陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

656.山本権兵衛海軍大将(36)白石大尉は「一番乗りはこっちだ!」と叫び、そのイギリス士官を首投げで投げ飛ばした

2018年10月19日 | 山本権兵衛海軍大将
 明治三十三年四月、義和団の乱が起きた。清国を食い荒らす、ドイツ、ロシア、イギリス、フランスなど諸外国の非道と、清国政府の無力に憤激した清国人達が、「興清滅洋」を唱える義和団を先頭に立て、北京南西約一八〇キロの保定で、排外運動を勃発させた。

 彼らは、外国人とキリスト教徒を殺害し、教会、駅舎、商社などを焼き払った。保定以外の各地でも義和団が蜂起し、やがて各集団は北京に進撃を開始した。

 この状況から、六月二十一日、遂に清国政府は、各国に対して宣戦を布告した。

 だが、イギリス、ドイツ、アメリカ、イタリア、ロシア、オーストリア、日本の八か国連合軍が、清国軍と義和団を破り、八月十四日、北京を占領した。

 清国政府は、慶親王と李鴻章を全権大臣として、連合八か国と和議を進めるほかに、とる道はなくなった。これが、北清事変である。

 この北清事変中の六月十七日、衝撃的な事件が起きた。午前四時頃、イギリス、ドイツ、ロシア、日本の四か国連合陸戦隊は、天津東方の清国軍の大沽(ターク)西北砲台の正面に布陣して突入の機会をうかがっていた。

 前方は一面の塩田で、身を隠す場所もなく、進撃できなかったのだ。

 日本海軍陸戦隊二三〇人を指揮するのは、大隊長・服部雄吉(はっとり・ゆうきち)中佐(鹿児島・海兵一一期・防護巡洋艦「秋津洲」砲術長・日清戦争・中佐・義和団の乱で戦死・三十八歳)だった。

 大隊長・服部中佐は、他国の陸戦隊がひるんでいる中、意を決して、突撃ラッパを吹かせ、「突撃せよ」と指揮刀を振りかざして、飛び出した。

 清国軍の銃砲弾が飛来する中を、日本海軍陸戦隊は、服部中佐に続いて大沽西北砲台めざして、突進した。だが、砲台を目前にして、服部中佐は腹部に銃弾を受け、倒れた。周囲の兵士数人も倒れた。

 すかさず、先任の第一中隊長・白石葭江(しらいし・よしえ)大尉(東京・海兵二一・七番・砲術練習所・巡洋艦「高雄」乗組・スループ「天城」乗組・砲艦「鳥海」分隊長・大尉・北清事変で陸戦隊第一中隊長・佐世保海兵分隊長・部下を殴り死亡させる・軍法会議で十禁固二年・特赦・海軍大学校選科学生・装甲巡洋艦「浅間」分隊長として日露戦争出征・旅順港閉塞作戦で閉塞に使用する「佐倉丸」指揮官・旅順に上陸・重傷を負い戦病死)が代わって指揮をとった。

 日本海軍陸戦隊は午前五時頃砲台西門にとりつき、白石大尉は塁上によじ登り、敵数人を倒した。日本海軍陸戦隊が西門を突破した後、イギリス、ドイツ、ロシアの陸戦隊が続いた。

 砲台上に登った白石大尉は、日章旗を掲げようとしたが見当たらず、探していると、イギリスの士官がユニオンジャック(英国国旗)を砲台の旗竿に掲げようとしていた。

 それを見て怒った白石大尉は「一番乗りはこっちだ!」と叫び、そのイギリス士官を首投げで投げ飛ばした。

 その間に、第二中隊長・野崎小十郎(のざき・こじゅうろう)大尉(高知・海兵二一期・九番・海大五期・大尉・防護巡洋艦「笠置」乗組・北清事変で陸戦隊第二中隊長・コルベット「天龍」航海長・コルベット「葛城」航海長・海軍兵学校教官・常備艦隊参謀・日露戦争出征・第一艦隊参謀・第四艦隊参謀・少佐・南清艦隊参謀・横須賀鎮守府参謀・軍務局局員・中佐・戦艦「安芸」砲術長・砲術学校教官・横須賀鎮守府参謀・防護巡洋艦「新高」艦長・大佐・巡洋戦艦「生駒」艦長・巡洋戦艦「金剛」艦長・少将・臨時南洋群島防備艦隊司令官・退役後碑衾町長・玉川計器製作所監査役・従四位・勲二等・功五級)が、別の旗竿に日章旗を掲げた。

 重傷で後送された大隊長・服部雄吉中佐は、間もなく死亡した。西北砲台が落ちると、南北両砲台も間もなく落ち、日の出前に大沽砲台は全て連合軍が占領した。

 各国の指揮官は、日本陸戦隊の勇戦を称賛し、「白石大尉の勇敢な戦いぶりを、我々も模範としなければならない」と激賞する指揮官もいた。

 北清事変後、白石大尉は佐世保海兵分隊長になった。その分隊長時代に、白石大尉は、任務を怠っている部下を殴打し、その部下が死亡した。

 白石大尉は、軍法会議にかけられ、重禁固二年の判決を受けたが、特赦により、入獄することなく、待命となった。その半年後には、海軍大学校選科学生として、海軍に復帰した。