退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「すべては『仮説』であることと『優しすぎるゴジラ』あるいは『男子の妄想』と『女子の現実』」について

2019-12-15 02:18:53 | Weblog
晴れ。今日もおだやか。

吉川幸次郎「宋詩概説」を読了。

「私は旧制度の文学博士であるが(中略)学位請求論文として提出したい」と。
著者の真っ当な姿勢にふむふむ。

文学であろうと科学であろうとすべては「仮説」。
後に新たに発見される事実もあり。

取得可能な範囲の材料によって「論」を組み立てるのみ。
もっともそこに「自負」があるのも忘れずに。

「世界の複雑さ」を思えばわれわれはせいぜい「眼高手低」。
そうならざるを得ないというのが「本来」のはずで。

AIに漢詩を書かせたらどうなるのか。
いずれ「真似」に過ぎないのだから「従来を超えるもの」はないのだろう。

ただしわれわれが気付いていない「共通部分」を見つけることは確か。
それが何なのかは興味津々。

ギャレス・エドワーズ「GODZILLA」(’14)を観る。

「変人の父親」が実は「まとも」だというのは黒澤明「生きものの記録」(’55)も。
それにしても5年前にしてこの「オリエンタリズム」は何ともはや。

とはいえ水爆実験も広島も登場する本作はなかなかに味わい深い。
「制御不能なもの」を維持してしまうことの罪よ。

むしろゴジラは人類に対して優しすぎるような。
津波の映像はおそらく3.11の現実を参考にしたと思われる。

正直このゴジラの姿は微妙。
ただしそれを超える内容があるので「まあいいか」。

宝田明のシーンはカットされたらしいがエンドロールには名前があり。
あまり魅力のないジュリエット・ビノシュは冒頭だけ。

渡辺謙の芹沢博士の名前が「猪四郎」であることを忘れずに。
もちろんオリジナルの監督「本多猪四郎」の引用。

とはいえ彼は平田昭彦ほどの魅力はなく。
ただ見守るだけという感じだもの。

高層ビル群が「廃墟」になる姿を覚えておこう。
「鎌を持つ生きもの」がどうやらわれわれの「恐怖」をそそることも。

中村登「濡れた壺」(’76)を観る。

初めて観る谷ナオミのSMでない作品。
マネキンを舐る男に興奮してしまう設定がなかなか。

おそらく「性欲が強い女性」というのは当時も今も男目線の「エロ」。
「上品」とそれのギャップがポイントか。

バーのマダムである彼女の父親のギャンブル狂いは「戦争」が原因。
軍隊時代を思い出すように仲間との酒席の帰りに若い娘をレイプし。

主人公の店の女子ふたりはレズビアン。
彼女たちの唆しが主人公を「目覚め」させるのも覚えておこう。

「夕立に遭ったみたい」という台詞が繰り返される。
ヤクザな男たちの視線に晒されただけでそうなるラストよ。

山本晋也にならって「ほとんどビョーキ」と言いたくなる次第。
「身体がそう言うんだから」という描写は「女子の頭脳」を認めていず。

「男子の妄想」に沿う描写は見事。
「現実の女子」がそれをどう思うのかは別の話。

おそらく。

「需要」に対して「供給」があったのだと思われるのだが如何。
コメント
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