陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

225.山下奉文陸軍大将(5) 東條中将は、「なに、山下・・・」と、目を据えた

2010年07月16日 | 山下奉文陸軍大将
 帰順を終えた将校は官邸に集まるよう指示され、次々にやってきた。そのたびに、山下少将は呼び止めて、「おい、貴公、これからどうするか」と訊いた。

 「ハイ、自決します」と言えば右、「断固、昭和維新に邁進します」と言えば左の部屋を指示された。だが、自決組もやがて、野中四郎大尉(陸士三六)や栗原中尉らに説得されて、法廷闘争の道を選ぶことになった。

 「木戸幸一日記」の事件二日後の記述には、近衛公からの情報として「今回の事件は岡村(寧次)・山下(奉文)両少将、石本(寅三)大佐の合作なりとの相当確実なる聞き込みあり」という記述がある。

 昭和十一年二月二十六日に起こった二・二六事件以後、山下奉文将軍は、ほとんど東京というか、日本にいない。

 昭和十一年三月には歩兵第四十旅団長。第四十旅団長は左遷人事のように言われているが、二・二六事件後、広田弘毅内閣の寺内寿一陸軍大臣の配慮だったとも言われている。事件後、東京では軍法会議が始まり、山下少将も東京にいれば、平穏ではいられない。それで京城の第四十旅団に赴任させた。

 昭和十二年八月支那駐屯混成旅団長、十一月に中将に昇進し、昭和十三年七月北支那方面軍参謀長、昭和十四年九月第四師団長(満州)。

 昭和十五年七月になってようやく、航空総監兼航空本部長として中央に返り咲いたが、その年の十二月には東條英機陸軍大臣によりドイツ派遣航空視察団長に任命され、ドイツに追いやられた。

 昭和十六年七月新設の関東防衛軍司令官(満州・新京)、十一月第二十五軍司令官、開戦後マレー作戦(シンガポール陥落)。昭和十七年七月第一方面軍司令官(満州)。

 昭和十八年二月大将に昇進、昭和十九年九月第十四方面軍司令官(フィリピン)、昭和二十年八月フィリピンで終戦、捕虜となる。十二月マニラ軍事裁判で死刑判決、昭和二十一年二月二十三日処刑。

 以上のような、流れを見てみると、山下将軍は、二・二六時件以後、ほとんど外地に飛ばされ、そのあげく外地で処刑された。

 「フィリピン決戦」(村尾国士・学習研究社)によると、東條英機と山下奉文について、河辺正三陸軍大将(陸士一九・陸大二七恩賜)は、戦後、次のように語っている。

 「大東亜戦争になって、東條、山下の両氏は、なにか運命のようなものにさえぎられて肝胆相照らすことができなかったが、ベルン時代の二人は実に仲が良かった」

 「あれほど仲の良かった二人の結びつきが、大東亜戦争を前にして離ればなれになったということは、私には、なんだか不思議でならない。事情もあっただろうが、あの二人がしっかりと手を握ってくれたならば、日本の歴史も少しは変わっていただろう」

 実際、ベルン時代には山下と東條は一緒に旅行したり、東條が自分の愛人を山下に紹介したりしている。だが、後年、二人は袂を分かち、東條は山下を退けた。そして二人とも戦犯として処刑されることで、軍人としての人生を終えた。

 昭和十五年七月十八日、近衛文麿内閣の陸軍大臣に航空総監・東條英機中将が選ばれた。東條中将は、前任の畑俊六大将(陸士一二次席・陸大二二首席)から政変と陸相就任を告げられると、航空総監の後任は誰かと尋ねた。

 畑陸相が「山下奉文中将です」と答えると、東條中将は、「なに、山下・・・」と、目を据えた。思わず遠くを見つめるように。

 山下中将の航空総監就任は、山下中将の親友、参謀次長・沢田茂中将(陸士一八・陸大二六)の微妙な工作で決定した。

 沢田中将は後任陸相が東條中将と知ると、かねて不仲と承知される二人なので、東條陸相の下では、ますます山下中将の中央復帰のチャンスは遠のくと判断して、畑陸相に働きかけて非常手段をとった。

 七月十八日、畑陸相が後任陸相として東條中将を内奏するさい、山下中将の航空総監もあわせて奏上してもらったのだ。

 昭和十五年七月二十二日、山下中将は航空総監に就任し、東京に戻ってきた。「史説・山下奉文」(児島襄・文春文庫)によると、東京駅には、寺内寿一大将(陸士一一・陸大二一)、杉山元大将(陸士一二・陸大二二)、阿南惟幾陸軍次官(陸士一八・陸大三〇)、沢田茂参謀次長(陸士一八・陸大二六)、武藤章軍務局長(陸士二五・陸大三二恩賜)その他多数の高級将校が出迎えた。

 山下中将は北支那軍参謀長として、寺内、杉山両軍司令官に仕えた。山下中将はまず両大将に敬礼すると、参謀次長・沢田中将の手を握った。

 「ありがとう」。その一言に、山下中将は沢田中将の友情に対する万言を越える感謝の意をこめ、握り返す沢田中将の手に、二度、三度と力をこめた。