昭和十九年一月三十一日、板倉光馬少佐の指揮するイ四一潜はブーゲンビル島ブインに向けてラバウルを出港した。
敵のレーダー、大型哨戒機、機雷原、魚雷艇の攻撃などを、かわして、まさに紙一重、決死的ともいえる突撃で、イ四一潜はブインに着き、輸送品を降ろした。
すると、「艦長、艦長はおられませんか」と連絡参謀の岡本中佐が艦橋に駆け上がってきた。岡本中佐は板倉少佐の手を握り締めるなり、涙をボロボロ流し口もきけなかった。
板倉少佐は「輸送が成功して、よかった」と心から思った。そして、用意していたウイスキーと煙草の小包と一通の封書を岡本中佐に渡し、「鮫島長官にお渡しください」と言った。
封書には「八年前、長官を殴った一少尉が、潜水艦長としてブイン輸送の命を受けて参りました。往時を回想し感慨無量であります。小包の品は、私の寸志であります……」などと書かれていた。
イ四一潜は二回目の輸送も成功し、ブインに着いた。そのとき、板倉少佐は岡本参謀から鮫島長官からの封書と七本のパイプを受け取った。
封書には「決死の大任まことに御苦労……」と鮫島長官から感謝の文がかかれており、板倉少佐は読み進むうちに、涙を流した。
七本のパイプは、鮫島長官が、椰子の実で作ったものだった。このパイプには鮫島長官の万斛の思いが込められているように思われた。板倉少佐への深い愛情と、玉砕を期する最高指揮官としてのひそかな覚悟が、このパイプに託されたのだ。
そう思った板倉少佐は、このパイプを一本だけ自分のためにしまって、残りを艦の幹部に分けてやった。もし万一の場合、その中の一人でも内地に帰れたら、鮫島長官の形見としてご家族に渡せる。
時は流れ、戦後の昭和三十二年、板倉光馬氏は、海上幕僚監部に非常勤嘱託として勤務していた。そのとき、人づてに、鮫島具重中将が病床に伏していることを聞き、目黒の自宅に見舞った。
かつては華族に列し、顕職を極めながら、いまや脳溢血におかされ、手足の不自由はもとより、言語障害の体を、鮫島中将は、ひっそりと手狭な一間に横たえていた。
板倉氏は、横浜の軍事法廷で鮫島中将と再会して以来の対面だった。往年の面影は見る影もなかったが、懐旧の情はひとしおだった。
病床の鮫島中将は、不自由な体をよじるようにして、茶箪笥の上を指差した。そこには、サントリーの角瓶に白い山茶花が一輪活けられていた。付き添っていた夫人が次のように言った(要旨)。
「主人がブーゲンビル島から着の身着のままで帰りましたとき、サントリーの空き瓶を後生大事に抱え持っていましたので、その訳を尋ねましたら、『これは板倉艦長が命がけでブインに持って来てくれたものだ。これだけは手離せなかった』と申しました」。
その瞬間、鮫島中将の顔が微笑むのを見て、板倉氏はその場で、ワットばかり泣き伏した。自分を殴った一少尉の命乞いをしたばかりでなく、ささやかな贈り物を形見のように大事にする、その広大無辺な温情に、板倉氏は疼くように感激したのだ。
時は戻り、昭和十年十月、板倉少尉は、鮫島艦長の温情と計らいで、重巡洋艦「最上」から、重巡洋艦「青葉」に着任した。
重巡洋艦「青葉」の艦長、平岡粂一大佐は「わしの顔がわからなくなるほど、酒を飲むのではないぞ」と板倉少尉に釘をさした。
昭和十一年七月、後期の訓練が始まる直前に、連合艦隊が佐世保に集結した。板倉少尉が上陸して水交社に行くと、七、八名の級友がとぐろを巻いていた。
彼らは板倉少尉の顔を見ると、「いま、クラス会の相談をしていたところだ。貴様は遅れてきたから、幹事をやれ」と、否応なしに幹事を押し付け、“山”(万松楼)に繰り込むことになった。
予約なしに飛び込んだため、エスはおろか部屋もなかった。ようやく仲居を拝み倒して、行燈部屋のような薄暗い六畳に通された。
マグサとスルメで飲んでいるうちに、味気なくなったとみえて、「おい幹事、ババアエスでもいいから探して来い。なにをボヤボヤしとるか……」と級友たちが御託を並べ始めた。
仕方がないので、板倉少尉は廊下トンビのエスを口説いたり、大部屋をのぞいたが、ケンもホロロ、猫の仔一匹ありつけなかった。
敵のレーダー、大型哨戒機、機雷原、魚雷艇の攻撃などを、かわして、まさに紙一重、決死的ともいえる突撃で、イ四一潜はブインに着き、輸送品を降ろした。
すると、「艦長、艦長はおられませんか」と連絡参謀の岡本中佐が艦橋に駆け上がってきた。岡本中佐は板倉少佐の手を握り締めるなり、涙をボロボロ流し口もきけなかった。
板倉少佐は「輸送が成功して、よかった」と心から思った。そして、用意していたウイスキーと煙草の小包と一通の封書を岡本中佐に渡し、「鮫島長官にお渡しください」と言った。
封書には「八年前、長官を殴った一少尉が、潜水艦長としてブイン輸送の命を受けて参りました。往時を回想し感慨無量であります。小包の品は、私の寸志であります……」などと書かれていた。
イ四一潜は二回目の輸送も成功し、ブインに着いた。そのとき、板倉少佐は岡本参謀から鮫島長官からの封書と七本のパイプを受け取った。
封書には「決死の大任まことに御苦労……」と鮫島長官から感謝の文がかかれており、板倉少佐は読み進むうちに、涙を流した。
七本のパイプは、鮫島長官が、椰子の実で作ったものだった。このパイプには鮫島長官の万斛の思いが込められているように思われた。板倉少佐への深い愛情と、玉砕を期する最高指揮官としてのひそかな覚悟が、このパイプに託されたのだ。
そう思った板倉少佐は、このパイプを一本だけ自分のためにしまって、残りを艦の幹部に分けてやった。もし万一の場合、その中の一人でも内地に帰れたら、鮫島長官の形見としてご家族に渡せる。
時は流れ、戦後の昭和三十二年、板倉光馬氏は、海上幕僚監部に非常勤嘱託として勤務していた。そのとき、人づてに、鮫島具重中将が病床に伏していることを聞き、目黒の自宅に見舞った。
かつては華族に列し、顕職を極めながら、いまや脳溢血におかされ、手足の不自由はもとより、言語障害の体を、鮫島中将は、ひっそりと手狭な一間に横たえていた。
板倉氏は、横浜の軍事法廷で鮫島中将と再会して以来の対面だった。往年の面影は見る影もなかったが、懐旧の情はひとしおだった。
病床の鮫島中将は、不自由な体をよじるようにして、茶箪笥の上を指差した。そこには、サントリーの角瓶に白い山茶花が一輪活けられていた。付き添っていた夫人が次のように言った(要旨)。
「主人がブーゲンビル島から着の身着のままで帰りましたとき、サントリーの空き瓶を後生大事に抱え持っていましたので、その訳を尋ねましたら、『これは板倉艦長が命がけでブインに持って来てくれたものだ。これだけは手離せなかった』と申しました」。
その瞬間、鮫島中将の顔が微笑むのを見て、板倉氏はその場で、ワットばかり泣き伏した。自分を殴った一少尉の命乞いをしたばかりでなく、ささやかな贈り物を形見のように大事にする、その広大無辺な温情に、板倉氏は疼くように感激したのだ。
時は戻り、昭和十年十月、板倉少尉は、鮫島艦長の温情と計らいで、重巡洋艦「最上」から、重巡洋艦「青葉」に着任した。
重巡洋艦「青葉」の艦長、平岡粂一大佐は「わしの顔がわからなくなるほど、酒を飲むのではないぞ」と板倉少尉に釘をさした。
昭和十一年七月、後期の訓練が始まる直前に、連合艦隊が佐世保に集結した。板倉少尉が上陸して水交社に行くと、七、八名の級友がとぐろを巻いていた。
彼らは板倉少尉の顔を見ると、「いま、クラス会の相談をしていたところだ。貴様は遅れてきたから、幹事をやれ」と、否応なしに幹事を押し付け、“山”(万松楼)に繰り込むことになった。
予約なしに飛び込んだため、エスはおろか部屋もなかった。ようやく仲居を拝み倒して、行燈部屋のような薄暗い六畳に通された。
マグサとスルメで飲んでいるうちに、味気なくなったとみえて、「おい幹事、ババアエスでもいいから探して来い。なにをボヤボヤしとるか……」と級友たちが御託を並べ始めた。
仕方がないので、板倉少尉は廊下トンビのエスを口説いたり、大部屋をのぞいたが、ケンもホロロ、猫の仔一匹ありつけなかった。