日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

昭和問わず語り5~連合赤軍と“鬼婆”永田洋子

2011-02-09 | 昭和
先週末に「元連合赤軍の永田洋子死刑囚が病死した」との報道がありました。

昭和40年代半ばの私が小学生時代にもっとも衝撃を受けた事件のひとつが、連合赤軍による「山岳ベースキャンプ連続殺人事件」、いわゆる集団リンチ殺人事件でした。過激派と言われる人たちではあってもなぜ同志を殺さなくてはいけないのか、「総括」という名のもとに行われた仲間を吊るしあげ死に至らしめる儀式には、子供心に“思想の闇”を感じざるを得ず、その後の自己の形成に少なからぬ影響を受けたと思っています。永田洋子は連合赤軍のリーダー格として連続リンチ事件を主導し、12人の同志を死に至らしめました。もうひとりのリーダーは森恒夫(逮捕後自殺)。どちらかと言うと頭脳派で理詰めの森に対して、感情的で最も残忍性を持ち合わせていたのが永田であったと記憶しており(逮捕された仲間は彼女を表して「鬼婆以外の何ものでもなかった」と言っていますが、その風貌からも子供心に「永田洋子=鬼婆」と強く感じられました)、集団リンチ=永田洋子という印象がいまだに強く残っているのです。

一連の連合赤軍の事件はいわば高度成長により再建した民主主義国家日本において、追いつめられた極左思想の末路であり、仲間同士の殺し合いは言ってみれば終焉を迎えつつあったセクトの断末魔の叫びでもあったのかもしれません。戦後の左翼思想伝播の底流には時代的な背景がありました。思想にもその時代その時代の流れや流行というものがあって、戦後日本は敗戦復興の過程に置いて過去に戦争を起こした右翼思想を「悪」として捉えることに端を発し、戦争時代には弾圧をされていた左翼思想がある意味密かなブームにもなっていた感があるのです。高度成長を支えた私の父の世代などは、まさにそのようなブーム思想の世の中で学生から社会人への道を歩んでいった世代であった訳で、世間的にも昭和30年代から40年代前半までは「体制迎合より反体制」という中道よりは少し左寄りといったあたりが、当時のこの世代にはごく一般的な考え方として受け入れられていたように思うのです。

実際に赤軍派にしても連合赤軍にしても一連の過激な事件を起こすまでは、堂々と彼らの主義主張を擁護するマスメディアもあったと聞いていますから、時代の流れが今とは全く異なっていたことがよく分かると思います。そんな、左翼容認の風潮に冷水を浴びせかけ、一気に「左翼=悪」の図式を浮かび上がらせてブームを終わらしめたのがこの連合赤軍の事件に他ならず、私は森、永田の逮捕後彼らの残党が苦し紛れに起こしたあの「あさま山荘事件」よりもずっと、「山岳ベースキャンプ連続殺人事件」の方に思想の歪みに起因する事件の特異性と時代への影響を強く感じるのです(「あさま山荘事件」は思想的な事件とは言い難く、長期化した人質事件としてテレビ中継された生々しさと、山荘を壊す鉄球のすさまじさが絵的に記憶に焼きつけられたテレビ時代の到来を象徴する事件であったと思います)。

永田死刑囚は、同時期に逮捕されながら「クアラルンプール人質事件」での超法規的措置により釈放・逃亡中の坂東國男の裁判が中途のままになっていることで、ここまで刑を執行されずに来ていました。それはたまたまそうなったことなのですが、このような時代の変革に影響を及ぼしたような思想犯罪者が、年月を経て自身の罪に様々な思いを巡らせる中で、何を思い何を悟り反省の念をどのように語るのかもまた人間社会にとっては重要な部分ではないかと思うのです。今回の永田死刑囚の場合は病死ではありましたが、その死を聞くにつけ、このような時代の流れを変えたような犯罪者を易々と死刑として葬ってしまっていいものであるのか、いささか考えさせられる部分でもありました。