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フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

5月1日(火) 晴れ

2018-05-02 12:13:41 | Weblog

8時半、起床。

今日から5月だ。書斎の壁のカレンダーをめくる。赤カブですか。俳句では「かぶ」は冬の季語ですけどね。

研究室の卓上カレンダーは、8日まで大学に出ないので、GWに入る前にめくっておいた。「自転車」ですね。ママチャリではくスポーツ自転車だ。風を切って走る。こちらのほうが5月らしい。

郵便受けに新聞を取りに行くと、ちょうど近所のWさんが前を通った。Wさんは母の友人だった人で、もう90歳を越えている。足が丈夫で、よく駅の方への買い物の行き帰りの姿をお見かけしていたが、このところご無沙汰だった。なんでも急に腰が曲がってしまったのだという。「朝起きたら腰が曲がっていたのよ。おどろいちゃった。落ち込んでしばらく家を出られなかったの」。たしかに心もち腰が曲がっているように見えるが、言われなければ気づかないレベルだ。でも本人にとってはショックなのだろう。「今日は朝食用のパンを買いに駅まで行くの。久しぶりの外出。足はまだ大丈夫だから」。そうですね。歩くのはいいですね。

トースト、カレー、サラダ、牛乳、紅茶の朝食。

12時に予約してある近所の歯科医院へ。院長と猫の話。うちのナツのことを院長は知っており、ナツのあとを追いかけているオス猫(うちではブーと読んでいるが、院長は別の名前で呼んでいる)のことも知っている。ブーはよく院長の自宅に出入りしているそうである。図体も顔も大きいが性格は温厚で喧嘩は弱いことも知っている。

今日で今シリーズの治療は終わり。

帰宅して、綱島にある眼鏡屋「アイケアシステム」にメールをする。妻と息子が眼鏡を作った店である。今回は自分の眼鏡を作ろうかと思うのである。私はこの歳のなるまで眼鏡なしでやってきた。いまでも視力は右が0.7、左が1.0だが、乱視と老眼もあって(たぶん)、だんだん眼鏡なしでは苦しくなってきている。すごく苦しくはないのだが(だからこれまで眼鏡なしでやってこれたのだが)、眼鏡をかけたら本を読んだり、パソコンの画面を観るのがずっと楽になるだろうことは間違いないと思う。とくに左右の視力が違うのは困りもので、ふと気づくと、離れた場所にある本棚に並んだ本のタイトルを左目で読み(右目は閉じて)、手元の本の小さな活字を右目で読んでいる(左目は閉じて)ことがある。遠近両用ではなく遠近分業だ。いかにも無理がある。本を読んだり、パソコンに向かって文章を書くことは、今後の生活でも必須だから、そろそろこの辺が眼鏡という切り札を使うタイミングだろう。

昼食は「吉岡家」に食べに行く。

 

今日も暑い。冷たい麦茶が美味しい。

野菜天もりを注文。加えて、本日のおすすめの中から、タコとわかめの酢味噌和えを注文。

タコはもう少し大きめもの(足の輪切りか大きめのぶつ切り)を予想していた。小さめのぶつ切りなので、タコの味わいよりも、酢味噌の味が勝っている。

野菜天の合間にタコとワカメの酢味噌和えを摘まむ。

帰宅して昼寝をしていると、息子がやってきた。名古屋から東京にまっすぐ帰省したわけではなく、途中で友人と鎌倉(江の島)で一泊してきたらしい。

お土産はういろうではなく、鳩サブレーだった。

夕方、散歩に出る。

三日連続ウォーキング&ジョギングをしたせいで、足の筋肉が張っている。今夜は足を休ませねばなるまい。

自転車置き場の横の東口西口の連絡トンネル。

ここには昔の蒲田駅の面影が残っている。

もしここに傷痍軍人(の幽霊)が座っていたら、向こうの出口は、間違いなく戦後復興期の蒲田駅東口だろう。

「テラス・ドルチェ」で一服。

昼間暑かったせいだろう、店内にはクーラーが入っていて、クーラーが苦手な私はクーラーの風を避けてカウンター席に座った。コーヒーを飲みながら持参したほぼ日手帳(オリジナル)に考えごとを書きつける。「テラス・ドルチェ」は私にとっては「もの思いカフェ」だ。

夕食は鮎の塩焼き、なめこおろし、サラダ、玉子と玉ねぎの味噌汁、筍ごはん。

息子は夕飯は食べてくると思っていたので、彼の好物の餃子や鶏の唐揚げではなく、夫婦好みのメニューである。

今日の『半分、青い』(録画)を観る。主人公のすずめ(鈴愛)は、内定をもらっている地元の農協への就職を取りやめて、東京に出て、憧れの漫画家のアシスタントになりたいと家族に打ち明ける。予想された通り、家族は反対する。とくに母親が大反対。みなすずめのことを思ってのことである。だから家族というものはやっかいなのだ。愛情を背景にした反対を跳ね返すにはエネルギーがいる。ドラマの主人公にはそのエネルギーがある。だからドラマの主人公たりえるのだ。しかし、実際にはエネルギー不足で家族の反対を押し切ることのできない人がいっぱいる。彼らは自分の人生のドラマの主人公になりそこねる。親の人生のドラマの共演者にとどまってしまう。そして自分の子供にはそうなってほしくないと思ったとしても、どんな形であれ子供の人生に「こうなってほしい」「こうなってほしくない」と強く願うとすれば、それもまた愛情という権力を背景とした人生のシナリオの押しつけなのである。因果はめぐるのである。

2時半、就寝。