日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

新企画「70年代洋楽ロードの歩き方」2~アフター・ザ・ビートルズその2

2010-03-14 | 洋楽
ポールは71年に自身のバンド、ウイングスを結成し、アルバム「ワイルド・ライフ」をリリースしますが、これがまた散々な評価に終わります。楽曲のデキの荒っぽさ、録音のラフさなどからうかがい知れるのは、形式上自己のバンドを組んではみたものの全作までのソロ2作と同様、「ホワイト・アルバム」以降のビートルズの幻影に悩まされた状況下での音楽活動に変わりなかったのです。B2などは、途中までのコード進行が「イエスタディ」と同じでタイトルが「トゥモロウ」ですから、当時のポールの苦悩の深さが見て取れるようです。その意味ではこのアルバムまでが“ワン・オブ・ザ・ビートルズ”としての作品であり、次作「レッド・ローズ・スピードウェイ」からがいよいよ“アフター・ザ・ビートルズ”としての1アーティスト、ポール・マッカートニーとしての作品であると、明確に区分けをして捉える事が出来ると思います。

「レッド・ローズ・スピードウェイ」がなぜ区切りになるかですが、曲こそ着想はセカンドアルバム「ラム」の頃のモノが含まれてはいるものの、ここでのポールの制作姿勢は前3作とは比べ物にならないくらいポジティブなものに変化しており、ウイングスが軌道に乗りつつある中でようやくビートルズの再結成を捨てて、新たな道を歩き始めたという感が強く打ち出されているのです。中でもA2「マイ・ラブ」はビートルズ時代とは明らかに一線を画した珠玉のラブ・ソングであり、そこにジョンやビートルズの幻影は全く言っていいほど見当たりません。この曲がアルバムとともに全米チャートを制覇したことで、彼はビートルズを切り離した1アーティストとしての自信をつかんだのではないでしょうか。

この直後には、映画007のテーマ「死ぬのは奴らだ」を大ヒットさせ、さらに名作アルバム「バンド・オン・ザ・ラン」「ビーナス&マース」と続くソロとしての栄光の時代に突入していく訳です。この2枚のアルバムでは、吹っ切れつつありながらまだ完全ではなかった「レッド・ローズ…」当時の状態が嘘のように吹っ切れて、“元ビートルズ”としてではない素晴らしいパフォーマンスの数々を作り上げたのでした。そして「ビーナス&マース」リリース後には、彼にとってはビートルズ66年のライブ休止以来となるバンド初のワールド・ツアーにも出、ステージで数曲ビートルズ・ナンバーを披露するなど、ポール・マッカートニーはビートルズを卒業し完全に一個のアーティストとして生まれ変わったのです。

さて以上をふまえて最後に、70年代ポール・マッカートニーの聞き方ですが…
「マッカートニー」「ラム」「ワイルド・ライフ」の3枚は“ワン・オブ・ザ・ビートルズ”のスタンスであり、ビートルズのアルバム「ホワイト・アルバム」の延長にあるスタジオ・セッション集的に捉えて聞くのが良いと思っています。
そして、70年代の“アフター・ザ・ビートルズ”としてのポールのスタートは「レッド・ローズ・スピードウェイ」から。特に「バンド・オン・ザ・ラン」「ビーナス&マース」は必聴です。ややレベル・ダウンしますが、続く「ウイングス・スピード・オブ・サウンド」までがピーク。そしてソロ黄金時代の集大成でビートルズ・ナンバーも収録したLP3枚組のライブ「ウイングス・オーバー・アメリカ」はぜひ押さえておきたいアルバムです。その後の「ロンドン・タウン」と「バック・トゥ・ジ・エッグ」はやや惰性気味ですね(良い曲は入っていますが…)。

75年の初ワールド・ツアーでは当初日本公演も予定され、日本中が大変な騒ぎになっていました。騒いでいたのは私たち“アフター・ザ・ビートルズ世代”。元ビートルズとしてのポールを見たいのではなく、一大物アーティスト、ポール・マッカートニー&ウイングスを生で見たいと騒いでいたのです。結果的にはこの時は麻薬前科のあったポールの入国許可が下りず、残念ながら来日は中止になってしまったのですが…。「ビーナス&マース」のA1「ビーナス&マース~ロック・ショウ」A5「ワインカラーの少女」を聞くと、今もあの当時最高に輝いていたソロ・アーティストとしてのポールが鮮明に蘇ってきます。ポール・マッカートニーの70年代はこのように流れていったのです。
(この項続く)

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