◎光輝く生命の海
冥想非体験(性愛冥想)の続き
『この神であるあなたの、現実そのものの姿にほかならない。
嫌悪すべき偽善的な社会性などというものが、今やどこにあろう。
あなたが一切の抑圧から解放され、
あなたの霊的主体を回復した時、虚無という観念の仮想はもうどこにもなく、それゆえ性愛行為は不安からの逃避のための道具ではなく、『神的愛』の
一体性を表現する自然な戯れとなるのである。
あなたは、あなたの自我という仮存在の虚無性を、とことん直視せねばならない。 そして、そこに『冥想』という宇宙意識的自己を自覚する行が始まる。
あなたは心の底の底から、本当に願うものが何であるかを知り、素直にそれを選ぶ。
霊的因縁の出会いが、あなたに起こり、
あなたは永遠に持続する霊的性愛の何であるかを、全身全霊で体感するであろう。
自我防衛戦争の社会性という法則は終わりを告げる。
無限のあなた自身が宇宙となり、国家となり、社会となり、家庭となり、性愛となる。
反社会、 反体制とか虚無・不条理とかは、あなたのとるに足りぬ自我が作り出した幻影にすぎない。ゲームは終わったのだ。
麻薬とセックス
「阿片の感化を受けた超性的本能は
世紀と芸術を乗りこえて、
その外見にあやまられることなしに、
あるタイプの精神を嗅ぎつけ、探し、
それに結びつく。」
(ジャン・コクトー『阿片』)
このコクトーによる超性的本能の自覚は、人間の性欲がより高次元なものになりうる例をしめしている。
セックスは自分の個性にふさわしい異性に出会った時にのみ、純粋な悦びとしてのセックスになる。
ジャン・コクトーは阿片による神秘体験への旅を彼なりにたどって、結局は阿片中毒に落ち入ってしまった。
そして、療養所で不健康な中毒治癒者となった彼は、その療養所からの退院直前に言う。
「樹木を好んで描く画家が
樹木になってしまうように
子供たちは自分の中に
自然の麻薬を持っている。」
いかなる分裂的自我のための武装も、病的なものである。
宇宙的自己に目覚めている姿が、人間の本来の健康状態であり、それゆえ純粋な宗教は必ず神秘主義的体験にその中心がある。
コクトーが人間自我の虚無から、本来の健康を目指した阿片冥想者とでも言いうる人物であることは、彼の著述から充分うかがえる。ただ彼は彼の言う中国人ほどに阿片の使用法に通達していなかった。
「中国人は少ししか喫まず、また少ししか身動かない。
彼らは阿片に特別サービスは何も求めない。
彼らは阿片を尊敬し、阿片が自由にその波を拡げるに委しておく。
僕らのごとき門外の俗人のみがそこに興奮を求めようとして
いつも罰せられる。
生と死とは、お互いに一枚の銅貨の裏と表とほどへだたっているのだが
阿片が銅貨を貫いてくれるのだ。」
(『わが魂の告白』)
コクトーの考えている中国人はメスカリオーテの知者ドンファンやジャマイカのマリファナ冥想家ラスタマンを
予想している。
麻薬―これには酒を含めることはもちろんである― を
虚無的自我にフタをするものとして使用すれば、
それは媚薬であったり、興奮剤であったり、精力や自我の征服欲の強大化という一時的満足であったりすることになろう。
しかし、虚無と自我防衛との人間営為を語っても意味はない。
ここでも問題は麻薬性トランスという一つの場が、冥想体験の生起するものとなり得るということである。
麻薬もまたセックスや純粋冥想行為と同様に虚無からの一時的逃避にもなれば、虚無を虚無化するあの至高な非欲望的な愛ともなり得る。
そしてそれはそれをなす人々の魂の発達如何の問題となる。
麻薬によるセックスの享楽的陶酔に関してこれ以上ふれないとなると、麻薬とセックスとの冥想的機能の相似性について指摘しておくだけでいいだろう。
セックスには麻薬的効果があるが
この麻薬的効果という意味は、逃避的恍惚になり得るということではなく、極めて生理的方向から入ったにしろ、
セックスも麻薬も意識変容の自己目的的な媒体となり得るということだ。
ジャン・コクトーが阿片的冥想によって、性愛の神秘主義的認識に到った記述をもう一つあげておこう。
「阿片がセックスの執着をすべて取り去ってしまうというので、用いる者の衰弱を来たすと見るは当たらない。
なぜかというに、 阿片は陰萎の原因とならないのみか、かなり下等な類に属するこの執着に代えるに、性的に常態にある組織の知らない極めて不思議な
そしてかなり高度な類の執着をもってするから」(「阿片」)
性的に常態にある性的執着というのは、
病的征服欲をその内部に宿しているのが、現代文明人のおおかたの姿であろう。
しかし、本来の人間は決して慢性的な
欲求不満状態にはない。
どのような冥想によったにしろ、人が分裂的自我から解放された時、セックスは二度と欲情の苦悶とはなり得ない。
セックスも又、あらゆる人間的営為と
同じように宇宙的生命の自由な流れ以外の何ものでもない。
LSD・マリファナなどは、現代文明人のタイトな自我を解放するのに役立つ生理的手段ともなり得るが
しかし、もし、ある種の薬物が冥想性トランスにまで到達するならば、それが生理的でも手段でもなかったことを
自覚することになる。
ペヨーテは知者ドン・ファンにとってメスカリオーテという名の、生きて働き、服用者との間に神秘的有機性を
目覚めしめる神なのである。
そしてこの道すじは麻薬神秘主義とでもいったものであり、セックスが冥想化する過程と似かよったものと
いうことになるだろう。
真正のエロティック・ヨーガの説明にある生理的刺激からの冥想というのも、一つのエセ科学的な説明にすぎない。
解脱した性愛冥想者は、鳥が天空を飛び魚が水中を泳ぐように性愛している。
宇宙意識がこの世を生きている時、
彼にはふさわしい道、ふさわしい魂の家族がいる。
そしてふさわしい性愛パートナーが。
―――性愛漂流―――
インドラの霊夢
僕と君は気狂いのように四六時中セックスしたっけ。
それからセックスしている最中に、
君が帰神状態になって死者の電魂に乗り移られた時もあったね。
あの時は本当に冷たい霊風が部屋の中を吹きぬけたっけ。
正直言ってあまりいい気持ちの出来事ではなかったよ。
君とのセックスがとてもよかったから尚更だ。
でも驚くにはあたらない。
性的オルガズムはトランスの一形式だからね。
君はオルガズムの時、輝く海に溺れ死ぬようだと
よく言っていたね。
でも僕だって同じだ。
僕もやがてはセックスの最中に光輝く生命の海がはっきりと観えるようになった。
今の僕はセックスの最中に観える光輝く海が、単なる幻覚などではないことを知っている。
光輝く生命の海こそ正真正銘の実在なんだ。
私がセックスを一番強く問題にしだしたのは、
十六・七の頃だった。
その頃私は禅道の研究実践に本格的に
とり組み始めていた。 』
(冥想非体験(性愛冥想)/ダンテス・ダイジから引用)
『あなたは、あなたの自我という仮存在の虚無性を、とことん直視せねばならない。 そして、そこに『冥想』という宇宙意識的自己を自覚する行が始まる。』
ここで、自我の虚無性を、とことん直視して冥想が始まる。その直視がなければ、性愛冥想も始まらない。
『無限のあなた自身が宇宙となり、国家となり、社会となり、家庭となり、性愛となる。』
大悟覚醒すれば、人は神として、宇宙となり、国家となり、社会となり、家庭となり、性愛となる。
『セックスは自分の個性にふさわしい異性に出会った時にのみ、純粋な悦びとしてのセックスになる。』
これは、一見当たり前のことを言っているが、意識変容の自己目的的な媒体となり得るという意味も含む。
『子供たちは自分の中に
自然の麻薬を持っている。」』
このコクトーの言葉は、麻薬により究極に至る適性を持った者がはまって、究極に至ることができるという意味と思う。
『宇宙的自己に目覚めている姿が、人間の本来の健康状態であり、それゆえ純粋な宗教は必ず神秘主義的体験にその中心がある。』
これまでの純粋な宗教は、究極の神秘主義的体験のある教祖を中心に成立していたが、これからは、万人が究極の神秘主義的体験を経て宇宙的自己に目覚めて生きるということ。
『中国人は少ししか喫まず、また少ししか身動かない。
彼らは阿片に特別サービスは何も求めない。
彼らは阿片を尊敬し、阿片が自由にその波を拡げるに委しておく。』
これが、古人がソーマをパイロット(水先案内人)と呼んだ所以。
『ここでも問題は麻薬性トランスという一つの場が、冥想体験の生起するものとなり得るということである。』
ダンテス・ダイジは、麻薬性トランスが性愛冥想トランスとの類似を語っている。古代インドや、ヤキ・インディアンのドンファンは、ソーマ・ヨーガとして麻薬性トランスを利用していた。
よって次のように述べるが、至高な非欲望的な愛の成否は、魂の発達如何の問題もファクターの一つ。
『麻薬もまたセックスや純粋冥想行為と同様に虚無からの一時的逃避にもなれば、虚無を虚無化するあの至高な非欲望的な愛ともなり得る。
そしてそれはそれをなす人々の魂の発達如何の問題となる。』
さらに突っ込んで
『セックスも麻薬も意識変容の自己目的的な媒体となり得るということだ。』
と言っているが、これは体験した人しかわからないし、善良な市民は確認するすべはない。
『もし、ある種の薬物が冥想性トランスにまで到達するならば、それが生理的でも手段でもなかったことを
自覚することになる。』
これも、体験した人しかわからない。
『解脱した性愛冥想者は、鳥が天空を飛び魚が水中を泳ぐように性愛している。』
“鳥が天空を飛び魚が水中を泳ぐ”は、道元の言葉。

冥想非体験(性愛冥想)の続き
『この神であるあなたの、現実そのものの姿にほかならない。
嫌悪すべき偽善的な社会性などというものが、今やどこにあろう。
あなたが一切の抑圧から解放され、
あなたの霊的主体を回復した時、虚無という観念の仮想はもうどこにもなく、それゆえ性愛行為は不安からの逃避のための道具ではなく、『神的愛』の
一体性を表現する自然な戯れとなるのである。
あなたは、あなたの自我という仮存在の虚無性を、とことん直視せねばならない。 そして、そこに『冥想』という宇宙意識的自己を自覚する行が始まる。
あなたは心の底の底から、本当に願うものが何であるかを知り、素直にそれを選ぶ。
霊的因縁の出会いが、あなたに起こり、
あなたは永遠に持続する霊的性愛の何であるかを、全身全霊で体感するであろう。
自我防衛戦争の社会性という法則は終わりを告げる。
無限のあなた自身が宇宙となり、国家となり、社会となり、家庭となり、性愛となる。
反社会、 反体制とか虚無・不条理とかは、あなたのとるに足りぬ自我が作り出した幻影にすぎない。ゲームは終わったのだ。
麻薬とセックス
「阿片の感化を受けた超性的本能は
世紀と芸術を乗りこえて、
その外見にあやまられることなしに、
あるタイプの精神を嗅ぎつけ、探し、
それに結びつく。」
(ジャン・コクトー『阿片』)
このコクトーによる超性的本能の自覚は、人間の性欲がより高次元なものになりうる例をしめしている。
セックスは自分の個性にふさわしい異性に出会った時にのみ、純粋な悦びとしてのセックスになる。
ジャン・コクトーは阿片による神秘体験への旅を彼なりにたどって、結局は阿片中毒に落ち入ってしまった。
そして、療養所で不健康な中毒治癒者となった彼は、その療養所からの退院直前に言う。
「樹木を好んで描く画家が
樹木になってしまうように
子供たちは自分の中に
自然の麻薬を持っている。」
いかなる分裂的自我のための武装も、病的なものである。
宇宙的自己に目覚めている姿が、人間の本来の健康状態であり、それゆえ純粋な宗教は必ず神秘主義的体験にその中心がある。
コクトーが人間自我の虚無から、本来の健康を目指した阿片冥想者とでも言いうる人物であることは、彼の著述から充分うかがえる。ただ彼は彼の言う中国人ほどに阿片の使用法に通達していなかった。
「中国人は少ししか喫まず、また少ししか身動かない。
彼らは阿片に特別サービスは何も求めない。
彼らは阿片を尊敬し、阿片が自由にその波を拡げるに委しておく。
僕らのごとき門外の俗人のみがそこに興奮を求めようとして
いつも罰せられる。
生と死とは、お互いに一枚の銅貨の裏と表とほどへだたっているのだが
阿片が銅貨を貫いてくれるのだ。」
(『わが魂の告白』)
コクトーの考えている中国人はメスカリオーテの知者ドンファンやジャマイカのマリファナ冥想家ラスタマンを
予想している。
麻薬―これには酒を含めることはもちろんである― を
虚無的自我にフタをするものとして使用すれば、
それは媚薬であったり、興奮剤であったり、精力や自我の征服欲の強大化という一時的満足であったりすることになろう。
しかし、虚無と自我防衛との人間営為を語っても意味はない。
ここでも問題は麻薬性トランスという一つの場が、冥想体験の生起するものとなり得るということである。
麻薬もまたセックスや純粋冥想行為と同様に虚無からの一時的逃避にもなれば、虚無を虚無化するあの至高な非欲望的な愛ともなり得る。
そしてそれはそれをなす人々の魂の発達如何の問題となる。
麻薬によるセックスの享楽的陶酔に関してこれ以上ふれないとなると、麻薬とセックスとの冥想的機能の相似性について指摘しておくだけでいいだろう。
セックスには麻薬的効果があるが
この麻薬的効果という意味は、逃避的恍惚になり得るということではなく、極めて生理的方向から入ったにしろ、
セックスも麻薬も意識変容の自己目的的な媒体となり得るということだ。
ジャン・コクトーが阿片的冥想によって、性愛の神秘主義的認識に到った記述をもう一つあげておこう。
「阿片がセックスの執着をすべて取り去ってしまうというので、用いる者の衰弱を来たすと見るは当たらない。
なぜかというに、 阿片は陰萎の原因とならないのみか、かなり下等な類に属するこの執着に代えるに、性的に常態にある組織の知らない極めて不思議な
そしてかなり高度な類の執着をもってするから」(「阿片」)
性的に常態にある性的執着というのは、
病的征服欲をその内部に宿しているのが、現代文明人のおおかたの姿であろう。
しかし、本来の人間は決して慢性的な
欲求不満状態にはない。
どのような冥想によったにしろ、人が分裂的自我から解放された時、セックスは二度と欲情の苦悶とはなり得ない。
セックスも又、あらゆる人間的営為と
同じように宇宙的生命の自由な流れ以外の何ものでもない。
LSD・マリファナなどは、現代文明人のタイトな自我を解放するのに役立つ生理的手段ともなり得るが
しかし、もし、ある種の薬物が冥想性トランスにまで到達するならば、それが生理的でも手段でもなかったことを
自覚することになる。
ペヨーテは知者ドン・ファンにとってメスカリオーテという名の、生きて働き、服用者との間に神秘的有機性を
目覚めしめる神なのである。
そしてこの道すじは麻薬神秘主義とでもいったものであり、セックスが冥想化する過程と似かよったものと
いうことになるだろう。
真正のエロティック・ヨーガの説明にある生理的刺激からの冥想というのも、一つのエセ科学的な説明にすぎない。
解脱した性愛冥想者は、鳥が天空を飛び魚が水中を泳ぐように性愛している。
宇宙意識がこの世を生きている時、
彼にはふさわしい道、ふさわしい魂の家族がいる。
そしてふさわしい性愛パートナーが。
―――性愛漂流―――
インドラの霊夢
僕と君は気狂いのように四六時中セックスしたっけ。
それからセックスしている最中に、
君が帰神状態になって死者の電魂に乗り移られた時もあったね。
あの時は本当に冷たい霊風が部屋の中を吹きぬけたっけ。
正直言ってあまりいい気持ちの出来事ではなかったよ。
君とのセックスがとてもよかったから尚更だ。
でも驚くにはあたらない。
性的オルガズムはトランスの一形式だからね。
君はオルガズムの時、輝く海に溺れ死ぬようだと
よく言っていたね。
でも僕だって同じだ。
僕もやがてはセックスの最中に光輝く生命の海がはっきりと観えるようになった。
今の僕はセックスの最中に観える光輝く海が、単なる幻覚などではないことを知っている。
光輝く生命の海こそ正真正銘の実在なんだ。
私がセックスを一番強く問題にしだしたのは、
十六・七の頃だった。
その頃私は禅道の研究実践に本格的に
とり組み始めていた。 』
(冥想非体験(性愛冥想)/ダンテス・ダイジから引用)
『あなたは、あなたの自我という仮存在の虚無性を、とことん直視せねばならない。 そして、そこに『冥想』という宇宙意識的自己を自覚する行が始まる。』
ここで、自我の虚無性を、とことん直視して冥想が始まる。その直視がなければ、性愛冥想も始まらない。
『無限のあなた自身が宇宙となり、国家となり、社会となり、家庭となり、性愛となる。』
大悟覚醒すれば、人は神として、宇宙となり、国家となり、社会となり、家庭となり、性愛となる。
『セックスは自分の個性にふさわしい異性に出会った時にのみ、純粋な悦びとしてのセックスになる。』
これは、一見当たり前のことを言っているが、意識変容の自己目的的な媒体となり得るという意味も含む。
『子供たちは自分の中に
自然の麻薬を持っている。」』
このコクトーの言葉は、麻薬により究極に至る適性を持った者がはまって、究極に至ることができるという意味と思う。
『宇宙的自己に目覚めている姿が、人間の本来の健康状態であり、それゆえ純粋な宗教は必ず神秘主義的体験にその中心がある。』
これまでの純粋な宗教は、究極の神秘主義的体験のある教祖を中心に成立していたが、これからは、万人が究極の神秘主義的体験を経て宇宙的自己に目覚めて生きるということ。
『中国人は少ししか喫まず、また少ししか身動かない。
彼らは阿片に特別サービスは何も求めない。
彼らは阿片を尊敬し、阿片が自由にその波を拡げるに委しておく。』
これが、古人がソーマをパイロット(水先案内人)と呼んだ所以。
『ここでも問題は麻薬性トランスという一つの場が、冥想体験の生起するものとなり得るということである。』
ダンテス・ダイジは、麻薬性トランスが性愛冥想トランスとの類似を語っている。古代インドや、ヤキ・インディアンのドンファンは、ソーマ・ヨーガとして麻薬性トランスを利用していた。
よって次のように述べるが、至高な非欲望的な愛の成否は、魂の発達如何の問題もファクターの一つ。
『麻薬もまたセックスや純粋冥想行為と同様に虚無からの一時的逃避にもなれば、虚無を虚無化するあの至高な非欲望的な愛ともなり得る。
そしてそれはそれをなす人々の魂の発達如何の問題となる。』
さらに突っ込んで
『セックスも麻薬も意識変容の自己目的的な媒体となり得るということだ。』
と言っているが、これは体験した人しかわからないし、善良な市民は確認するすべはない。
『もし、ある種の薬物が冥想性トランスにまで到達するならば、それが生理的でも手段でもなかったことを
自覚することになる。』
これも、体験した人しかわからない。
『解脱した性愛冥想者は、鳥が天空を飛び魚が水中を泳ぐように性愛している。』
“鳥が天空を飛び魚が水中を泳ぐ”は、道元の言葉。
