秋田県史のお勉強は順調に進み、平安後期になってきました。この時期秋田では、清原氏の内輪もめ(?)とも言われた後三年の役がありました。以前読んでいた、平成になって書かれた横手市史では、大体今言われた説が書かれ、沼柵は横手市雄物川町に、金沢柵は横手市/美郷町にあったとされています。
でも昭和50年代に書かれた秋田県史では、金沢柵は同じ場所に比定されているものの、沼柵はまだその当時定まっていなかったようで2か所の候補地が書かれ、その一つは現在の比定地である雄物川町ですが、もう一つの候補として当YHのある藤木村の現四十二館跡ではという説が並べて書かれていたのには驚きました。
確かにロケーションとしては、雄物川から離れておらず、平地で周辺には湿地帯(現田畑)が広がり、金沢柵までの距離も10キロほど(雄物川町は17キロ)とそんなに変わらない距離と、条件は似通っているようです。
四十二館跡の詳しい勉強はまだほとんどしていないので確かなことはわかりませんが、その後昭和50年代後半に四十二館跡の発掘調査が行われたようで、たぶんその際の出土品などから、時代が異なることがわかり、沼柵の比定地から外されて、現在のように沼柵=雄物川町となったと思われます。やはり古い文献も書かれた時代が大切で、また読み比べてみると、面白い発見があるものです。
のち