◎自己が一切万物と本来一体であったことの歓喜
冥想非体験(性愛冥想)の続き
『私はあらゆる欲望の捨離を願っていたし、他のあらゆる存在から遠く離れて孤高に生きられることが自由そのものであり、私の願っているものだと考えていた。
そして、思春期の欲情の嵐に苦しんでいた私に幕末の禅者、山岡鉄舟の言葉と行為は強い影響を与えた。
「もし、情欲が真個、自由な人となりたければ、自ら進んで情欲海の激浪中に飛び込んで、その正体を見破って来い。」
そう鉄舟は弟子に語っている。
そして鉄舟自身も自身の情欲に苦しみ抜いて、二十から四十歳ぐらいの間、自ら情欲海の激浪中に飛び込むという仏教徒としては破戒的な所行を身をもって実践している。
そして「情欲を疑い出してから二十年、女と接すること無数。
その間に幾度となく言語を絶する苦汁をなめた。」と
述懐することとなる。鉄舟、大悟の時、彼は男女の別を忘れる境涯に至ったと言われている。
これが禅者のあいだでは有名な鉄舟の『色情旅行』なるものである。
この山岡鉄舟の『色情旅行』には一休禅師などが、酒色の中へ自身の意志で出入りした『異類中行』的側面はない。鉄舟の色情修行は、正統仏教者から見れば、外道ということになるであろう。
『異類中行』というのは禅用語で、大悟徹底した禅者が衆生済度をも意識せずして、あえて清浄の山林生活を捨てて、金と酒色の巷に生きることを意味する。
若き日の情欲にとらわれている鉄舟には、とても『異類中行』的な余裕などない。
そして思春期の情欲のうっとおしさに苦しんでいた私も又
鉄舟と同じ色情旅行を実践する以外にないという志を持った。
私が本当に自己にまつわる色情を問題にしだしたのは、性的初体験後、数ヶ月たってからだった。
私はいかなるものにも依存したくない。
私がもの心ついて以来、誰に教えられたのでもなく、結跏趺坐の坐禅を続けてきたのも、完璧な自由への憧れからであった。
だが私はその当時、自我の不安から発する欲情に隷属することなく、ただ一人で生きられる自己の姿を妄想し渇望していたのだ。
私は人間相互の愛情や性愛の交流も、
神が人間に与えた愛の一つの姿であることを知らなかった。
今の私は、もう人間の悲劇を好むことも見たいと思うことも、そして見ることもない。
私は宇宙意識の多様多元の世界がジグソーパズルのように互いに見事にフィットし合っている姿を見る。
人間に越えるべき煩悩も欲情も、もともとはありはしない。
人間は宇宙意識としての自己を確認覚証する時、合い会うものが出会い、その時所位で離れ去るべきものは離れ去ることを知る。
ここでは性愛も又、その他の人間の多種多様な諸行為と同じように神の自己表現となる。
むき出しに自我の内容を認識した人間にとって不条理、虚無、無常の人間自我的現実に耐えることができようか。
生老病死の苦悩がもし実在しているものならば、その苦悩に打ち勝ち得る人間自我など、ただ一つとして存在し得はしない。
どのように自我をかたくなに防衛し続け、自我内部の混乱にフタをして強く生きていると信じ込んでいる立派な社会人であっても、一度、その人間自我の直面する虚無の闇がむき出しにされれば彼は破局点に達して赤ん坊のように泣き叫ぶか発狂してしまうであろう。
虚無に耐えられる人間など一人としていはしない。
愛なくして、安心なくして生きられる人間などいやしないのだ。
しかし、人間の本性はすべて宇宙的安心の中に安立している。 だからこそ、虚無を完全に直視し得た人に虚無が非存在であることと、自己が一切万物と
本来一体であったことの歓喜という霊的覚醒が起こり得るのである。
私たちは何よりも『あるもの』を求めている。
その『あるもの』を愛、安心、歓喜、智恵 、力、自由、その他、どんな言葉でもよいが、それは人間である限り、
誰でもが知っている悲惨さに対する絶対的な解決を与える『あるもの』である。
私たちの深い心が何を本当に求めているかを自覚すれば、その自覚の深さが、それ自体で答えを発見することができる。
霊的性愛、性愛の神秘体験は、あらゆる現代までの人類の偏見が植えつけた表層的な欲情、性欲、煩悩がまさに表層的な個定観念にすぎないがゆえに
自消自滅したところから始まる。
大多数が考えているように獣欲的本能が人間の最深部にあると考えるのは、フロイドの精欲的精神分析学と同様に人類の先入的信念からくる妄想にすぎない。
解放された人類に通俗的な性欲の欲求不満や不安の悩みはない。
彼等は自己の本来の自由自在な霊的姿とあとから植えつけられたニセ物の享楽、不安、嫉妬、渇欲などの観念との区別を明僚に知っているからである。
三島由紀夫の小説『仮面の告白』や『金閣寺』には、自意識が常に完全主義でありたいということによる
性的結合の不可能性がえがかれている。
私も又、私の色情旅行の初期に、この自意識の妄執による性的結合の不可能性という問題に出会った。
結合の不可能性というと、いかにも難しいものになってしまうが、その人の観念的抑圧が内面のエネルギーとあるがままの姿をはばんでいるということであり、男性のインポテンツや、早漏や射精不能や性交のシラケた気分、また女性の不感症、冷感症など、それに男女が出会って性愛を確かめ合うふれ合いや充足感の欠如などすべて完全主義的自我の観念が、あるがままの内的素直さにフタをしているところから
来る。
しかし、このようなことは心理学的常識であるから、あえて述べる必要はないのかもしれない。
それでも私が人間のあらゆる潜在観念の抑圧の性質をここに書いているのは人間が自己内部の潜在的束縛を解放していく深さには限りがないからである。
私達がある不都合や不安恐怖、内的葛藤、欲求不満などの問題を自覚した時、
私達はそれらの問題の原因である自我内部の束縛、抑圧に直面せねばならなくなっている。
そして私達が、自我がかかえている問題を真正面から直視する時、私達は自己解放の糸口を発見したこととなる。
現代人の束縛、抑圧の種類は無数であり、私達の魂のレヴェルに応じて、その問題意識も部分的なものから全体的なものへ、表層的なものからより存在自体の核心に迫る深いものまで提起されていく。
そして私達は、この魂の自己解放の旅の窮極において自我という存在さえもが一つの抑圧にすぎないことを知る。
ここにマズロウの心理学でいう絶頂体験が始まる。
仏教で説く解脱涅槃ということも、この自我というしこりそのものの絶対的消滅ということになる。
私達、現代文明人は自我の防衛維持に必死である一方、その自我という固いカラの束縛から解き放たれる時を
つねに願っている。 私達は本当は自我にまつわるすべてをさらけ出したいと願っている。
愛情や霊的愛は自我を開き切ったところにしかない。
私は私のインポや早漏や情感欠如の性的障害の克服努力を通じて、本当の私自身が求めているものが何であるかを自覚せしめられた。
私の自我の中にある支配欲や権力欲や享楽欲といったものは、すべて自我解放を願う人間の根本的願望の屈折歪曲した状態に他ならない。
十六、七の頃から、私は情欲・結婚・家庭とつらなるものが自我を存続安定せしめるためのはかない保証を求める欲望と見て、これから離脱するための色情旅行を始めたわけだが、二十歳に起ったある出来事までは、
男と女の霊的因縁や魂としての男女の一体性といったことを信じなかった。
ただ、もう女性と見れば誰かれの区別なしに口説いて、ホテルやアパートに連れ込んだり、同棲生活のようなことをくり返した。 そして私の不安や不満はいよいよ強いものになり、インポテンツになったり、早漏になったり、虚しいセックスを味わった。 十九歳の時、ある女性と同棲して、
私の自意識の緊張からくる性的障害をいよいよ強く意識して悩んだ。
そんなある夜、私は一つの夢を見た。
その夢にはインドラと呼ばれるヒンドゥーの神が現れた。
その夢の強烈さと私に与えた教示から考えても、
それは一つの霊夢というべきものであった。
インドラ神はインドでは雷神とか戦闘の神として
民衆に崇められているのだが、そのインドラ神は夢の中で褐色の肌をあらわにして、光り輝いていた。
そしてインドラは、ある体位で女性を抱き、
性愛の戯れを私に見せ、セックスの具体的方法と
心構えといったようなことを教えてくれた。
それはもの狂おしい夢という感じではなく、性愛と神々の戯れに関する神秘的秘儀を感じさせるものであり、私は実にすがすがしく神聖な感銘を与えられた。
その霊夢を見た直後、 私の内部から一つの文句が自然に浮かんできた。
「落ちてはいけない
意識を広く持つのだ
女神の悦びのために」
この夢以来、少なくとも性行為そのものに関する私の障害は消え去ってしまった。
そして性愛の神秘主義的可能性に私は
目覚めせしめられた。 しかし、この段階では霊的性愛、性愛神秘主義そのものへの肉薄は今だあわいものだったが。
この霊夢に現れ、私に性愛の本質を予感させてくれた神霊がインドラであるということは、それからしばらくしたあと、インド古代彫刻の写真を見て明確になった。
三島由紀夫の『金閣寺』では
柏木という内翻足の不具者が、自己の性的劣等感や
障害を克服したいきさつが柏木の告白という形で記述されている。 この三島の小説の副主人公、柏木は
肉体の不具により肥大した自意識の過剰の眼を持って
意識性と肉体性との逆説を理解している。
意識性が性交の一体を信奉すればするほど、彼の肉体的機能は停止してしまう。
そこで彼はある日、老醜の老婆と姦通し、その性行為の最中に、男女がそのセックスによる
陶酔的一体感を追求することの不可能を直視する。
柏木がセックスする女と柏木とは、その性行為を通じて「愛」という自己忘越の瞬間には至らない。
その「愛」の人間自我にとっての絶対的不可能を
冷ややかな観察眼で柏木は知る。
老醜との性交によって柏木は男女の性的結合が、陶酔的な一体感であらねばならないという観念の束縛から自由になり、彼の性的障害は克服される。
そして柏木は新たな虚無の中に、次々に女をものにしていくということになる。
こく局部的なものであるが、とにかく柏木の中に一つの自己解放が生じたのである。』
(冥想非体験(性愛冥想)/ダンテス・ダイジから引用)
『この山岡鉄舟の『色情旅行』には一休禅師などが、酒色の中へ自身の意志で出入りした『異類中行』的側面はない。』
山岡鉄舟は性愛冥想で大悟、一休は大悟後に異類中行。
『私は宇宙意識の多様多元の世界がジグソーパズルのように互いに見事にフィットし合っている姿を見る。』
この宇宙意識は、有の方であって無・ニルヴァーナではない。禅者のいうピタリピタリ。
『ここでは性愛も又、その他の人間の多種多様な諸行為と同じように神の自己表現となる。』
神が神を神している。
『虚無に耐えられる人間など一人としていはしない。
愛なくして、安心なくして生きられる人間などいやしないのだ。
しかし、人間の本性はすべて宇宙的安心の中に安立している。』
このような現実との直面ができれば、悟りに近いかも。
『現代人の束縛、抑圧の種類は無数であり、私達の魂のレヴェルに応じて、その問題意識も部分的なものから全体的なものへ、表層的なものからより存在自体の核心に迫る深いものまで提起されていく。
そして私達は、この魂の自己解放の旅の窮極において自我という存在さえもが一つの抑圧にすぎないことを知る。』
魂のレヴェルが熟さないと、最深までは届かない。
『意識性が性交の一体を信奉すればするほど、彼の肉体的機能は停止してしまう。』
セックスは無意識で行われるが、性愛冥想修行の困難さは、この部分である。
だから
『柏木がセックスする女と柏木とは、その性行為を通じて「愛」という自己忘越の瞬間には至らない。
その「愛」の人間自我にとっての絶対的不可能を
冷ややかな観察眼で柏木は知る。』
となる。

冥想非体験(性愛冥想)の続き
『私はあらゆる欲望の捨離を願っていたし、他のあらゆる存在から遠く離れて孤高に生きられることが自由そのものであり、私の願っているものだと考えていた。
そして、思春期の欲情の嵐に苦しんでいた私に幕末の禅者、山岡鉄舟の言葉と行為は強い影響を与えた。
「もし、情欲が真個、自由な人となりたければ、自ら進んで情欲海の激浪中に飛び込んで、その正体を見破って来い。」
そう鉄舟は弟子に語っている。
そして鉄舟自身も自身の情欲に苦しみ抜いて、二十から四十歳ぐらいの間、自ら情欲海の激浪中に飛び込むという仏教徒としては破戒的な所行を身をもって実践している。
そして「情欲を疑い出してから二十年、女と接すること無数。
その間に幾度となく言語を絶する苦汁をなめた。」と
述懐することとなる。鉄舟、大悟の時、彼は男女の別を忘れる境涯に至ったと言われている。
これが禅者のあいだでは有名な鉄舟の『色情旅行』なるものである。
この山岡鉄舟の『色情旅行』には一休禅師などが、酒色の中へ自身の意志で出入りした『異類中行』的側面はない。鉄舟の色情修行は、正統仏教者から見れば、外道ということになるであろう。
『異類中行』というのは禅用語で、大悟徹底した禅者が衆生済度をも意識せずして、あえて清浄の山林生活を捨てて、金と酒色の巷に生きることを意味する。
若き日の情欲にとらわれている鉄舟には、とても『異類中行』的な余裕などない。
そして思春期の情欲のうっとおしさに苦しんでいた私も又
鉄舟と同じ色情旅行を実践する以外にないという志を持った。
私が本当に自己にまつわる色情を問題にしだしたのは、性的初体験後、数ヶ月たってからだった。
私はいかなるものにも依存したくない。
私がもの心ついて以来、誰に教えられたのでもなく、結跏趺坐の坐禅を続けてきたのも、完璧な自由への憧れからであった。
だが私はその当時、自我の不安から発する欲情に隷属することなく、ただ一人で生きられる自己の姿を妄想し渇望していたのだ。
私は人間相互の愛情や性愛の交流も、
神が人間に与えた愛の一つの姿であることを知らなかった。
今の私は、もう人間の悲劇を好むことも見たいと思うことも、そして見ることもない。
私は宇宙意識の多様多元の世界がジグソーパズルのように互いに見事にフィットし合っている姿を見る。
人間に越えるべき煩悩も欲情も、もともとはありはしない。
人間は宇宙意識としての自己を確認覚証する時、合い会うものが出会い、その時所位で離れ去るべきものは離れ去ることを知る。
ここでは性愛も又、その他の人間の多種多様な諸行為と同じように神の自己表現となる。
むき出しに自我の内容を認識した人間にとって不条理、虚無、無常の人間自我的現実に耐えることができようか。
生老病死の苦悩がもし実在しているものならば、その苦悩に打ち勝ち得る人間自我など、ただ一つとして存在し得はしない。
どのように自我をかたくなに防衛し続け、自我内部の混乱にフタをして強く生きていると信じ込んでいる立派な社会人であっても、一度、その人間自我の直面する虚無の闇がむき出しにされれば彼は破局点に達して赤ん坊のように泣き叫ぶか発狂してしまうであろう。
虚無に耐えられる人間など一人としていはしない。
愛なくして、安心なくして生きられる人間などいやしないのだ。
しかし、人間の本性はすべて宇宙的安心の中に安立している。 だからこそ、虚無を完全に直視し得た人に虚無が非存在であることと、自己が一切万物と
本来一体であったことの歓喜という霊的覚醒が起こり得るのである。
私たちは何よりも『あるもの』を求めている。
その『あるもの』を愛、安心、歓喜、智恵 、力、自由、その他、どんな言葉でもよいが、それは人間である限り、
誰でもが知っている悲惨さに対する絶対的な解決を与える『あるもの』である。
私たちの深い心が何を本当に求めているかを自覚すれば、その自覚の深さが、それ自体で答えを発見することができる。
霊的性愛、性愛の神秘体験は、あらゆる現代までの人類の偏見が植えつけた表層的な欲情、性欲、煩悩がまさに表層的な個定観念にすぎないがゆえに
自消自滅したところから始まる。
大多数が考えているように獣欲的本能が人間の最深部にあると考えるのは、フロイドの精欲的精神分析学と同様に人類の先入的信念からくる妄想にすぎない。
解放された人類に通俗的な性欲の欲求不満や不安の悩みはない。
彼等は自己の本来の自由自在な霊的姿とあとから植えつけられたニセ物の享楽、不安、嫉妬、渇欲などの観念との区別を明僚に知っているからである。
三島由紀夫の小説『仮面の告白』や『金閣寺』には、自意識が常に完全主義でありたいということによる
性的結合の不可能性がえがかれている。
私も又、私の色情旅行の初期に、この自意識の妄執による性的結合の不可能性という問題に出会った。
結合の不可能性というと、いかにも難しいものになってしまうが、その人の観念的抑圧が内面のエネルギーとあるがままの姿をはばんでいるということであり、男性のインポテンツや、早漏や射精不能や性交のシラケた気分、また女性の不感症、冷感症など、それに男女が出会って性愛を確かめ合うふれ合いや充足感の欠如などすべて完全主義的自我の観念が、あるがままの内的素直さにフタをしているところから
来る。
しかし、このようなことは心理学的常識であるから、あえて述べる必要はないのかもしれない。
それでも私が人間のあらゆる潜在観念の抑圧の性質をここに書いているのは人間が自己内部の潜在的束縛を解放していく深さには限りがないからである。
私達がある不都合や不安恐怖、内的葛藤、欲求不満などの問題を自覚した時、
私達はそれらの問題の原因である自我内部の束縛、抑圧に直面せねばならなくなっている。
そして私達が、自我がかかえている問題を真正面から直視する時、私達は自己解放の糸口を発見したこととなる。
現代人の束縛、抑圧の種類は無数であり、私達の魂のレヴェルに応じて、その問題意識も部分的なものから全体的なものへ、表層的なものからより存在自体の核心に迫る深いものまで提起されていく。
そして私達は、この魂の自己解放の旅の窮極において自我という存在さえもが一つの抑圧にすぎないことを知る。
ここにマズロウの心理学でいう絶頂体験が始まる。
仏教で説く解脱涅槃ということも、この自我というしこりそのものの絶対的消滅ということになる。
私達、現代文明人は自我の防衛維持に必死である一方、その自我という固いカラの束縛から解き放たれる時を
つねに願っている。 私達は本当は自我にまつわるすべてをさらけ出したいと願っている。
愛情や霊的愛は自我を開き切ったところにしかない。
私は私のインポや早漏や情感欠如の性的障害の克服努力を通じて、本当の私自身が求めているものが何であるかを自覚せしめられた。
私の自我の中にある支配欲や権力欲や享楽欲といったものは、すべて自我解放を願う人間の根本的願望の屈折歪曲した状態に他ならない。
十六、七の頃から、私は情欲・結婚・家庭とつらなるものが自我を存続安定せしめるためのはかない保証を求める欲望と見て、これから離脱するための色情旅行を始めたわけだが、二十歳に起ったある出来事までは、
男と女の霊的因縁や魂としての男女の一体性といったことを信じなかった。
ただ、もう女性と見れば誰かれの区別なしに口説いて、ホテルやアパートに連れ込んだり、同棲生活のようなことをくり返した。 そして私の不安や不満はいよいよ強いものになり、インポテンツになったり、早漏になったり、虚しいセックスを味わった。 十九歳の時、ある女性と同棲して、
私の自意識の緊張からくる性的障害をいよいよ強く意識して悩んだ。
そんなある夜、私は一つの夢を見た。
その夢にはインドラと呼ばれるヒンドゥーの神が現れた。
その夢の強烈さと私に与えた教示から考えても、
それは一つの霊夢というべきものであった。
インドラ神はインドでは雷神とか戦闘の神として
民衆に崇められているのだが、そのインドラ神は夢の中で褐色の肌をあらわにして、光り輝いていた。
そしてインドラは、ある体位で女性を抱き、
性愛の戯れを私に見せ、セックスの具体的方法と
心構えといったようなことを教えてくれた。
それはもの狂おしい夢という感じではなく、性愛と神々の戯れに関する神秘的秘儀を感じさせるものであり、私は実にすがすがしく神聖な感銘を与えられた。
その霊夢を見た直後、 私の内部から一つの文句が自然に浮かんできた。
「落ちてはいけない
意識を広く持つのだ
女神の悦びのために」
この夢以来、少なくとも性行為そのものに関する私の障害は消え去ってしまった。
そして性愛の神秘主義的可能性に私は
目覚めせしめられた。 しかし、この段階では霊的性愛、性愛神秘主義そのものへの肉薄は今だあわいものだったが。
この霊夢に現れ、私に性愛の本質を予感させてくれた神霊がインドラであるということは、それからしばらくしたあと、インド古代彫刻の写真を見て明確になった。
三島由紀夫の『金閣寺』では
柏木という内翻足の不具者が、自己の性的劣等感や
障害を克服したいきさつが柏木の告白という形で記述されている。 この三島の小説の副主人公、柏木は
肉体の不具により肥大した自意識の過剰の眼を持って
意識性と肉体性との逆説を理解している。
意識性が性交の一体を信奉すればするほど、彼の肉体的機能は停止してしまう。
そこで彼はある日、老醜の老婆と姦通し、その性行為の最中に、男女がそのセックスによる
陶酔的一体感を追求することの不可能を直視する。
柏木がセックスする女と柏木とは、その性行為を通じて「愛」という自己忘越の瞬間には至らない。
その「愛」の人間自我にとっての絶対的不可能を
冷ややかな観察眼で柏木は知る。
老醜との性交によって柏木は男女の性的結合が、陶酔的な一体感であらねばならないという観念の束縛から自由になり、彼の性的障害は克服される。
そして柏木は新たな虚無の中に、次々に女をものにしていくということになる。
こく局部的なものであるが、とにかく柏木の中に一つの自己解放が生じたのである。』
(冥想非体験(性愛冥想)/ダンテス・ダイジから引用)
『この山岡鉄舟の『色情旅行』には一休禅師などが、酒色の中へ自身の意志で出入りした『異類中行』的側面はない。』
山岡鉄舟は性愛冥想で大悟、一休は大悟後に異類中行。
『私は宇宙意識の多様多元の世界がジグソーパズルのように互いに見事にフィットし合っている姿を見る。』
この宇宙意識は、有の方であって無・ニルヴァーナではない。禅者のいうピタリピタリ。
『ここでは性愛も又、その他の人間の多種多様な諸行為と同じように神の自己表現となる。』
神が神を神している。
『虚無に耐えられる人間など一人としていはしない。
愛なくして、安心なくして生きられる人間などいやしないのだ。
しかし、人間の本性はすべて宇宙的安心の中に安立している。』
このような現実との直面ができれば、悟りに近いかも。
『現代人の束縛、抑圧の種類は無数であり、私達の魂のレヴェルに応じて、その問題意識も部分的なものから全体的なものへ、表層的なものからより存在自体の核心に迫る深いものまで提起されていく。
そして私達は、この魂の自己解放の旅の窮極において自我という存在さえもが一つの抑圧にすぎないことを知る。』
魂のレヴェルが熟さないと、最深までは届かない。
『意識性が性交の一体を信奉すればするほど、彼の肉体的機能は停止してしまう。』
セックスは無意識で行われるが、性愛冥想修行の困難さは、この部分である。
だから
『柏木がセックスする女と柏木とは、その性行為を通じて「愛」という自己忘越の瞬間には至らない。
その「愛」の人間自我にとっての絶対的不可能を
冷ややかな観察眼で柏木は知る。』
となる。
