陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

224.山下奉文陸軍大将(4) 自分たちは義軍ですか、それとも賊軍ですか

2010年07月09日 | 山下奉文陸軍大将
 趣意書に二、三箇所の添削を終わったあと、山下少将は、しんとせまる寒気に背を固くして端座する二人の大尉に眼をむいたまま、ついに一言も発しなかった。

 「わからない」。山下少将の家を出た安藤大尉は首をひねった。いまの無言劇は何と解釈したらよいのであろうか。

 一つは山下少将が決起を本気にしなかったのではないかという見方であるが、これはうなずけなかった。とすれば、決起のことは本気だとしても、大規模なものではなく、数人の相沢中佐の挙にとどまるであろう。

 さらに青年将校らの一部的蜂起は政財界に対する軍の支配権確立のためにも有利に展開するのではないか、と考えての黙認の形の沈黙ではなかったか。

 もう一つは、自分の訓育した安藤大尉らに対する温情ではないかという見方だ。あの純真な安藤らが、ここまで思いつめた熱情に対して、せめて思いをとげさせてやりたいという無言の激励ではないのか。いずれにしても、推測の域を出るものではなかった。

 「死は易きことなり」(太田尚樹・講談社)によると、昭和十一年二月二十六日午前六時過ぎ、突然山下少将の自宅の電話がけたたましく鳴った。

 山下少将の妻、久子の妹、勝子が急いで電話口に出ると、電話の主は陸軍大臣秘書官・小松光彦少佐(陸士二九・陸大三八)だった。

 山下少将が電話に出ると、小松少佐が、青年将校らが政府首脳を襲撃したことを伝えた。山下少将は一瞬、「なにっ!」と驚いた後で、「よし、今すぐ行く」と言ってから電話を切った。

 その直後、久子も、妹の勝子も、山下少将の「バカめがっ!」という、吐き出すような声を聞いている。まさか青年将校たちがこういう形で事件を起こすことは予想外だったのだ。

 事件の朝、陸相官邸に駆けつけた山下少将は、軍事参議官の荒木貞夫大将(陸士九・陸大一九首席)、真崎甚三郎大将(陸士九・陸大一九)らの意を受けると、決起部隊説得のための草案作りにとりかかった。

 これが後に問題になる大臣告示だが、荒木、真崎らのように権限のない軍事参議官の名では出せないので、川島義之陸軍大臣(陸士一〇・陸大二〇)をしぶしぶ承諾させてできあがった告示だった。

 山下少将は決起した青年将校たちに、この大臣告示を読み上げた。だが、この大臣告示はあいまいな内容だったので、磯部ら青年将校が「自分たちは義軍ですか、それとも賊軍ですか」と山下少将に詰め寄ったのも無理は無かった。

 だが、山下少将はそれをまるで無視するかのように、同じ文面を三度読み返しただけだった。参内した川島陸相に対して天皇が怒りをあらわにして事件の鎮圧を命じたことも山下少将には分かっていたこともあるが、事件そのものに山下少将自身も不快感を抱いていた。

 事件翌日の二月二十七日、本庄繁侍従武官長(陸士九・陸大一九)が天皇に「青年将校らの行為は認めがたきものなれども、その憂国の精神はくんでやるべきかと・・・・」と申し上げると、天皇の返事は予想を超えて激しいもので、本庄侍従武官長を叱責し、「朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ、此ガ鎮定ニ当タラン」と言われた。

 天皇は、決起した兵士達に速やかに原隊に復帰するよう奉直命令を出した。天皇の意思がはっきりした以上、決起部隊の青年将校たちが素直に原隊復帰に応じるか、皇軍あい撃つといった局面になった。

 二月二十八日、奉勅命礼を受けた香椎浩平(かしい・こうへい)戒厳厳司令官(陸士一二・陸大二一)から正式に戒厳令が公布された。これにより決起部隊は反乱軍となり、討伐命令が下されることになった。

 これを決起部隊の青年将校たちに伝えたのは山下少将だった。青年将校たちは陸相官邸で、大臣告示が空手形であったことを思い知らされ、自決しろと引導を渡された。

 「史説 山下奉文」(児島襄・文春文庫)によると、そのとき栗原安秀中尉(陸士四一)が「いま一度、統帥系統を経て、お上にお伺いしよう。もし死を賜るならば、侍従武官の御差遣を願い、将校は立派に屠腹し、下士官のお許しを願おう」と言った。

 山下少将はこれを聞き「よく、そこまで決心してくれた」と感涙した。山下少将は午後一時、川島陸相とともに本庄侍従武官長を訪ねた。将校一同は自刃する。下士官以下は原隊に復帰させる。ついては「勅使ヲ賜ハリ死出ノ光栄ヲ与ヘラレタシ」と言った。侍従武官の差遣は天皇の許可がいる。

 本庄侍従武官長は「とても駄目だろうが、一応申し上げてみる」と、天皇の前に出ると、果たして天皇は非常に立腹された。「自殺スルナラカッテニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使ナド以テノ外ナリ」。

 さすがに山下少将も悄然として退出したが、陸相官邸に帰ってみると、青年将校達の姿は無かった。なんとなく自決ムードに支配されたものの、自分達が死んだら、昭和維新はどうなる、兵はどうなるんだ、と気づき、次々に自決中止、徹底抗戦の決意を固めてそれぞれの持ち場に戻ったのである。再び反乱部隊と、鎮圧部隊は対峙した。

 だが、二月二十九日になり、青年将校たちは、説得されて次々に帰順し始めた。山下少将は、十八の棺を用意して陸相官邸の玄関に立っていた。