陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

332.岡田啓介海軍大将(12)軍部の、しかも最高幹部が軍紀をみだすとは重大だ

2012年08月03日 | 岡田啓介海軍大将
 これについて、「岡田啓介回顧録」には次のように記されている。

 「加藤は、自分らの主張が通らない、というんで『腹を切る』などと口に出す。わたしも一応、そのそばにいるものに注意し、短気なことをさせぬよう気をくばっていたが、なあに切りやせんと思った。腹を切る、きる、といっているもので、あっさり切ったためしはないからね」。

 昭和五年四月一日、濱口首相が岡田大将、山梨次官、加藤軍令部長を呼び、回訓案の内容を説明し、「海軍の事情も十分説明を聴取し、これを参酌した上、このように致しました。これを閣議に諮り、決定しようと思うが領とされたい」と言った。

 岡田大将は「この回訓案によって閣議に上程せらるはやむを得ない。但し海軍は三大原則は捨てませぬ。海軍の事情は閣議の席上、次官をして十分述べしめられたい。閣議決定の上は、これに善処するよう努力する」と発言した。

 加藤軍令部長は「米国案のようでは、用兵作戦上、軍令部長として責任は取れません」と言明した。

 だが、四月一日午後一時、閣議は開かれ、全閣僚異議なく訓令案は閣議決定となった。午後三時、濱口首相は回訓案を上奏、御裁可を仰ぎ、午後五時、幣原外相は首相よりの通知により、在ロンドン全権宛てに回訓を発電した。

 四月二日、加藤軍令部長が岡田大将を訪問、「かくなりては軍令部長を辞職せざるべからず、予の男の立つ様考慮を乞う」と述べた。

 岡田大将は「辞職は止を得ざるべし。但しその時機が大切なり。時機については予に考慮せしめよ」と答えた。

 ところが、末次次長が黒潮会(海軍省記者クラブ)で不穏の文章を発表しようとして、海軍省の知るところとなり、未然に押さえた。

 濱口総理は末次次長を呼び出し、「既に回訓を出した今日、これに善処するよう努力ありたき」との旨を申し述べた。

 末次次長は直立不動の姿勢で、「先に不謹慎なる意見を発表したるは全く自己一個の所為にして甚だ悪かりし、自分は謹慎すべきなれども目下事務多端なれば毎日出勤し居れり、何卒可然御処分を乞ふ」と述べた。

 ところが、その後四月五日、貴族院議員会合の席上で、末次次長は再び不穏当な問答を行った。昭和クラブの会合に海軍省の許可なく出席し、秘密事項に触れ、不満を訴えたのだ。

 これを、議員の一人が筆記し諸方に配布したのだ。濱口首相は激怒し、岡田大将に末次次長に今後このようなことを起こさせないように注意されたい旨を伝えてきた。

 岡田大将は四月八日、伏見宮邸を訪問した際、玄関で加藤軍令部長に出会ったので「又末次失言したる由、此の如きは害のみありて何等益する所なし、将来部外に対しみだりに意見発表は慎む様次長に注意され度」と言った。

 加藤軍令部長は「実は困っている、皆によく注意し置きたるも遺憾なり、将来尚注意すべし」と答えた。

 岡田大将は午前十一時ころ海軍省に戻り、末次次長に面談し注意した。末次次長は「五日の事の如きは全く問い詰められて止むを得ず或処まで話をなしたれど、将来は他に発表せざるべし」と明言した。

 だが、政府は末次次長を処分しなければ収まらない状況になった。濱口総理も「現内閣は官紀を厳しくする方針を取っている。軍紀を厳にしなければならない軍部の、しかも最高幹部が軍紀をみだすとは重大だ。巡洋艦二隻よりこの問題のほうが大きい」といって怒った。

 岡田大将は加藤軍令部長に「末次を病気引入にするよう勧告しては」と相談した。

 ところが加藤軍令部長は「末次は自分の考えと同じ事を言っただけで、病気でもないものに引入を勧告することはできない」と断った。

 岡田大将は「そんなことを言っても末次の言葉は度を越えていた。この際末次を傷つけないように、事を小さく収めておくのがいいんじゃないか」言った。

 これに対し、加藤軍令部長は、しぶしぶ了承し、財部海軍大臣の帰朝後、末次信正中将を軍令部次長から退けることになった。