陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

329.岡田啓介海軍大将(9)元帥は今回の請訓に付ては大に不満足なる意を洩らされたり

2012年07月13日 | 岡田啓介海軍大将
 岡田大将は、すでに昭和五年一月二十八日、牧野伸顕(まきの・のぶあき)内大臣(鹿児島・大久保利通の次男・東京帝国大学中退・外務省・福井県知事・茨城県知事・文部次官・イタリア大使・文部大臣・農商務大臣・外務大臣・宮内大臣・勲一等旭日桐花大綬章・内大臣・伯爵)、翌二十九日、西園寺公と会見していた。

 これら元老重臣の腹中を知り、全権の請訓到来後、斎藤総督と会って、その考え方を問うたのだから、その考え方は自ずと知れていた。

 「西園寺公と政局」(原田熊雄・岩波書店・第一巻)によると、その岡田大将の立場は次のようなものだった。

 「政府も『ロンドンから訓令を仰いで来ているのに、海軍部内が纏まらないようでは困る』というので、密かに幣原外務大臣と浜口総理大臣との間に話が出来て、岡田大将を外務大臣の所に呼んだ」

 「外務大臣から『一体、七割が少しでも欠けたら決裂した方がいいと思うのか、或は七割を欠いても纏めた方がいいと思うのか』と岡田大将自身の意見をただした」

 「すると、岡田大将は言下に『それは六割でも五割五分でも結局纏めなければならぬのだ』と答えたので、外務大臣も『それならぜひ一肌脱いで海軍部内を纏めてもらいたい』と話をされた」。

 昭和五年三月二十二日午前七時半、岡田大将は山梨次官の来訪を受けた。「岡田啓介回顧録」(岡田啓介・毎日新聞社)によると、このとき山梨次官は次のように述べた。

 「軍事参議官会合はなるべく避けたい方針だったが、加藤寛治軍令部長の求めによってやむなく集合することにした。だが、当日は決議といったことは避け、単に経過の報告程度にとどめたい。この点軍令部長にも話しておいたが、貴官からも加藤大将に話しておいていただきたい」。

 そこで、軍事参議官会議が開かれる三月二十四日前日の、二十三日午前八時半、岡田大将は加藤軍令部長を私宅に訪ねた。そのときの様子が「岡田啓介回顧録」に次のように記されている。

 「加藤軍服帯勲にて応接間に在り何れに赴くやと問いたるに是より内大臣および侍従長に我配備を説明し米案の不可なるを説明に赴かんとする但し書類の点あれば末次の来るのを待つなり依て予は余程心して余裕を後日に残す様説明せよと忠言し尚二十四日の参議官会合に単に経過報告に止むべきを忠言せるに加藤は之を諾し山梨の希望もあり経過の報告に止むべし」。

 この日の加藤邸における岡田、加藤会見の模様、気負いこんだ加藤軍令部長の貌を、まのあたりに見るようである。岡田大将の筆は簡潔、短文のうちに、よく劇的の光景を活写している。

 同日午後一時、岡田大将は伏見宮に謁し、続いて東郷元帥に会っている。「岡田啓介回顧録」に次のように記されている。

 「午後一時伏見宮邸に参上明日軍事参議官の会合あれども私は此際大臣の意志明白ならずして意見を述べ難きにより只経過を聞くに止め度と申し上ぐ、殿下よりは財部の意思は明瞭なり彼出発前予に向い二度迄も今度の会議に於て我三大原則は一歩も退かさる旨名言せり大臣の意思を問合す必要なしとて幣原外交の軟弱なるを嘆ぜらる」

 「若し此際一歩を退かんか国家の前途判るべからず愈(いよいよ)とならば予は拝謁を願い主上に申上んと決心し居ると依て其重大事なるを申上事前に山梨に御知らせあらんことを御願し尚政府と海軍と戦う如きは避くべき理由を申上げたるに殿下は夫は何れも重大なる事だから秤にかけて定めなければならぬが扨(さて)何れが重きか中々六ヶ敷事なりと御笑あり一時五十分退出」

 「午後二時東郷元帥邸に元帥を訪問指導主旨の事を申たるに元帥は今回の請訓に付ては大に不満足なる意を洩らされたり」。

 ワシントン会議が終わって全権加藤友三郎が帰朝したとき、水交社で、次の三人の元帥が出席した。

 井上良馨(いのうえ・よしか)元帥(鹿児島・春日艦長・雲揚艦長・扶桑艦長・海軍省軍事部次長・男爵・軍務局長・参謀本部海軍部長・横須賀鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・大将・子爵・元帥・大勲位菊花大綬章)。

 東郷平八郎元帥(鹿児島・英国商船学校・浪速艦長・常備艦隊司令官・佐世保鎮守府司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・海軍軍令部長・大勲位菊花大綬章・功一級金鵄勲章・伯爵・元帥・大勲位菊花章頸飾・侯爵)。

 島村速雄(しまむら・はやお)元帥(高知・海兵七・イタリア駐在武官・戦艦初瀬艦長・第二艦隊司令官・海軍兵学校長・中将・第二艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・海軍教育本部長・軍令部長・大将・勲一等旭日大綬章・男爵・元帥)。