退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「結局は人材育成であること」について

2012-03-01 03:23:22 | Weblog
晴れ。夜の冷え具合もそこそこに。

大庭健「自分であるとはどんなことか」を読む。

矢継ぎばやに繰り返される「問答」にタジタジ。
著者の「前提」が十分掴み切れず今回はとりあえずの読了のみ。

こちらの体調のせいで内容理解が滞ることもしばしばあるので
とりあえず評価は置いておくことにする。

深夜「テレメンタリー2012」を観る。

今から60年ほど前に針を使い回す注射の際には「最低10分の煮沸消毒が必要」という勧告がなされ。
ところが当時の厚生省は「流水洗浄」でOKだと言っていた模様。

北海道のある村で「ありがたい先生」のいた医院は30年前に無くなったが
「煮沸消毒」をせずに注射をしつづけていたせいで村では現在肝がんや肝硬変の患者が続出(死亡例も)。

弁護士に頼んで国から医療費の補助を受けるべく活動しているものの
「原告」は病気の進行と「生活のための」農業の忙しさを同時に抱えて思うように事態を進められない。

茫然とするよりない「悲劇の原因」は「厚生省」でもあり「医者」でもある。
ただしそれ以前に「地方の村」での「医療体制の不備」があるだろう。

そして「都会」でも産婦人科や小児科の医者不足による「救急車のたらい回し」はよくあることで。
やたらに医者が「告発」されるため病院側が「患者の選別」を行うことも十分予想され。

この「悪循環」から抜け出すためにはどうしたらいいのか。
一見「遠回り」に思えるかもしれないけれど「人材の育成」しかない。

「苦しんでいる者たち」を救うことを「当然の仕事」だと思い
自らが身に付けた「まっとうな知識と技術」を惜しみなく注ぐ「人」を養成すること。

おそらくそれを「仕事」にする人なら
「自分の処遇」などに大した関心も持たないと思われるので。

たとえば医者の卵たちが「都会」の「最新施設」が完備された病院で働きたいと思うのが「常」だとしても
「患者からの感謝」に何ものにも代えがたい「喜び」を感じられる「資質」が重要。

そしてわれわれが彼や彼女らを「スゴい」と認めて評価すること。
「負のスパイラル」はいい加減見飽きたのでそろそろ「正のスパイラル」があってもいいのではないか。

一部ではそれがすでに「現実」にもなっていることだし。
あらゆる場所でそれが「現実」になることを「夢」だとしよう。
コメント
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