退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「愚民・土人」の後に「思いっきり笑う」ことについて

2011-12-19 03:11:33 | Weblog
くもりときどき晴れ。だとしておく。

昨日は元同僚と飲んで車で送ってもらう。
養護系に進んでいる彼は学校がたいへんそう。

待ち合わせ場所近くのゲームセンターを久方ぶりに見学。
カードを組み合わせた戦国関係のゲームに少し驚く。

彼のゲームの終了を待ってとりあえず麻雀ゲームをしてみる。
途中で無謀な打ち方をしたせいか2位に終わる。

宮台真司・大塚英志「愚民社会」を読む。

「近代をやり直す必要があること」については
学生時代の読書会で教授にそう言って半ばあきれられた記憶がある。

おそらく柄谷行人などを読んでいた影響だと思われるけれど
詳細は記憶の彼方へ。

浅田彰が昭和天皇崩御の際に皇居に集まった人々を「土人」と言ったのは覚えている。
その「土人」が大塚英志によって現在によみがえるとはいやはや。

「経済的に自立」するより「補助金を待つ」だけの変わらない態度は
東日本大震災をまつまでもなく「地域共同体の崩壊」をもたらしたはずだと。

ふたりはそれぞれ「選良地域」でのモデル確立と教育による「人材育成」をするらしい。
どちらかと言えば後者に「希望」を感じられる気がするものの。

ただし同時にそれらの「無力さ」を口にしてもいて
いわゆる「全体」に影響力があるかどうかというとむしろ「ない」という勢い。

「愚民」あるいは「土人」という言葉を敢えて使うことで
何がしかの「反発」を期待せぬまま期待している「微妙」なポジション。

とりあえず「自分の周囲」にだけは「責任」を持つという「意志表明」は確か。

いっそ「ゲリラ戦」なら
かつてのベトナム戦争のようにあらゆる場所に「トンネルを掘る」というのはどうか。

もちろんそこに「大義」などなく
「だってそうしたいんだもん」という「好み」さえあればいい。

「手のつけようのないほどの愚直さ」という「不自然さの力」を
「先の見えすぎるふたり」に敢えて思い出してもらうのも悪くないかも。

「バカバカしさ」ということを
「否定すべき現実」としてではなく「現実のいい加減さ」として捉える視点もあっていいはずだということで。
コメント
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