退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「虚構」について

2011-08-26 01:37:08 | Weblog
くもり。車で走っていると風が涼しい。

小坂井敏晶「増補 民族という虚構」を読む。

出来るだけ価値観と「現実」を差し引いた上で
「虚構」の持つ意味をむしろ評価しようという内容にうなずく。

簡単にまとめてしまえば「無根拠ゆえの根拠」を見つけるということ。
そもそもすべてに「意味」がないなら敢えて積極的に「意味」を作ろうという選択肢。

卑近な例えを出すとするなら
中途半端に落ち込むくらいなら底まで落ち込んであとは這い上がるだけという具合。

いたずらに「論理」を尽くすと「根拠」は失われる。
それはまるで「宇宙の始まり」を求めることに似て。

何かを考え始めるときに
人はすでに「前提」を持たざるをえないということ。

そしてその「前提」はむしろ「無根拠に肯定される」よりない。
そこに「宗教的なもの」の必要が生まれるわけで。

もちろん安易に「飛躍する」ことは望ましくなく
そこに至るまでの「道筋」は十分にチェックされなければどうしようもないけれど。

島田紳助が芸能界を引退するらしい。

彼は「無手勝流漫才=漫談の限界」を知っていたがゆえに
ダウンタウンの登場をもって「引退」した。

その彼に残されたのは「芸能界でトップになること」。
そして「束の間」であったとしてもそれも「達成」されてしまった。

「目標」を失った彼は「気分」にまかせて「事業」に手を出したものの
「自分の知らない世界」で文字通り「自分を見失った」と思われる。

残念ながら彼にはあり余る「才能」がありながら「知性」が欠けていた。
そのことは実は本人が重々承知していたことだろうけれど。

「トップ」になりたいという欲望は自分が「底辺」にいるという認識から生まれる。
さらにその認識が案外「事実」だと思われてしまうあたりにこそ「貧しさ」がある。

圧倒的に「つらい状況」があればこそ人は「やさしく」もなれる。
ただし人は「つらさ」を忘れることができないので「ヤクザ」にもなるわけで。

まさに「禍福はあざなえる縄の如し」。
そうした「バランス感覚」を「綱渡り」と呼ぶには「現実」はあまりに厳しく。

何事かに長けていることは自動的に何事かに不自由だということか。
あらためて「何気ない暮らしの幸せ」を噛みしめておくあたりが穏当なのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする