退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「暴力」と「非力」について

2011-11-13 02:09:10 | Weblog
晴れ。歩くと気持ちがいい。

柄谷行人「世界史の構造」読了。

分析そのものは非常に面白いのだけれど「対抗手段」がやはり弱い感じ。
これからがクライマックスという手前で急激に失速する。

まるで著者がかつて論じた武田泰淳の小説のよう。
もっともおそらく世界中の誰も有効な「対抗手段」など思いついていないのだろう。

少なくともこのまま進めばやがて「利潤」を得るための「差異」はどこにもなくなり
「未曾有の危機」がやってくることだけは確かなのか。

ただしそれでも「世界は回る」はず。
それがどれほど質的に劣化しようと。

ある種の「水準」を維持しようと思うと
あれやこれやの「問題」が起きるのは確か。

とはいえ人類が絶滅するまで「歴史」は続く。

萱野稔人「ナショナリズムは悪なのか」を引き続き読む。

「ナショナリズム」というとほぼ自動的に「いけないもの」と判断されるわが国において
それが実は「わが国固有な現象」に過ぎないのだと。

むしろそれは「思考停止」で「ナショナリズム」に対する「理解」に問題があり
たとえば経済的に恵まれない者たちをどうにかしなければむしろ「ナショナリズム」は噴き上がると。

「国家」は「合法的な暴力」を行使するものであり
かりにそれが「世界共和国」だとしても「国家」という形態は残るとも。

ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」が
これまたお馴染みのわが国の「磁場」によって「違う理解」をされている模様。

あきれるほど大雑把にまとめれば
「暴力は最後の理性」だという言葉をどう受け止めるのかということなど。

本来はもっと詳細にわたって検討すべき指摘がいずれの本にも数多くあることを知りつつ。
それを「めんどくさい」と片付けてしまう「自分の暴力の理不尽さ」よ。

「体力」のなさを痛感する次第。
その詳細についてはあらためてそれぞれの本を読んでもらって確かめていただきたい。

ショボくてすまん。
今後も「紹介」という名の「万引き」を勝手にさせてもらう。
コメント
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