退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「非~」について

2010-12-01 03:41:38 | Weblog
くもり。まだコートは着ていない。

鏡裕之「非実在青少年論 オタクと資本主義」を読む。

「非実在青少年」とは「フィクションの中の幼児から高校三年生」を指すらしい。
彼らのセックスが「肯定的に描かれていたらアウトにしよう」と東京都は条例を作ると。

「性的嗜好」はそれぞれであり実はどこにも「正常」はない。
たとえばオナニーのための「性的幻想」はそのまま実行されるものではないのが「事実」。

「強姦シーン」のあるヴィデオやアニメを見たから
実際に強姦が行われるわけではないということ。

あくまでそれらは「ファンタジー」で
男女問わずそれを実際に望んでいる者は少ないということなど。

要は「遊び」として楽しめるネタであり
ある種のフラストレーションを発散する道具なはず。

それを地方公共団体がいたずらに規制しようとするのは
むしろ「遊び」の範囲を狭めて新たな「危険」を生むかもしれないのに。

さまざまな嗜好に対する分析は極めて明快でわかりやすい。
もちろんそれが「すべて」ではないとして。

好き嫌いは「自由」にあればよくて
それを一元的に管理しようとする発想はいかにもアナクロで馴染めない。

見田宗介「現代社会の理論 ―情報化・消費社会化の現在と未来―」を読む。

「人間はどんなものでも欲望することができるし、人間が見出す幸福の形態には限りがない」

それをテコに「転回」することに「可能性」を見た著者のまとめは見事。
14年前に出た本作は実は「オタクの流行」を予言したものなのかもしれない、ことにするか。

「無限の需要」を創り出すことで「恐慌」を乗り越えた資本制は
それを維持するために収奪すべき「外部」を常に必要とする。

「消費化・情報化」を享受できる「世界」と
それを可能にするために「世界」から忘れ去られる「世界」がある。

ただしいたずらに「革命」を求めるより「現実的な方法」を重視し
それは「潜勢力」として「可能」なのだというあたりのバランスが好ましい。

下世話に言ってしまえば
「祭り」は終わりがあるからこそ「祭り」なのだということ。

当初「非日常」とされたものも
ある程度続けば「日常」になってしまうというのが「理の当然」。

一生飽きないで続けられるものがあるかどうか。
実はそのあたりに「本当の非日常」があったりすることを忘れずに。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 楽しい刺激は大切にしたいと... | トップ | 基本は「不可知論」でないと »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事