなく広く開く。
自我という妄想から解放された私自身は、広やかな霊妙な活力の中に性愛を自由自在に戯れる。
限りなく広がった自由な意識は、
すでに神のものである。
それゆえ、私は男神となって女神となった私自身を
抱き、愛する。
「女神の悦びのために」
あの性愛に関するインドラ神の夢によるビジョンを見た後、私は少くとも私にまつわる心理生理的障害から解放された。
私は私の自我によって自我の問題を
解決しようとする不可能な努力を放棄したのである。
私は不思議な活力、精力が、私の肉体にみなぎるのを感じ、ペニスの勃起、勃起の持続・射精というような、一般的には人間の不随意 機能というものに対してあるがままに直面することによって、
それらの不随意性を随意に支配する心の持ち方を会得した。
また、インドラ神の性愛に関する啓示は、私に私の前世での性愛冥想・霊的性愛についての思い出を時たま再起させるようになった。
例えば中国での私の前世では、私は仙道の房中術の修業もしていたので、房中術における錬丹 の原理や射精せずして気を充実させる術、素女経 や三峰派の裁接すなわち、性行為による仙道修行などについて、
そのような関係書を読む以前にある程度、理解できていた。
インドにおいては左道タントラのヨーガ修行をしていたので、
性愛によるプラーナのコントロールを理解していた。
また私は、この「色情修行」を続けている間も、坐禅冥想行法を日々に続けていたが、
坐禅が深まった時の定力が男女の性愛時に深い融合をとげた時に感受する不思議な活力と同質なものであると知るようになった。
人は性愛によっても神秘体験を誘発するためのトランス状態に入ることができる。
自我意識の希薄化はそれがどのような方法で、生じたにせよ、狂気にも至高の神秘体験にも開かれた状態なのである。
そして開かれた意識が狂気に落ち込むか、至高の神秘体験に高揚するかは、結局その人の霊的主体の素直さ、広さ、高さ、深さの度合いによると言える。
私たちは悪霊、狂気を恐れてはならない。
あるがままの卒直さのみが私達を私達自身の本源的光明の中へ回帰させることができる。
性愛による霊的修行も又、大きな危険を持っている。
それはセックスが肉体の感覚的刺激という側面を持っているがゆえになおさらそうである。
日本の立川邪教やラマ教のセックス行法の歪んだものは、人を自我意識を越えた真実の救済へ導くことなく
単なる自我意識の狂乱と抑圧を解かれた低次元な動物的エネルギーの暴走になることが少くない。
男女の霊的因縁をふまえることのないセックスの行法は、必ず邪道に堕落する。
なぜなら、男性原理と女性原理との霊的合一こそが、霊的共同体としての家庭、社会、世界、宇宙の中に
その本来的位置を与えられたものだからであり、それこそが、人間すべての根本願望である不動の大安心、霊的愛、宇宙意識との神秘体験への高みへ人類を導くものだからだ。
霊的因縁の自覚は霊界の中で、本来一体である者同志の出会いを成就する。
あなたには、すでにもっともあなたにふさわしい妻、あるいは夫が与えられているのだ。
真正な仙道房中術は健康や不老長寿、
より高い快楽という功徳も含んではいるが、しかし、その極地は真人としての人間の絶対的解放にあらねばならない。
真正のエロティック・タントラ・ヨーガには、確かに忘我へ至る技術が含まれてはいるが、しかし、その本質は宇宙意識の無限一体性への人間生活の回帰でなければならない。
私が前世 でアトランティス密教の道士 であった頃、私は自己の冥想修業によって得た魔術的力を、官能的享楽 の追求のための手段にしたことがあったのを憶えている。
しかしそれは私に悲惨な孤独感という
報いを与えることになった。
官能的な享楽 追求の欲望は結局、濁った自我が必然にかかえねばならぬ不安からの一時的な逃避行為にすぎない。
神の創りしままの霊的人間の愛の展開としての生活、性愛というものを催眠的魔力によって、次々に女をとりこに
していたその当時の私は今だ自覚していなかったわけである。
その性愛の邪道に落ち入った頃のアトランティス 密教道士としての私の前業を引きついで、インドラ神の霊夢を
見た頃の日本に生まれた私は、自己の魔術力と催眠力と性的コントロールによって官能刺激を追求する日々を
送ることとなった。
私は『色情旅行』と名付けた私の迷いの努力の中に、まだ本当には霊的性愛の真義を思い出してはいなかったというわけである。
私は新しく、身につけた性的支配能力によって、一度に二人の女と性交したり、不感症の女をオルガズムに達しさせたり、
ほとんど一日中ペニスを勃起させて女と性的享楽の限りをつくそうとした。
私は女を傷つけ、私自身を傷つけて
私自身の深い精神的苦痛を味わわねばならない自分勝手な自我の中に生きねばならなかったのだろう。
欲情離脱の漂流
出発点を孤立した「自我」に持つ世界は、虚無との対決やかけ引きによって成り立っている。
この世界では、虚無をいかにいんぺいするかということが、人間自我の最大のテーマになる。
そこに権力・快楽・刺激・陶酔・安定といった幻影が水もれして今にも倒壊しようとする堤防を、石ころや泥でふさぎとめようとする熱心さで、つぎからつぎへと捻出される。
しかしこの自我と虚無 とのイタチごっこに、いいかげん嫌気のさした肥大した自意識は虚無から逃げようとするかわりに、虚無そのものに直面しようとする。
そして、もし孤立した自我が素直にその全情熱によって虚無を直視することができれば、
自我はその直視の程度に応じて自由を得ることができる。
なぜなら、虚無の直視は孤立した自我という妄想をさえ虚無化する力があるからだ。
キリスト教の原罪の教義では、人間にとって原罪は決して逃げることのできぬものとしてあり、この絶対に
どうしようもない原罪を受容し切る時
人の子は救済を得る。
浄土門では自己の悪業を徹底的に見、
自力にはいかなる救いも断じてないと知り切った時に、即座に横超の救いを得る。
それはあくまでも横へ超出するのだ。
カミュの異邦人 ムルソーはこの世に重要なものが何一つないという虚無を、その処刑の前夜に直視することによって「世界のやさしい無関心」という一つの自由を自覚する。
これが虚無を徹見する自我が、自由と化していく消息である。
死、虛無、無常の徹底的直視は、人間自我の執着を解放せしめる人間界最高の妙薬の一つである。
そして虚無を見ることによって、自我を通俗的ニヒリズムに落ち込むのを防ぎ、静かな世界全体に対する受容を
与えるものは、ひとえに彼の自我をささえる深い情熱なのである。
温泉宿
仲村八鬼
真珠の粒をまき散らす
深夜の雨が
廂や木の葉をたたいて
秋の霊魂をひしひしと浄めはじめた
主観を客観におきかえて精緻に抽出した
明快な村野四郎の現代名詩鑑賞に
時を忘れていた
誰にも書けない煮えたぎる
ぼくだけの詩を書きに来たのだが、
書けないから寝られないのだ
食事の時からまつわりついていた
大きな蛾は、襟首にまで飛び込んだので放置できない
妊婦のような動作なのだが
手におえない素早さもある
これはどうしても寝る前に殺さねばならぬ
手洗いに立つと
赤い絨毯 を踏んで階段を下りてくる
男女に出会った 』
(冥想非体験(性愛冥想)/ダンテス・ダイジから引用)
『しかし、人間の深淵にある はかりしれぬ情熱は、ついに虚無を感じている自己をも虚無の中へ 崩壊せしめることを願いだす。
なぜなら、すべての本源的な生命欲は、
それがどのような否定的外見をとっていようとも、根本的には「否定的」なものだからだ。
ここに、不可思議極まる「霊的愛」の秘密の一つが内包されている。 』
ダンテス・ダイジは、すべての本源的な生命欲は、根本的には「否定的」だから、『人間の深淵にある はかりしれぬ情熱は、ついに虚無を感じている自己をも虚無の中へ 崩壊せしめることを願いだす』と、あっさり書いているが、これは、到達した者しか確認できない。
『人間が自我の抑圧と緊張から受けた失敗にとらわれることなく、再び新たに生きはじめることができるのは、
自我の絶対的不条理、すなわち虚無を徹底的に直視した時か、あるいは自己の深みに神秘的な愛と安心を感じた時である。 』
これも体験した者しかわからない。そうかなと、想像はする。
「落ちてはいけない」
『自我という単なる観念が実在しているかのように信じてはならない。 』
これは、悟りの側から言っている。
「意識を広く持つのだ」
“自我防衛の固定観念から私自身を解き放つのだ”
これは、わかっていてもできにくい。
『限りなく広がった自由な意識は、
すでに神のものである。
それゆえ、私は男神となって女神となった私自身を
抱き、愛する。
「女神の悦びのために」』
これぞ秘儀。OSHOバグワンが内なる男性、内なる女性との合一を説明しているが、それとは一段上のことを言っているように思う。、
『坐禅が深まった時の定力が男女の性愛時に深い融合をとげた時に感受する不思議な活力と同質なものであると知るようになった。』
これは、定力のことであって、究極ではない。
『人は性愛によっても神秘体験を誘発するためのトランス状態に入ることができる。
自我意識の希薄化はそれがどのような方法で、生じたにせよ、狂気にも至高の神秘体験にも開かれた状態なのである。
そして開かれた意識が狂気に落ち込むか、至高の神秘体験に高揚するかは、結局その人の霊的主体の素直さ、広さ、高さ、深さの度合いによると言える。』
人はトランスから、狂気や大悟覚醒に進むが、『結局その人の霊的主体の素直さ、広さ、高さ、深さの度合いによる』。よって平素の善いことをする、悪いことはしないに行きついていく。
でもそればっかりだと、実は先に進まない。
ダンテス・ダイジは、戒律を守っているばかりだと、恐ろしくつまらない人間になるとも言っている。ダンテス・ダイジ自身も未悟段階で、魔術力、催眠力、フリーセックス等の悪事があり、その反省があった。
そこで
『私たちは悪霊、狂気を恐れてはならない。
あるがままの卒直さのみが私達を私達自身の本源的光明の中へ回帰させることができる。
性愛による霊的修行も又、大きな危険を持っている。
それはセックスが肉体の感覚的刺激という側面を持っているがゆえになおさらそうである。』
『男女の霊的因縁をふまえることのないセックスの行法は、必ず邪道に堕落する。
なぜなら、男性原理と女性原理との霊的合一こそが、霊的共同体としての家庭、社会、世界、宇宙の中に
その本来的位置を与えられたものだからであり、それこそが、人間すべての根本願望である不動の大安心、霊的愛、宇宙意識との神秘体験への高みへ人類を導くものだからだ。 』
ソウルメイト以外との性愛冥想修行は失敗するが、ソウルメイトとの出会いは保証されているっぽい。だが、その出会いは一生に何回もあるものではないらしい。またこのくだりは、大家族としての宇宙、国家を説いている。
『真正のエロティック・タントラ・ヨーガには、確かに忘我へ至る技術が含まれてはいるが、しかし、その本質は宇宙意識の無限一体性への人間生活の回帰でなければならない。 』
忘我にとどまらず、宇宙意識・ニルヴァーナへ。
『そして、もし孤立した自我が素直にその全情熱によって虚無を直視することができれば、
自我はその直視の程度に応じて自由を得ることができる。 』
虚無を直視しても程度がある。
『浄土門では自己の悪業を徹底的に見、
自力にはいかなる救いも断じてないと知り切った時に、即座に横超の救いを得る。
それはあくまでも横へ超出するのだ。 』
横超というのは、神人合一ではないらしいが、他力には救いがあると徹見するのが救いなのか??それは、見ている自分が残るっぽい。
