日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

プライベートブログ更新しました

2012-08-13 | 洋楽
ロンドンオリンピック閉会式、英国のポピュラーミュージックの奥深さを示す素晴らしいショーでした。しかし、NHKの実況は酷かった。
「ロンドン五輪閉会式とNHKの罪深さ」

こちらからどうぞ。
http://blog.goo.ne.jp/ozozoz0930/e/7ebdbc8e53fa623c385cba65615ad8f4

柔道に見る「国際化」対応ということ~ロンドン五輪マネジメント的雑感③

2012-08-09 | 経営
ロンドンオリンピック前半戦。注目の柔道は、男女合わせて金メダル1個という史上最低の戦果に終ったという点が、一部メディアで話題になっています。

日本で生まれた格闘技柔道がオリンピック競技として初めて登場したのは、1964年の東京オリンピック。68年メキシコでは一旦正式競技から外れたものの、72年ミュンヘン大会で復活。以降柔道競技国数と競技人口の増加を受けて、柔道はオリンピック競技として完全に定着をしています。日本の金メダル獲得数は、女子競技が正式種目になる前のソウル大会で斉藤仁選手の1個ということはあったものの、女子競技が正式種目になった92年バルセロナ以降は最低でも3個。それが今回は女子の1個のみで男子は遂に0という結果に、なんとはなしに「戦犯探し」のような様相まで呈しているのです。

そんなムードを受けてか、今週日本に帰国した柔道代表選手団はまるでお通夜状態でした。唯一の金メダリスト松本薫選手が、メディアの帰国報道の救世主的存在といった状況。もしこれがなく男女とも金0などということになっていたら、一体どうなっていたのだろうかと。まさか、メディアで袋叩きはないでしょうが、銀メダリスト銅メダリストだけでは全く無視で報道されずだったのかなとか、考えただけでもおぞましい感じがしています。男子選手団にしても、少なくともメダリストは4人いた訳ですが、笑顔禁止令か(?)とも思えるこわばった表情の帰国風景は、頑張った選手たちが少しかわいそうな絵ずらではありました。

落ち着いて考えみれば、男子銀2銅2、女子金1銀1銅1の合計メダル数7は、普通の競技で考えるなら全然恥ずかしい数字ではないハズなのだと思うのですが、やはり柔道という日本生まれの競技である点が胸を張ることを許さないのでしょうか。私はおそらくその原因として柔道関係者が発しているのであろう、柔道における「金以外はすべて価値なし」的な考え方が今でも本当に有効なのか、やや疑問に感じております。

以下、競技としての柔道に詳しくないので、誤った記述がありましたらご指摘いただければと思います。

柔道は近年のルール改正により、「JUDO」という別競技になったのではないかと思っています。前回の北京大会の時にも話題になっていた、行きすぎたポイント制の是非。ハッキリ申し上げて、素人目には柔道着を着たレスリングにしか見えず、私が高校時代に体育の授業で習った組み手を基本として「技を競う」競技であるはずの柔道は、今の国際ルールでは全く通用しないように思えるのです(特にSIDO2回で有効1カウントは異常!)。なかなか組まずにポイント狙いに走る外国人選手、他方伝統的な日本柔道を基本にしつつ今のルールになんとかあわせようと苦心惨憺の日本選手たち。見ていてかわいそうなほどの、柔道とJUDOの違いを感じさせられました。

例え日本生まれのモノであっても国際化した段階で別モノになっていく。生まれた国の伝統や習俗にこだわっていたなら、置いてけぼりになり負け戦を強いられて行く。「国際化」とはそういうものなのではないかと。日本の伝統と誇りである「技術力」にこだわるが故の「モノづくり日本」の凋落とも共通する何かが、そこにはあるように感じられます。世界の伍して戦っていくためには、時にはプライドやこだわりを捨て過去との決別が求められる場面もあるのではないのかと。

すなわち、日本柔道は伝統武術としてのこだわりを捨てて、国際競技としての「JUDO」として新たな再出発をすべき時にきているのではないかと思われます。もしかすると既に再出発を果たしているのかもしれません。だとするなら、男女合わせて7個のメダルを獲得した日本選手団にはもっと称賛を与えてしかるべきでありましょうし、代表選手団は胸を張って帰国をして欲しかった。日本柔道が国際化の一途をたどる競技ルール変更を前向きに受け入れることで「国際化」の意味合いを正しく認識し、4年後リオデジャネイロでの「JUDO」としての更なる飛躍をすることに期待したいと思います。

なでしこ“勝たない戦略”は問題ない?~ロンドン五輪マネジメント的雑感②

2012-08-02 | 経営
オリンピックの女子バトミントン競技で、負けを狙った無気力試合をおこなったとして、4チームが失格処分になったそうです。各チームが無気力試合をおこなった理由は、リーグ戦勝ちあがりを決めた後の試合で、決勝トーナメントの組み合わせを有利に運びたいと言うもの。ことの是非については、いろいろ賛否の分かれるところなのかもしれません。

ちょうどその一日前に、日本の女子サッカーチームなでしこジャパンが、決勝トーナメント進出を決めた後の予選リーグ最終戦南アフリカ戦を「引き分け狙いだった(佐々木監督)」との発言があり、ネット上では賛否が闘わされていたところでもありました。なでしこの場合は、前半戦を様子見で戦力ダウンで闘い同組で首位争いをしていたスウェーデンが引き分けたことを聞き、日本が引き分ければスウェーデン1位日本2位でトーナメントに向かうことになり、苦手なフランスとの対戦を回避できると、後半の「シュート禁止」指示を出したとか。もうひとつ、勝った場合次の試合への移動距離500キロという事にも嫌気しての“戦略”だったとも言います。

これらの先々を見通して試合を「勝たない」ようにすすめることを、「戦略」とみるか「スポーツマンシップにもとる行為」と見るか、意見の分かれるところかと思います。以下、私の意見を企業マネジメント的観点から申し述べてみます。

ビジネスで企業のやり方の是非を判断する場合には、そのやり方が「顧客」に対して礼を失してしないか否か、という絶対的な判断基準が存在します。すなわち、どんなに経営上素晴らしい戦略を思いつこうとも、それが「顧客」の期待を裏切ったり「顧客」の信頼を損なうようなものであるのならばそれは「是」とはされず、避けるべき行為であると言うことです。ただ、今回のオリンピックの問題がその基準で考えることが非常に難しいのは、「顧客」が誰であるのか、という議論が別に存在するからでもあります。

すなわち、実際に競技場に試合を見に来た人たちやテレビの衛星中継で観戦した一般のスポーツファンを「顧客」とするなら、上記のバトミントンやなでしこの試合は「顧客」の期待を裏切る行為であり、その意味では「やってはいけない」に属するものであると思われます。他方、「勝たない」という思惑をもって試合に臨んだ国々を応援する立場の人たちを「顧客」とするなら、これらの行為は決して非難されるものではないと言うことになるのです。すなわち、「顧客」を基準に考えた場合、そのどこをメインの「顧客」するかで見解は分かれるわけであり、これらの行為を一概に問題行為と断じることはできないと言えるのです。

しかし、近年のビジネス界においては企業行為の是非を問う際に、「顧客」という基準以外にもうひとつもっと根源的な基準である「コンプライアンス」というものが存在します。この「コンプライアンス」は常々申し上げているように、単に定められた法やルールに従っていればいいというものではないとこが重要なおさえどころでもあり、例え法には違反していなくとも企業モラルの点から考えてどうなのか、という観点で社会的批判を受け市場からの退場を余儀なくされるケースも間々あるのです。

さてこの観点から上記のオリンピック競技を考えてみると、スポーツにおける「コンプライアンス」とはまさしく「スポーツマンシップ」そのものであると思われます。「スポーツマンシップ」を選手宣誓等でよく耳にする「正々堂々、全力で戦うこと」と定義づけるなら、上記のバトミントンやなでしこの「勝たない」行為は問題行為とされてもいたしかたのないところなのではないか、と思うわけです。しかもオリンピックはスポーツの世界最高峰を決める権威ある大会である点、さらになでしこに関して言うなら、前年のサッカーワールドカップを制覇したチャンピンチームの行為としてどうなのか、という観点からもその運営モラルは問われてしかるべきなのかもしれません。

おまけで言うなら、非ニッチ大手企業の企業戦略におけるセオリーは「策を弄すれば得るもの薄し」であります。なぜかと言えば、マーケットリーダーやチャレンジャーが、全力を出さずに策を弄することは、かえって組織運営リズムを崩しなねないことでもあるからです。なでしこジャパンの「引き分け狙い」は懲罰には当たらないと、関係機関がコメントを発表していると言いますが、次のトーナメント初戦ブラジル戦でチームがリズムを崩すことになりはしないかという不安要素も含め、佐々木監督のワールドカップ・チャンピオンチームのマネジメントとしては個人的には疑問が残るところであります。

ロンドン五輪マネジメント的雑感①判定の再審査

2012-08-01 | 経営
連日のロンドン・オリンピック・フィーバーで、テレビメディアはオリンピック報道一色といった様相です。オリンピック・テレビ観戦から、いくつか気になる経営のヒントがうかんできていますので、順次ピックアップしてみます。まずは話題の「判定」に関する不手際と後味の悪さの件についてです。柔道や体操競技で話題の「判定問題」。審判員の判定が不明確で問題を起こしたり、不服申し立てを受けて判定が覆ったりと、どうも今大会は従来以上に「判定」に関する問題が多く生じていると感じています。

代表例は、柔道の日本選手対韓国選手の対戦での旗判定。「青三本(か韓国勝ち」が会場のブーイングを受けてのジュリーと呼ばれる審判委員の介入による再判定で「白三本(日本勝ち)」に180度寝返り、韓国選手サイドが明らかに納得できないという状況に。体操男子団体戦でも、日本選手のあん馬の判定を巡っての日本選手団の抗議により点数が改められ日本が4位から2位に繰り上がり、2位から3位に順位を下げた地元英国はこの扱いを不服として会場内に大ブーイングが起こると言う事件もあったようです。

これらの判定における問題はどこにあるのかです。判定が誤っていたのならそれを修正することは決して間違いではありませんが、その理由が明確に示されないことが最大の問題点であると思っています。

これは企業リーダーの行動においても全く同じこと。自分が指示したことが間違いであったと気がついたなら、それを正すことなく進んでしまうのは論外ですが、理由を明確に告げずに修正指示を出して方向転換をはかることは、最初の指示を信じて従っていた者に対して「指示がコロコロ変わる」というリーダーに対する不信感を抱かせることになるのです。これが第三者の進言によってなされた方向転換であるならなおさら、「あの人を贔屓しているからだ」とかのあらぬ邪推を生んで組織内に不協和音を発生させることにもなりかねません。

決定事項変更等の際に人を納得させるためには、その変更に「論理的」説明がつくか否かが大切であり、「論理的」であるか否かの最重要ポイントが納得性の高い理由が存在するか否かなのです。すなわち具体的には、変更検討に際して「この部分がこうだから、この理由によりこのように変更する(あるいは検討したが変更しない)」といった明確かつ論理的な説明がなければ、せっかくのチェック機能も用をなしているとは言えないのです。先の柔道の例で言うなら、過去の誤認判定を改善すべく再審査機能導入に至ったようですが、せっかく再審査が可能なスキームが導入したのに、そのスキームの機能発動に際して当事者の納得性が得られない説明不足のやり方に終始しており、導入の意味を全くなしていないのです。

企業でこれと似たケースでよくあるのは、経営者が組織内の“風通し”を良くしようと直接従業員の意見を聞く「目安箱」制度をスタートさせたものの、結局その意見の採否に関する理由を全く説明せずに運用してしまいかえって組織内の不平を増長することになるというケースです。採用のものについての全社員向けの採用理由の説明は当然のこと、不採用のものについても最低限提案者に対しては不採用の理由を明確に伝えるようにしなければ、この制度が組織活性化という目的ももって設けられたのであるなら、その目的を十分に果たすとことにはならないのです。

最後に、オリンピックの柔道の判定制度に見る一度決定したものに対する変更検討に関する理由説明の大切さは、マネジメントにおいては説明すべき経営者が上の立場にあるだけにより一層気づきにくいということも加えて意識しておきたい部分であります。