日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

経営のトリセツ2 ~ “社長の分業化”が会社を育てる

2007-09-20 | 経営
リーダーシップについて。

成長をしている中小企業をみてみると、たいていの場合「ワンマン」と言われる経営者がいます。言ってみると、その「ワンマン社長」の手腕ひとつで、そこまでの成功に導いて来たと言うことであります。
そして大抵の場合、ある程度の規模になると、そこからの成長が非常に難しくなるものでもあります。大半のケースでは、判を押したように同じような状況に陥るのです。

ある一定の規模までは社長がひとりで引っ張っていけたものが、ある瞬間から急にそれができなくなる。いわば“ひとり管理”の限界が訪れたのです。「○○商店(○○はち社長の名前)」が「○○株式会社」にならざるをえなくなった瞬間であるとも言っていいでしょう。

一般的にモノの本などには、業容が拡大し組織が大きなってきたら、社長のワンマン管理から権限委譲を行い分権化を実現しなくてはいけないと書いてあります。でも、それが簡単にできれば誰も苦労しないんですね。社長業の分業化ほど難しいものはありません。

成功体験のあるワンマン社長に、「あなたの仕事を何人かに分けてあげなさい」と言っても所詮は無理な相談でしょう。「自分がやるのが一番うまくいく。人に任せたらボロボロになってしまうよ」。10人中8人から9人からは、きっとそんな答えが返って来るにちがいありません。でも、それを乗り越えていかなければ会社は大きくなれないのです。

どうしたら、社長は“自分の分業化”を割り切れるのでしょうか?

ひとことで、社長の気持の切り替えが必要なのですが、そのヒントは「会社は誰のもの?」という質問にあります。自分が全部見て、全部管理して、全部決裁して・・・、これは社長の気持がすべて「俺の会社」的発想なのです。
「小さな企業」のうちは、「俺の会社」でいいんです。むしろ「俺の会社」として、しっかり社長がすべてを見渡すことで、順調な成長ができる訳で。逆に「小さな会社」のうちに「俺は営業の先頭に立つから、あとはまかせたぞ!」では、むしろ足元がおぼつかない会社になってしまうのではないかと思います。

ある程度のサイズに成長すると、社長一人ではすべてを見ることが難しくなってくることに気づきます。たとえば、営業所を作って形の上で所長は置いたものの社長が「何を買うにも俺に言え。お前らには任せられない」と考えたとしましょう。所長は形だけの所長ですから、権限はなく、部下も所長ではなく社長を見て仕事をするでしょう。当然所長のモラールはあがりません。でも社長はきっとこう言います。「管理者が育たない。管理者不在だから、営業所はバラバラでルールも規律もあったもんじゃないよ。俺が目を光らせてないとどうにもならないんだ。でもこれ以上拠点を増やしたら、俺一人じゃどうにもならない、もう拡大は限界だよ。いい案はないかね」。

よくあるお話です。

もうこのサイズになってくると、「俺の会社」じゃないんです。例え出資が100%社長であっても、社員が自主的に動いてくれなかったらもう、会社として前に進まなくなった段階、その時点ですなわち「俺と社員の会社」になったんです。「俺の会社」の間は、社員は“俺”の手足として動いていればそれでOKだったんですが、「俺と社員の会社」規模になると、もう単なる“手足”じゃダメで意思(=判断能力)の伴った手足が必要になるんですね。

「俺の会社」型から「俺と社員の会社」型への脱皮。これは、社長の気持の切り替え、決心ひとつにかかっています。これは本当に本当に大切なことです。難しい言葉で言えば、「権限と責任の委譲」ということになるのですが、頭で分かっても気持で「俺の、俺の」「俺が、俺が」を捨てないと、なかなかこの脱皮は難しいんです。

将来的に「上場」を考えたいなんて言う企業なら、さらにその先に「俺と社員と株主の企業」という次の段階に向けた、もう一段の脱皮が必要なわけです。「俺の会社」スタイルで経営している急成長の中小企業が、おだてられ「上場目指しましょう」なんて言われて「上場準備」に入ったものの、1年もするとあっさり断念なんてことを間々耳にしますが、調べてみるとその理由が、まさに社長が“脱皮”ができないことだったなんていうのは、よくある話なんです。

この項目、また次回の「経営のトリセツ」で続きをお話します。



ランドリービジネスの将来性

2007-09-19 | ビジネス
本日は、遅ればせながら「ランドリープラス」熊谷銀座店の関係者へのお披露目会をおこないました。
ランドリーとセットの情報コンシェルジュスペースの形がほぼ整ったタイミングで、一応の披露会となった次第です。

ランドリーに関しては、厚生労働省の調査によれば年5%の割合で増加中とのこと。利用率に関しても徐々に増加傾向にあるとはいえ、アメリカでは人口の約20%がランドリー利用者でありますが、日本ではまだ数%に過ぎません。
このままどのぐらいの設置数までいくと供給過多になるのか、現時点では明確な数値はありません。利用率の伸びが供給の伸びを上回るとみれれば、まだまだマーケットは拡大の余地ありといえますし、米国との文化の違いで一定以上の利用率の拡大は見込めないとするなら、近々供給過多に陥るのかもしれません。

ただひとつ言えることは、ランドリーの利用層は確実に広がっているということです。一昔前までは、コインランドリーというと、「独身」「単身」の男性=不潔っぽい、というイメージが多かったように思います。最近は男性層の顧客ももちろんありますが、むしろ主婦、キャリア女性層の利用増加が目立って増えていますし、当社のメインターゲットもまさにそこの層なのです。

主婦はいわゆる「大量洗い」「大物洗い」、キャリア女性は「夜洗い」・・・。進む生活の多様化が、ランドリー利用層の拡大を着実にはかっているように思います。

一般にランドリービジネスは、住宅地域の半径1キロ以内に1店舗が理想の出店状況とされ、いわゆる“早い者勝ち”ビジネスになっていました。しかしながら、店舗数の増加、利用者数の増加見通しに伴い、その暗黙のルールも打ち破られつつあり、これからは半径1キロ以内での利用者層の奪い合いという“仁義なき戦い”の時代にはいるのではないか、と私は見ています。

コンビニが供給過多に陥り、近年“仁義なき戦い”の時代に入り、激しい出退店を繰り返す状況になっていますが、このままランドリーが増え続けると同じような状況が、この業界にも早晩訪れるのではないかと思います。

コンビニ業界に限ったことではありませんが、“仁義なき戦い”時代の生き残り策は、差別化がすべてです。
「ランドリープラス」のコンセプトは、「新たなコミュニケーションスペースの創造をめざしたランドリーのワンストップ化による利用者利便性の向上」です。
当社はこれまで平穏無事に来たランドリー業界の風雲児となるべく、差別化を最大の武器として事業展開をすすめていきたいと考えています。

「ランドリープラス」熊谷銀座店は、まだまだ実験レベルであり、これから本格的な差別化を模索していこうと思っている段階です。
本日お越しの皆様には、見学会・懇親会を通じていろいろ意見交換をさせていただき、貴重なご意見も多数頂戴し今後につながるよい機会を作らせていただけたと、大変感謝しております。

そして皆さまの様々なご意見やご助言を聞くにつけ、ビジネスにおける「個性」の大切さ、さらにはその「個性」が顧客視点に立脚していることの大切さ、を改めて感じいった次第です。



転職事情

2007-09-18 | その他あれこれ
今日は、某企業の中途採用面接の面接官のお手伝いをしました。

「私が立ち会っていいの?」とは思いましたが、「大関さんの目で見た意見を聞かせて欲しい」との話だったので…。

驚いたのは、最近の応募者の変わりよう。まぁ、管理者募集で、新人とか若手面接ではないからでしょうが、和気あいあいと言うか、応募側の態度のでかさにビックリというか…。
「欲しけりゃ俺を売ってやるけど、高いぜ!」ってな具合で、まさに“売り手市場”がアリアリという感じ。デキル(と自負する)奴らはタカビーに自分を高く売る時代になったんですね。

まぁこちらも、転職だって何度も考えたことのある元サラ後独立の百戦錬磨ですから、本物を見極める目には自信ありですけどね。
まぁ~、ホント偉そうに言う言う。「そんなにデカいこと言うなら、自分で事業始めればぁ?」って感じの人もおりましたです。

ただ、今どこも中小企業は管理者不足。真に優秀な管理者は、成長中の企業数に比べて絶対数が不足しています。それはすなわち、優秀な管理者を育てられない企業側の責任でもあるのですが…。とにかく今は、真に優秀な管理者は引っ張りダコなのです。
社長も含めて管理者の力量が、企業の将来性を決めるそんな時代になりっていますからね。

この話題、今日はここまで。
「経営のトリセツ」で改めて詳しくお話します。

コンサルタントなるもの

2007-09-17 | その他あれこれ
音楽の話ではないのですが、昨日の続き的に「個性」で思いついたお話。

なにかと忙しい連休でした。
昨日今日は、やけに「士」のつくご商売の方々とのやりとりが多い2日間でした。

「士」のつくご商売の方々は「資格試験」をへて「士」も称号をいただいているのであり、そればそれで「価値の高い」素晴らしいことだと思います。
何が素晴らしいって、「○○士でなくてはやってはいけない」という仕事も当然あるわけで、「「○○士」の力を借りたい」と言う場面には人生誰しも一度や二度はめぐり合うわけです。
その意味では、黙っていてもそこそこの仕事にありつける商売(なんて言うと怒られますかね)なんですよね。

一方コンサルタントと言うものは、「コンサルタントの肩書き」がなければできない仕事なんてのは存在しないわけでして。そもそも「コンサルタントの肩書き」なんてあってなきが如し、誰でも名乗ることができるのですから。

すなわち、コンサルタントは「資格」商売ではないので、本当に自分だけが頼りの商売になります。「売り」となるものはその人間性のみ。売りになる人間性、それがすなわち「個性」じゃないでしょうか。
その意味では芸能人、もっと言えば「芸人」に近いかもしれないですね。ある意味「人気商売」です。その「個性」が相手企業に気に入られるかどうか、「人気」がとれるかどうかがいい仕事になるかどうかの勝負です。

例えるなら、クライアント企業の社長はTV局のディレクターですね。でも私のような企業内に潜入して改革をすすめるコンサルタントにとって(プロセス・コンサルティングと言います)、一番大切で怖いのは社員の皆さん。いくら社長に気に入られても、社内改革をしていく上で社員の方々に受け入れてもらえなければ、社長からも「残念だけど、今回はこの辺でけっこう」と言われるわけですから。社員方はその意味ではタレントにとっての視聴者ということになるのでしょう。

コンサルタントは浮き沈みも激しいですし、「出演依頼」をもらうための営業活動も欠かせないです。それと「ネタ」仕込み。すなわち、「知識」「情報」のたゆまぬメンテナンスですね。たゆまぬメンテナンスをすることで、魅力的な「個性」を保ちつつ、一層磨きをかけていくわけです。

俗にコンサルティング・ファームと言う、コンサルタントを多く抱える企業があります。そこに所属するコンサルタントは、まあ知識とスキルがあれば仕事にはありつけます。いわば、所属事務所である「吉本興業」が仕事をとってきてくれる芸人みたいなものですから。ただ、上前ははねられる、仕事は選べない、などの問題点はありますが・・・(上前をはねて、担当コンサルタントにも高給を支払うので、コンサルティング・ファームはバカ高いんですけどね)。

個人のコンサルタントは、自前で営業、自前でスケジュール管理、自前で資料作り、自前で勉強、自前で・・・。ぜーんぶ自分ですからね。自由ではありますが、確実に結果を求められますし、大変な商売です。

好きでなければできない商売。それだけはいえると思います。

余談ですが、なぜ今のビジネスをしているかのお話を少々。
私が会社をやめることにしたきっかけは、あることに気がついたからです。
会社の中では会社をよくしたいために、あれこれいろいろ「文句」や「注文」を言い続けてきました。でも、なかなか変わらない。そりぁそうです。大企業ですから、一人が言ったぐらいで、そんなにすぐに動いてはくれないですよね。
イライラもつのりました。ストレスも山ほど溜め込みました(食道、胃、十二指腸3ヶ所同時に潰瘍ができるほどでした)。

そこで、思いました。「俺は何がしたいんだろう?」
考えてみたら結論は簡単でした。「自分で会社を動かせる仕事がしたい」ということでした。
そこで、自分の会社で事業をすること、人の会社の経営のお手伝いをして目に見える形で会社をよくすること、このふたつを同時にしてみることにしたのです。

その意味では好きなことは何かを見つけられましたから、今はとても楽しく日々を送っています。

今日は、とりとめのない話になってしまいました。
まあとりあえず、「“「士」がない商売”ですが、気に入っています」って程度のオチで締めさせていただきます。

※コンサルタントの何たるかをもっと知りたい方へ。
「コンサルタントの現場力/野口吉昭」PHPビジネス新書
は軽く読めて、本質を突いていてけっこう面白いですよ。


伝説のスター☆が教えてくれたこと ~ 我が永遠のグラムロッカー

2007-09-16 | 洋楽
一昨日予告したとおり、今日は1973年に私が最初に入れ込んだ洋楽アーティストのお話です。

写真をご覧になって名前がお分かりの方はそこそこの洋楽通、なぜ今日彼の話題なのかピンと来た方は、かなりの洋楽通です。

彼の名はマーク・ボラン。自身のバンドT.レックスを率いて70年代初頭に「グラム・ロック」の英雄として一世を風靡したヒーローです。
私が深夜放送で毎晩洋楽チェックを始めていた頃、「セイヤング今日のベスト・テン」を赤丸上昇していたのが、T.レックスの「20センチュリー・ボーイ」でした。かっこいいギターのイントロと、ビブラートのかかったなんとも不思議なボーカルに痺れ、一発でファンになってしまいました。バンドの名前にも痺れていました。

ここで素人の方に「グラム・ロック」とは何かをご説明してきますと、グラムと言っても“秤売り”ではなくて「グラマラス=魅力的」なロックというのが直訳です。すなわち、金ラメのコスチュームに身を包み、ハデハデな化粧を施して聴衆を煽動する、当時としては英国ロンドンを震源地にポスト・ビートルズの旗頭として人気を集めていた新しいロックの形でした。
同ジャンルの他のアーティストには、初期のデビッド・ボウイやモット・ザ・フープル、スレイド、スウィート、マッド、シルバー・ヘッド・・・、懐かしい名前が並びます。

そのT.レックスのリーダー、マーク・ボランは1947年9月30日生。私も歳は違いますが9月30日生まれ、ということで、「まさに運命的な出会いである」と勝手な思い込みからのめりこみが始まるわけです。

初めて買った洋楽シングルは先の「20センチュリー・ボーイ」。好きなものにはとにかく何でも知り尽くしたいとばかりに、英語の歌詞を覚えようとしますが、学校で習い始めの英語力ではなかなかおぼつかず、ならばと日本語の歌詞を理解してそれを裏づけにして英語の歌詞を覚えることに挑戦。ところが、シングルのジャケットに書いてあった歌詞を読んでも、よく意味が分からなくて全然チンぷんカンぷん。結局は「こんな難解な歌詞を書くマーク・ボランはすごい!俺には勝てっこない!」という訳分からない納得の仕方で、自分の半端さをごまかしたりしてました。

次に出たシングル「ザ・グルーバー」なんてのは、GROOVEって単語をいくら英和辞書をひいても「(動詞)溝を掘る」ぐらいしか出てこなくて、「溝堀人の歌か?こりゃスゲー発想だ!日本の歌手にこんなスゲー歌を歌ってる奴はいないぜ。俺は大変な人と同じ誕生日なんだー、ヤッター!」みたいな、引き続いてわけの分からない幸せな日々を送っていた訳です。

私はシングルを中心に、過去にさかのぼる形で買い集めました。「イージー・アクション」「チルドレン・オブ・ザ・レボリューション」、そしてさらにその前のシングル2枚「メタル・グゥルー」「テレグラム・サム」が入ったアルバム「ザ・スライダー」を渋谷の西武デパートで買ったのです。邦楽も含めて生まれて初めてのLP購入でした。
なぜ渋谷西武なのか?ですが、実は前年72年の初来日フィーバーの時に、渋谷西武デパートで「T.レックス展」が開かれたという情報を後追いで入手したんですね(本当にビートルズ来日に匹敵する大騒ぎだったようです)。それで、「T.レックスのLPを買うのは絶対渋谷西武」ってなぜか決めていたのでした。

しかしながら、T.レックス人気は「ザ・グルーバー」を最後に急激に下火になり、マーク・ボランは本国英国はおろか日本でもあっという間に、忘れられた“過去の人”になっしましました。
私もアルバム「ズィンク・アロイと・・・」「ボランズ・ジップガン」あたりまでは、熱は冷めつつもかろうじて追いかけていたのですが、その後はけっこう冷たい扱いでして、一時期買いあさったLPたちは中古盤買取の店「ハンター」で次々売りに出され、お気に入りだった「ザ・スライダー」も自宅のレコード棚の奥ですっかり眠りについていました。

そして、本日からちょうど30年前の77年9月16日。運命の日がやってきます。
マーク・ボランはこの日小雨のそぼ降る未明、前日夜からロンドン郊外で飲んだ帰り道、夫人の運転する車の事故により帰らぬ人となってしまったのです。

若い頃、魔法使いと暮らしたことがあるという彼は、ブレイク前から実に不思議な詩をたくさん書いていました。そして、魔法使いから授かったものとして予知能力を身につけていたと周囲に話し、「自分は30歳まで生きないだろう」と予言してたそうです。
彼の死んだ9月16日は、彼の30歳の誕生日の2週間前のことでした。

ちょっと感傷的な話に浸ってしまいましたが、彼のファンであり続けたことで、ひとつ大切なことを学ばせてもらいました。
それは、個性的であることの素晴らしさ、個性に自信を持ってビジネスを展開していくことの大切さです。

彼の音楽は、当時でもとりわけ目新しいとか、恐ろしいほど才能を感じるとか、その類のものではありません。言ってみれば、単なるブギーであったり、何の変哲もないバラードであったり・・・。でも、その歌詞や、ルックスや、歌い方や、見せ方や、言動も、すべてにおいて個性の塊でした。まさに「グラマラス」。その個性が、短くても確実にひと時代を築き、後世のパンクロックやニューウェーブに多大なる影響を残したのでした(現実に死の前後、世に出たパンクの連中は彼を“ゴッド・ファーザー・オブ・パンク”として崇拝していました)。

成功するビジネスには、いろいろなパターンがあって、技術者が開発する新商品や、天才的なひらめきのある経営者が考える新サービスはその典型的なものです。でもそうではない、何の変哲もない既成のサービスなのに、商品を組み合わせたり並べ替えてみたり、見せ方を工夫してみたり、どこかで“個性を主張すること”、そのことだけで時代を変えたり、新しい文化を生み出したりするビジネスになるケースもたくさんあるのです。

私が一介のサラリーマンを辞め、自分の可能性において独立してビジネス展開をしてみようと思ったのは、自分の「才能」を信じたからではなく、発想や言動において自分が「個性的であること、今後もあり続けられること」には自信がもてたからなのです。
そして、そのことに自信を持つことの大切さは、70年代前半に音楽ビジネス界において確実な足跡を残した、ビジネスの大先輩マーク・ボラン氏から教わったかけがえのない遺産であると感謝しています。

マーク・ボラン氏の死後30年もの月日がたちました。
音楽だけでなく、いまだに形を変えていろいろなことを教えられていることに気がつくと、やはり1973年の出会いは“運命的な出会い”であったのだと、今改めて実感させられるのです。
私も“グラマラス(魅力的な)”ビジネス・パーソンであり続け、「グラム・ロック」ならぬ「グラム・ビジネス(秤売りじゃないですよ!念のため)」の“雄”となれるようガンバリたいと思います。
合掌。


最後に日曜日の競馬のお話を。
昨日のウエスタンビーナス来ましたね、3着。
1番人気とのワイドでも980円もついていましたから、なかなかおいしい馬券だったようです。私は土曜なので買っていませんけど。

さて、今日は東でセントライト記念、西でローズステークスと秋の3歳GⅠ戦線の前哨戦です。
穴党の出番がありそうなのは、セントライトでしょう。大穴10番ナンヨーヘブン。名牝ダイナアクトレスの子で、菊花賞2着ステージチャンプの弟です。経験則データ的キーワードは「長距離血統」「奥手の出番」。3着狙いで複勝ですね。
ローズステークスは、堅そうなので穴党出番なし。馬券は買わずに「GⅠ馬の意地をみせろっ!」てことで、ピンクカメオを応援します。


73年洋楽事情 ~ 洋楽シングルあれこれ

2007-09-15 | 洋楽
昨日に引き続き73年の洋楽にハマりはじめた頃の回想です。

深夜放送で毎晩いろいろな洋楽を聞いては、曲目をメモったりエアチェックしたり、まぁ翌日は学校ですから慢性的な睡眠不足状態でした(40代後半の今もって生活が夜型なのは、この頃の生活が尾を引いているのだと思います)。

深夜放送はと言えば、TBSがパックインミュージック、ニッポン放送がオールナイトニッポン、文化放送がセイヤングでした。
学校でもパック派、オールナイト派、セイヤング派に分かれていたように記憶しています。私はセイヤング派。なんと言っても午前0時半スタートで、最初の30分間でやる「セイヤング今日のベスト10」というコーナーが最高で、そこで毎晩流れる売れセンやこれからの売スジ的な洋楽をチェックするのが日課だったのです。

ちなみに、セイヤングのDJでは落合恵子、谷村新二、せんだみつおらが人気でした。一番最初に聞き始めた頃は、故土居まさるさんとかが月曜日でしたね。

あの当時のチェック曲で、好みだったモノはと言いますと、ラズベリーズ「レッツ・プリテンド」ストーリーズ「ブラザー・ルイ」スレイド「カモン!」スウィート「ヘル・レイザー」などなど……。けっこう地味めなアーティストが好きでしたね。
一方メジャーネームで売れていた曲はと言えば、ポール・マッカートニー「マイ・ラブ」ジョージ・ハリスン「ギブ・ミー・ラブ」カーペンターズ「イエスタデイ・ワンスモア」などでした。

当時の本当にあったウソのような話をひとつ。パイロットと言うバンドがデビューして、「マジック」という曲が深夜放送でも時々かかりはじめ、私は第一印象でかなり気に入っていました。でも、そんなにしょっちゅうオンエアされる訳でもなく、したがって誕生日に買ってもらったラジカセ(ナショナルのMACってヤツでした!)で録音する機会にも恵まれず、決心してなけなしの小遣い片手にシングル盤を買いに、近所のレコード屋さんに行きました。
「すいませ~ん。パイロットのマジックありますか?」。すると店員のオジさん、「うちはね。文房具は置いてないんだよ」。
友人にこの話をすると決まって「ネタだろう!」と言われますが、本当に本当の話です。

ちなみにこの11月に、なんとそのパイロットが初来日するとか。ハンドクラップが特徴的なパワーポップ系の可愛いサウンドが人気だった彼ら。若い女の子のファンが多かったように記憶してます。落ち着いて考えると、当時の「女の子たち」=今「40代後半のオバサンたち」なわけで、彼女たちで会場が埋め尽くされるのかと想像すると、ちょっと不釣り合いで不気味な感じもしますね。ひとりで見に行くには少々勇気が必要かもしれません。

最後に今日の競馬。
中山セプテンバーステークス。8番人気ウエスタンビーナスが穴注意とヒラメキました。

73年洋楽事始 ~ 深夜放送で洋楽入門

2007-09-14 | 洋楽
本日携帯からです。
ブログをはじめて10日あまり。とりあえず1日も欠かさず更新を心がけ、各種話題で10本の原稿をアップしてきました。マーケッター大関としましては、職業柄当然アクセス分析を試みてテーマや曜日とのアクセス数の関連、ページビューとの関連なども見てみたくなるわけです。

結論としては、アクセス数、ページビューとも音楽関連のテーマの日の食いつきがいいようです。
経営ネタや政治ネタの日もアクセス数ではさほどの差はないもの、ページビューではけっこう差がついています。

すなわち音楽ネタから入った人は、「なるほどなるほどおもしろいじゃん(と思うかどうかは定かではありませんが…)。どれどれ他の日も見てみるか」となるようですが、経営、政治の話題から入ると「な~んだ、この程度?サヨウナラ~」ってなもんで、そこで終わりのようです。

じゃあってことで、そんな私の仮説が正しいかどうか試しに明日から世間一般の三連休が終了する17日まで、音楽の話題中心でいってみようかなっと思います。いわゆるテスト・マーケティングですね。


と言うわけで前置きが長くなりましたが、今日は音楽関連の話題をさわり程度に、という感じで…。

私が洋楽を聞きはじめたのが1973年。かれこれ30年以上も洋楽にどっぷり浸かっているわけです。
当時洋楽がかかっていたのは主に深夜放送。当時の流行りはと言えば、カーペンターズ「イエスタディ・ワンスモア」とかドーンの「幸せの黄色いリボン」。私はギルバート・オサリバンの「ゲット・ダウン」とかシカゴの「愛の絆」とかの曲を主にラジオで楽しんでいました。

特にシカゴはそのロゴマークがカッコよくて(写真は、例のコカコーラをまねたというブツです)、授業中教科書の隅に真似して書いたりしてましたっけ。ちなみに写真の「シカゴⅥ」はアメリカの造幣局で印刷されたとの触れ込みで発売されていました。「いやーアメリカってかっこいいなぁ~」って、本気で思いましたねぇ。

当時はシングルが1枚500円、LPは1枚2千円以上の超高級品。LPはなかなか高くて手が届かず、思いつきで買ってしまって失敗したぁなんてことは絶対に許されず、本当に厳選&吟味に吟味を重ね、お年玉とかの季節限定購入商品として、一大決心の元買う商品だったですね。

そんな中、初めて買った洋楽シングルと意を決して初めて買った洋楽アルバムは、実は同じアーティストでした。
要は、私が初めて好きになった洋楽アーティストってことですね。

ファンになった直後に知ったのは、そのアーティストと私の誕生日が同じだったこと。それには、本当に感激し運命的な出会いを感じました。

そのアーティストの話は訳あって明後日します。

当時は本当にいい曲が溢れていました。洋楽中心に流される深夜のラジオは、洋楽初心者の大関少年にとってまるで「魔法のハコ」でした。

つづく。

続・首相のイメージ戦略

2007-09-13 | ニュース雑感
政治の話題はあまり好まないので、昨日の話はあれで終わるつもりだったのですが、昨日テーマであった「政治家のイメージ戦略」の関連で、ものすごく気になることが本日ありまして、やむなく「続編」を少々。

その出来事とは、
福田元官房長官が本日夕方、総裁選へ出馬の意向を固めたとの報道です。

福田氏と言えば、昨年の総裁選前に出馬するか否かのマスコミ取材に対して、「私をいくつだと思っているの?首相が務まる歳じゃないでしょ。ありえませんよ!」と氏一流のきつ~い否定をされていたのが印象に残っています。私はこの発言を、半分本気、半分は“賭け”だったと見ています。

前回の総裁選前の下馬評では、福田氏が出馬しても対安倍氏では「負け戦」の可能性ありとの見通しで、「この歳で致命的な負け戦をすればもう次はない。このまま安倍政権がうまくいったなら仕方ないあきらめよう。今は、新内閣とは距離を置き、うまく行かないことを祈って、小泉内閣を支えた“実力派長老”のイメージづくりをしておこう」という戦略だったのではないかと想像します。

自身の年齢に言及した先の“世代交代を認めたふり”が、何よりも雄弁にその戦略を物語っているように思えるのです。

福田氏は、小泉純一郎氏の推挙により森内閣官房長官を務め、“失言総理”を支えたしっかり官房との印象付けをし、引き続き初期小泉内閣でも官房長官として高支持率内閣における首相の右腕として確固たるイメージを築きました。

そして、思惑通り(かどうかはあくまで想像ですが・・・)の安倍政権自滅崩壊。
「待っていました」と言わんばかりの大きな流れが、彼に向かって動き出したと言えるのではないでしょうか。

彼のイメージ戦略は、まず最大の危機に立たされた自民党内で大きな効果を発揮したように思います。
ある程度予想はされましたが、「福田擁立」を望む声が党内で大きくなり、「子供や小粒な人材ではダメだ。実力派のベテランを立てなくては来るべき総選挙は勝てない!」との意見が、大きく後押しをしているように思います。

当面の敵、麻生幹事長ですが、中川、石原などのような安倍坊ちゃんの“ご学友”=「子供」イメージではありませんが、党№2の幹事長として「崩壊安倍政権」を運営してきた“戦犯的”印象はぬぐえず、彼のイメージ戦略は現段階では失敗であったと言わざるを得ません。

ただ、総裁選は国民直接選挙ではないため、派閥の論理に対してイメージ戦がどれだけ有効であるかは定かではありません。したがって選挙結果がどのようになるのか、福田が勝つか麻生が勝つか、はたまた第三、第四の候補が勝つか、こればかりは、マーケティング的分析では分からない部分です。

ひとつ言えることは、もし私が自民党のマーケティング・ブレーンであるならば、「今の局面では、福田氏を総裁にするのが一番対有権者イメージ戦略上は良い結果が出るでしょう」とアドバイスをするだろうということぐらいでしょうか。

蛇足ですが、福田氏は東京の名門麻布高校→早稲田大学卒の都会派エリートです。しかも丸善石油(現コスモ石油)に20年弱の勤務経験があり、2世議員でありながら「民間」を知る都会派です。この点が、私が氏のイメージ戦略上の計算高さを感じる一番の要因かもしれません。
今日は、いつになくニコニコと嬉しそうだった福田氏の顔が印象的でした。

いづれにしましても福田氏の出馬で、マーケティング分析的にも興味の湧く総裁選になってまいりました。





首相のイメージ戦略「光と影」

2007-09-12 | ニュース雑感
安倍晋三首相が突然辞任しました。小泉政権を受けて政権発足から1年を直前に控えての辞任は、意外な短命政権であったと言わざるを得ないでしょう。

今回の辞任の要因については、相次ぐ大臣の不祥事など諸々のトラブルが重なってのものとの見方が一般的な理解ですが、マーケティング的に見た場合、安倍首相にはイメージ戦略上の致命的な失敗があったように思えます。

そもそも、小泉政権は一見無骨そうに見えて、実は周到に計算されたイメージ戦略に支えられ、長期間にわたる高支持率を維持してきたと見ています。
政界のイメージ戦略に関しては、選挙戦に向けた各政党のイメージ戦略策定をはじめ、政党および政治家がマーケティングのプロたちから調査に基づいた戦略的指南を受けるのは、近年では当たり前のこととなっています。
参考までに、政治における新時代のイメージ戦略のはじまりは、55年体制の崩壊と共に生まれた「細川内閣」での、首相の定例会見における新スタイル導入(今では懐かしいプロンプター活用)や閣議前マスコミ写真撮影時の“ガーデン・ティータイム”の導入などであったように思います。

さて小泉政権は、「自民党をぶっ壊す」「反対勢力」「刺客」等の言葉も巧みに操りながら、国民が潜在的に待ち望んでいた「牽引力・改革力のある首相」のイメージを作り上げ、実際の功績以上にことを成し遂げていたかのような印象を国民に植え付け、長期にわたる高い内閣支持率を確保してきました。

田中真紀子の「登用→更迭」に代表される「決断と対応の早さ」や、靖国参拝や郵政民営化に代表されるある種の「頑固さ」も、そのイメージづくりにはいい方向に貢献をしていたと考えられます。その意味では、計算以上の結果をもたらした典型的な「好循環」の事例でもありました。

そんな小泉政権にあって安倍晋三氏は、ややもすると“過激な”イメージになりがちな政権の緩和材的役割として官房長官に任命され、そのソフトな風貌や語り口から、女性有権者の支持を集め次期首相候補に一気に浮上した形でありました。

すなわち、「鋭角的」「直線的」な小泉政権のなかにあってこそ、その「温厚」で「ソフト」なイメージが最大限に発揮されていたのだと、就任前の段階で気がつくべきであったのかもしれません。

安倍首相とそのブレーンたちは、就任直後から「小泉政権と同じやり方や同じイメージでいけば、必ずや比較劣後に陥り支持率の低下は免れ得ない」と考え、全く別の「小泉にないもの」を意識したイメージづくりに専念しました。

ひとつの実例としては、「小泉にないもの」の代表として意識したのが「妻」「夫婦愛」であり、それを必要以上に強調する施策として、外遊時の飛行場タラップにおける“立ち位置”まで固定した「手つなぎパフフォーマンス」を展開したのでした。
また、首相の著書である「美しい国へ」は、中身はともかく、そのタイトル自体が「温厚」で「ソフト」な首相のイメージを定着させるための有力な戦略のひとつでもありました。

安倍首相にとって、誤算だったのは確かに相次ぐ不祥事だったでしょう。
不祥事が出ても「毅然とした態度をとった」と印象付けられる小泉首相に対して、不祥事が出るたびに必要以上に「優柔普段」「決断力欠如」との印象を与え(確かにかなりな優柔不断ではありましたが・・・)悪循環にはまった安倍首相。その都度、必要以上に支持率を押し下げていったのは、良かれと思った“脱小泉”イメージ戦略が裏目に出たことも大きかったのではないか、と思います。

小泉政権の「鋭角的」「直線的」なイメージ戦略は、裏目に出た場合「独善的」「暴走」との印象に転化されやすくなります。その緩和剤が当時の安倍晋三官房長官であったのです。
安倍政権の「温厚」「ソフト」なイメージ戦略は、裏目に出れば先に言ったように「優柔不断」「決断力欠如」であり、やはり早い時期に小泉政権とは逆の緩和剤的人物の重要ポスト起用が必要であったではないでしょうか。
政権末期に、歯に衣着せぬ論客の桝添要一参議院議員を厚生労働大臣に起用し、国民注目の社保庁問題に対処させたことで、久々に若干なりとも内閣支持率が回復したことからも、緩和剤的人物の実効性は明らかであると言えるでしょう。
今となっては、遅きに失したとしか言いようのないことではありますが・・・。

さて、目下の世間の注目は次期首相のイスに誰が座るのかという問題。
誰が座るのかはともかくとして、安倍政権のイメージ戦略失敗により難しさを増す「ポスト小泉イメージ」づくりを、新首相となる人がマーケティング・ブレーンたちとともにどのように作り上げていくのか、私の関心はもっぱらそこにあります。

ビルボード・ライブの戦略を分析する

2007-09-11 | マーケティング
ブログの初回にも少し触れましたが、六本木の東京ミッドタウンのエンターテイメント施設として8月に「BILLBOARD LIVE TOKYO」がオープンしました。

先週の金曜日にTBSのNEWS23「金曜夜間便」とかいうコーナーで、“新しいライブハウスの形”みたいな取り上げ方をしておりましたが、ピーター・バラカン氏がレポーターを務めていた割には、「鮪のステーキ」を嬉しそうにほお張っていたのが印象に残ったぐらいで、突込みがかなり弱かったのが残念でした。そこで、私なりに思うところを・・・。

「BILLBOARD LIVE TOKYO」の新しさは、何といっても全米ヒットチャート誌「BILLBOARD」全盛時代のチャートアクションアーティストを中心とした生演奏を、お酒を飲みながら見せようというところにあります。

これまでの国内のライブハウスはといえば、若手バンドの登竜門的存在として客層も若者中心といった感じが多かったと思います。お酒を飲みながらとか食事をしながらというよりは、ギュウギュウ&ムンムンのオールスタンディング状態で、タテノリの一体感を楽しむみたいな感じじゃないでしょうか(オジサン大関は、最近の若者向けライブハウスを知らないので、ほとんど想像の世界ですが)?

ポピュラーやロックミュージックの歴史も40年を越え、その創生期である60~70年代に若者として音楽を楽しんだ世代は、生活は安定しつつも、「マンネリ化する家庭生活」や「先が見えて自身保守的になり、つまらなくなりつつある仕事の世界」にどっぷりと漬かっています。「BBL」はそんな彼らを、マーケティング的に言えば自身の輝かしく若かりし日々との連動感のもと「非日常性=“ハレ”」の戦略で引き込もうというものだと思います。

そもそも音楽の生体験(ライブ)は、レコードやCDとは違う「ハレの演出」であり、若者がそこに集まるのも日常と隔離された世界での一種のエネルギー発散を目的としているケースが多いように思います。
「中高年にも、同じニーズはあるんじゃねぇ?ストレスは確実に若者より多いんだし。適度に金もあるからハコさえあればきっと来るって」。運営会社の阪神コンテンツリンクと企画の代理店スタッフたちはそう考えたに違いないですね。

でも、そんなハコを作ってもどうやって“オジ&オバ向け”を彼らに認知させるか、どうやってそのコンセプトを伝えるか、が最大の難問だったと思います。
若者と違って、文化的なアンテナは低い、情報網も限られてる、となればハコのコンセプトを表現できるネーミングに勝負をかけるのが、一番のポイントだったわけです。

そこで出てくるのが、60~70年代のポピュラー&ロックファンにとっては特別な存在である「ビルボード」というキーワード!なぜって、ラジオ関東湯川れい子女史の「全米トップ40」は、米国ビルボード誌の最新チャート(実は1週遅れだったのですが)を毎週紹介する人気番組で、とにかく洋楽情報が少ない当時は、音楽フリークたちのバイブル的存在でしたから。ちなみに80年代の洋楽フリークのバイブルは、「ビルボード」&「全米TOP40」ではなくて、「ベスト・ヒットUSA」&「小林克也」に移っていくわけです。ライブからMTV時代への移行でもありますね。これはこれで30代後半から40代前半を捕まえるマーケティング戦略材料としては、今後十分使えるネタだと思います。

話を戻して、
阪神さんいいところに目をつけましたね。
そう、検討段階では英米のライブハウスと提携してその名前を冠につける方法も候補になったはずですが(JAZZ系の「ブルーノート」はまさにそのやり方)、仮に「マーキー東京」「ボトムライン東京」「トゥルバドゥール東京」等のネーミングだったら、私のようなコアなファンはゾクゾクさせられるものがありますが、一般的なオジ&オバにはピンと来なかったんじゃないでしょうか?それと特定の色が付きすぎて、かえってマニアックなイメージになるリスクもあったと思います。

そんな訳で、60~70年代を洋楽とともに過ごしたオジ&オバは、「BBLオープン!」のニュースを聞き、何よりもまず「ビルボード」の響きに思わず「何?何?」と身を乗り出したと思います。かく言う私もそのひとり。その意味では、米ビルボード誌との提携って発想は、とりあえずここまでは大正解であったのではないでしょうか。
しかもオープニングが、70年代アメリカポピュラー音楽の“ある特徴的な部分”を象徴するスティーリー・ダンですから、私などはもうブッ飛びでしたね。「信じられない!あのアーティストのライブがキャパ300のハコで見れる!」。当時買えなかったギブソン印やフェンダー印の楽器に大枚をはたく“大人”たちにとっては、あの頃につながれる“ハレ体験のドリーム・チケット”を手に入れるのに金額はたいした問題ではないハズ。なぜなら、それは一般のコンサートチケットとは完全に別の商品との認識ができる訳ですから。

今後の課題は、狙い通りのオープニングを飾れた今「ビルボード・ライブ」のコンセプトをさらに後付けでどう強くイメージさせていけるか、でしょう。それは新たな「ビルボード・ライブ」ブランドの確立につながる大切なことです。これはもう、単純にどれだけ60~70年代洋楽フリークをうならせるアーティストを呼べるかにかかっていると言っていいと思います。

3万円でも5万円でも、“目玉”を呼べれば定員300のハコなら数回は確実に埋まるでしょう。今の東京の大人たちの懐は意外に深いです。大人たちが価値を認めえるものは、高くとも必ず売れていく時代です。
ポール・サイモン、ニール・ヤング、ジェームス・テイラー、フリートウッド・マック、サンタナ・・・、エアロスミスのアンプラなんかも見てみたいですね。ストーンズのクラブライブなんてのは、さすがに1席=50万円でも無理ですかね。まぁ、でもこれくらいの大物を3か月~半年に1回の目玉で呼べるようなら、かなり先行きは明るいですが・・・。

“こけら落とし”の大物スティーリー・ダンの後は、アール・クルーやらラリー・カールトンなど、「青山ブルーノート東京」との棲み分けが明確じゃないプログラムが続いていて、好き嫌いはともかく個人的には早くも少々不安な感じですが・・・。こちらは「ビルボード」ブランドらしく、頼みますよ。

阪神コンテンツリンクさん、よろしく。応援してます。

BILLBOARD LIVE TOKYO ホームページ
http://www.billboard-live.com/#/1/1/