日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

法的責任、道義的責任、社会的責任(アイセック問題に関連して)

2012-08-24 | 経営
私のところに直接いただいているご質問を含めて、どうも「責任」の種類と違いについて混同されているケースが見受けられますので、アイセックに関連してその点をケーススタディ的に学ばせていただく機会としたく、もう一本だけこの問題に関連したエントリとします。

BLOGOSのコメント欄でもとある方が類似したことを申し述べてくれていましたが、今回の問題には大きく3つの「責任」問題がからんでいて、それがために事の正誤が分かりにくくなっているように思われます。3つの責任とは、「法的責任」「道義的責任」「社会的責任」です。

「法的責任」とは、まさしく法律に照らして責任があるのか否かという問題です。一部の方々の「被害者の自己責任である」とか「現地での責任は負わないと契約書上も記載があるから、アイセックには責任はない」といった発言で問題にされている「責任」は主に「法的責任」の部分であると考えられます。その意味では確かに今回の件で「法的責任」はアイセックには存在せず、法的観点からは基本的に被害者の「自己責任」であるという考え方はそれなりに正論であろうかと思われます。

そこで問題となるのはアイセックに「法的責任」以外の責任は存在しないのか、という点です。ひとつは「道義的責任」という概念。これの辞書的意味を考えるに、「人としての常識に照らして、正しい道を守るべき責任」あたりが妥当でしょう。今回の点に照らして申し上げるなら、「海外インターンシップをアレンジしたアイセックにも責任がある」と発言をしている多くの方々が言っている「責任」とはまさしくこれでしょう。「たとえ法的に責任がなくとも、人としてどうなのよ」ということですね。

ただこの点は、「常識」というものが万人共通でない以上、「あんたはそう言うけれど、俺はそうは思わない」というケースも間々あるわけで、意見の食い違いが出ることもしばしば。今回ネット上でもアイセックの「責任」問題に関して賛否が戦わされているのは、主にこの点が焦点になっていると思います。一般的に組織が「道義的責任」を追求されるか否かは、世論の成り行きがどうかということにも関わります。世論の過半が「道義的に問題あり」とするならやはり「同義的責任」の観点からの対応は当然求められるわけですが、この場合も世論に押されてようやく対応するというようなケースは、袋叩きに会うと言うこともしばしば。「同義的責任」は世論の反応を待ったのでは遅すぎることでもあるのです。

「責任」のもうひとつは「社会的責任」。これの辞書的意味は、「社会一般的に考えて重大な問題にかかわった時に負う責任」あたりになるでしょう。となるとこれも「社会的責任」が発生するか否かの線引きが問題になります。今回の件ですが、社会問題化しているか否かという点で考えると、複数のメディアが大きくこの事件を取り上げていることや一国の大臣がこの事件に対してコメントをしてると言う事実をもって、「十分社会一般的に考えて重大な問題にかかわった」と言えるのではないかと思われます。私がこれまで本件に関して、企業経営を考える立場から主に申し上げてきたことは、まさしくこの「社会的責任」についてであるのです。

今回のケースの現段階でどのように「社会的責任」を果たすべきなのかですが、まずは「社会的責任」を具体策に分解して登場する「説明責任」の全うであろうと思われます。「遺族のご意向により一切の説明を差し控える」と言っているだろうとの声もあるようですが、守るべき「故人や遺族のプライバシー」というものは当然「道義的責任」の元にあるわけで、それを守りつつ「社会的責任」の元、一般論を含めたことの事実関係を詳らかにする「説明責任」を果たすというのが現時点でのあるべきと考えます。

本件において企業経営的に学ぶべきは、企業があらゆる場面で自社の「責任」を考えるとき、「法的責任」だけでなく「道義的責任」や「社会的責任」と言う観点からも自社を振り返る必要があるということ。これは企業コンプライアンスの基本でもあります。