明治三十一年十一月海軍大臣になった山本権兵衛中将は、福沢諭吉が期待したとおり、薩摩閥を顧みず、適材適所の人事を進めた。
だが、確かに薩摩閥は減少していったが、代わりに、山本権兵衛閥と言われるような人脈が形成されていき、それに反発、対抗する一派が生じたのである。
その反山本派の筆頭は、当時の常備艦隊司令長官・柴山矢八(しばやま・やはち)中将(鹿児島・米国留学・海軍中尉任官・武庫司出勤・大尉・砲兵科砲兵大隊副長・コルベット「浅間」乗組・コルベット「筑波」乗組・水雷練習所長・少佐・中佐・水雷局長・大佐・参謀本部海軍部第二局長・欧米各国派遣・艦政局次長・コルベット「筑波」艦長・防護巡洋艦「高千穂」艦長・海軍兵学校長・少将・佐世保鎮守府司令長官・中将・常備艦隊司令長官・海軍大学校長・呉鎮守府司令長官・旅順警備府司令長官・大将・男爵・正二位・旭日大綬章・功二級・フランス共和国レジオンドヌール勲章オフィシェ等)だった。
柴山矢八中将は、薩摩藩医の家に生まれ、山本権兵衛より二歳上で、海軍兵学寮に入校せず、開拓使派遣として二年間米国に留学して帰国後海軍中尉になった軍人である。
山本権兵衛中将ら革新派と、柴山矢八中将ら保守派の派閥争いがあったのである。山本中将と柴山中将は昔から何かにつけて対立し、「権兵衛が種まきゃ、矢八がほじくる」と戯れ歌まで生まれた。
明治三十二年一月、山本権兵衛海軍大臣は、自分に合わない柴山矢八中将を、常備艦隊司令長官からはずして、海軍大学校長にした。柴山中将は四十八歳だった。
そして横須賀鎮守府司令長官・鮫島員規(さめしま・かずのり)中将(鹿児島・戊辰戦争・維新後海軍少尉補・少尉・中尉・砲艦「鳳翔」乗組・大尉・砲艦「鳳翔」副長・装甲艦「比叡」副長・少佐・軍事部第三課長・参謀本部海軍部第一局第一課長・中佐・参謀本部海軍部次副官・大佐・参謀本部海軍部第二局長・装甲艦「金剛」艦長・防護巡洋艦「松島」艦長・常備艦隊参謀長・連合艦隊参謀長・少将・常備艦隊司令官・西海艦隊司令官・海軍大学校長・中将・横須賀鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・大将・男爵・正二位・勲一等旭日大綬章・功二級・エジプト王国オスマニア第四等勲章)を常備艦隊司令長官に就任させた。
鮫島員規中将は、やはり薩摩出身だが、五十三歳の温厚な人物で、柴山中将も、この人事に逆らうことはできなかった。だが、柴山中将の山本中将に対する敵愾心はいよいよつのった。
山本権兵衛海軍大臣時代の海軍内部は、山本権兵衛中将を頂点とする人脈と、柴山矢八中将を頂点とする人脈に分かれ、対立が続いていった。
明治三十三年当時、呉鎮守府司令長官・柴山矢八中将の人脈には、竹敷要港部司令官・日高壮之丞(ひだか・そうのじょう)中将(鹿児島・慶應義塾・海兵二・参謀本部海軍部第二局第一課長・欧米差遣・大佐・海軍参謀部第二課長・装甲艦「金剛」艦長・コルベット「武蔵」艦長・装甲艦「龍驤」艦長・砲術練習所長・防護巡洋艦「橋立」艦長・海軍兵学校長・少将・常備艦隊司令官・中将・常備艦隊司令長官・男爵・功二級・大将・従三位・勲一等旭日桐花大綬章)がいた。
世間では、山本権兵衛中将系の人脈を本省派、柴山中将・日高中将系の人脈を艦隊派と称した。だが、終始、本省派が圧倒的に優勢で、その間は、海軍が大局を誤ることはなかった。
なお、山本中将と日高中将は、海軍兵学校二期の同期生で、個人的には仲が良く、友情は続いていたと、いわれている。だが、山本中将と柴山中将は、最後までうまくいかず、次のような話が残っている。
明治三十九年一月、山本権兵衛大将が第一次桂太郎内閣に殉じて海軍大臣を退任する時、当初、山本海軍大臣は、後任に柴山矢八大将を推す考えを持っていた。
元老・伊藤博文は、柴山大将を呼び、海軍大臣の抱負を問うた。すると柴山大将は、山本海軍大臣をボロクソにこきおろした。そして、「権兵衛時代の施政に大鉄槌を加える」と豪語した。
山本海軍大臣と信頼の情で結ばれていた元老・伊藤博文は、柴山大将の言葉を、そのまま山本海軍大臣に伝えた。
これを聞いて、烈火の如く怒った山本海軍大臣は、たちまち柴山海軍大臣を押すことを撤回し、斎藤実海軍次官を海軍大臣に昇格させることを決心したという。
だが、確かに薩摩閥は減少していったが、代わりに、山本権兵衛閥と言われるような人脈が形成されていき、それに反発、対抗する一派が生じたのである。
その反山本派の筆頭は、当時の常備艦隊司令長官・柴山矢八(しばやま・やはち)中将(鹿児島・米国留学・海軍中尉任官・武庫司出勤・大尉・砲兵科砲兵大隊副長・コルベット「浅間」乗組・コルベット「筑波」乗組・水雷練習所長・少佐・中佐・水雷局長・大佐・参謀本部海軍部第二局長・欧米各国派遣・艦政局次長・コルベット「筑波」艦長・防護巡洋艦「高千穂」艦長・海軍兵学校長・少将・佐世保鎮守府司令長官・中将・常備艦隊司令長官・海軍大学校長・呉鎮守府司令長官・旅順警備府司令長官・大将・男爵・正二位・旭日大綬章・功二級・フランス共和国レジオンドヌール勲章オフィシェ等)だった。
柴山矢八中将は、薩摩藩医の家に生まれ、山本権兵衛より二歳上で、海軍兵学寮に入校せず、開拓使派遣として二年間米国に留学して帰国後海軍中尉になった軍人である。
山本権兵衛中将ら革新派と、柴山矢八中将ら保守派の派閥争いがあったのである。山本中将と柴山中将は昔から何かにつけて対立し、「権兵衛が種まきゃ、矢八がほじくる」と戯れ歌まで生まれた。
明治三十二年一月、山本権兵衛海軍大臣は、自分に合わない柴山矢八中将を、常備艦隊司令長官からはずして、海軍大学校長にした。柴山中将は四十八歳だった。
そして横須賀鎮守府司令長官・鮫島員規(さめしま・かずのり)中将(鹿児島・戊辰戦争・維新後海軍少尉補・少尉・中尉・砲艦「鳳翔」乗組・大尉・砲艦「鳳翔」副長・装甲艦「比叡」副長・少佐・軍事部第三課長・参謀本部海軍部第一局第一課長・中佐・参謀本部海軍部次副官・大佐・参謀本部海軍部第二局長・装甲艦「金剛」艦長・防護巡洋艦「松島」艦長・常備艦隊参謀長・連合艦隊参謀長・少将・常備艦隊司令官・西海艦隊司令官・海軍大学校長・中将・横須賀鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・大将・男爵・正二位・勲一等旭日大綬章・功二級・エジプト王国オスマニア第四等勲章)を常備艦隊司令長官に就任させた。
鮫島員規中将は、やはり薩摩出身だが、五十三歳の温厚な人物で、柴山中将も、この人事に逆らうことはできなかった。だが、柴山中将の山本中将に対する敵愾心はいよいよつのった。
山本権兵衛海軍大臣時代の海軍内部は、山本権兵衛中将を頂点とする人脈と、柴山矢八中将を頂点とする人脈に分かれ、対立が続いていった。
明治三十三年当時、呉鎮守府司令長官・柴山矢八中将の人脈には、竹敷要港部司令官・日高壮之丞(ひだか・そうのじょう)中将(鹿児島・慶應義塾・海兵二・参謀本部海軍部第二局第一課長・欧米差遣・大佐・海軍参謀部第二課長・装甲艦「金剛」艦長・コルベット「武蔵」艦長・装甲艦「龍驤」艦長・砲術練習所長・防護巡洋艦「橋立」艦長・海軍兵学校長・少将・常備艦隊司令官・中将・常備艦隊司令長官・男爵・功二級・大将・従三位・勲一等旭日桐花大綬章)がいた。
世間では、山本権兵衛中将系の人脈を本省派、柴山中将・日高中将系の人脈を艦隊派と称した。だが、終始、本省派が圧倒的に優勢で、その間は、海軍が大局を誤ることはなかった。
なお、山本中将と日高中将は、海軍兵学校二期の同期生で、個人的には仲が良く、友情は続いていたと、いわれている。だが、山本中将と柴山中将は、最後までうまくいかず、次のような話が残っている。
明治三十九年一月、山本権兵衛大将が第一次桂太郎内閣に殉じて海軍大臣を退任する時、当初、山本海軍大臣は、後任に柴山矢八大将を推す考えを持っていた。
元老・伊藤博文は、柴山大将を呼び、海軍大臣の抱負を問うた。すると柴山大将は、山本海軍大臣をボロクソにこきおろした。そして、「権兵衛時代の施政に大鉄槌を加える」と豪語した。
山本海軍大臣と信頼の情で結ばれていた元老・伊藤博文は、柴山大将の言葉を、そのまま山本海軍大臣に伝えた。
これを聞いて、烈火の如く怒った山本海軍大臣は、たちまち柴山海軍大臣を押すことを撤回し、斎藤実海軍次官を海軍大臣に昇格させることを決心したという。