退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

武士と文士の「二言」の有無について

2011-12-22 02:53:39 | Weblog
くもりときどき晴れ。おだやか。

小林昌人編「廣松渉 哲学小品集」を読む。

独特の文体の硬さ及びマルクス研究の泰斗として知られる廣松渉が
薩摩と長州の対立を汲む案外お茶目なオジサンであったことを知る。

キャラクターとしてのみ見るならば
昭和ヒトケタ生まれであるにもかかわらずどこか「明治」の匂いもする。

「一日700ページ読むこと」を最低限のノルマとしたあたり
覚えた辞書のページを「食べた」小室直樹と同類か。

ある時以降「量が質に変わる」という「原則」が働く模様。
「単純な反復」も出来にくいわれわれとしては肝に銘じておいてもよさそう。

そもそも理系を目指したはずの彼が
マッハとの出会いによって哲学の道を選ぶことになったのも初めて知った。

いずれにせよ好ましい存在であることに変わりはない。
個人的には「近代の超克」という作品の素晴らしさを知っているのみ。

その他の著作も読んだことはあるものの
とても十分に理解したとは言えないのは自らのOSの情けなさ。

体調や気分次第で理解の度合いが変わってしまうのだから
何とも頼りないものではある。

仕事に出かける前にEテレでフランス語講座を観る。

昔第二外国語としてちょいとかじった程度だが
文字を見ればそこそこ内容がわかることにむしろ驚く。

実はそんなことはどうでもよくて
ひとつの単語が似た音を持つ別の単語を思わせる「ダブル・ミーニング」の「優雅」をあらためて思った次第。

もちろんわが国においても
「掛詞」という形式でかつては和歌の中にあったもの。

それがいつのまにか失われてしまったのは
やはりわれわれの「教養のなさ」がなせる業か。

たとえば「サビをきかせる」という表現の中に
「さわりを聞かせる」と「ピリっと皮肉を効かせる」というふたつの意味があるような文章はないものか。

そうした「言葉のこだま」には常に敏感でありたいけれど。
コメント
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