陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

326.岡田啓介海軍大将(6)イギリスの比率主義とアメリカの個艦規制主義が対立した

2012年06月22日 | 岡田啓介海軍大将
 昭和四年七月二日、田中内閣は張作霖暗殺事件について、天皇に虚偽の上奏をした責任をとって、総辞職した。

 岡田啓介大将も海軍大臣を辞した。同時に軍事参議官に補された。軍事参議院は、元帥府とともに軍最高の諮問機関だった。

 当時、世界情勢の流れは緊迫していた。ワシントン会議は一応成功を収めたが、その協定は海軍の主力艦(戦艦・空母)に関する制限規定だった。

 だが、補助艦(巡洋艦以下、駆逐艦、潜水艦等)については、協定はなかった。このため、ワシントン会議の後に来たものは、各国の補助艦の建艦競争だった。

 この情勢を憂慮したアメリカ大統領、クーリッジは、ワシントン会議で決定できなかった、艦種を主題とする第二次軍縮会議を招聘した。

 その結果、昭和二年六月二十日からスイスのジュネーブに、日、米、英三国の代表が集まり、いわゆる「ジュネーブ海軍軍縮会議」が始まった。

 だが、残念なことに、この会議は決裂した。イギリスの比率主義とアメリカの個艦規制主義が対立したからだ。両国の主張は最後まで平行線のままで、妥協することなく不成功に終わったのだ。

 その後、アメリカではフーバー大統領が登場し、イギリスは保守政権が退陣し、マクドナルド率いる労働党内閣が登場した。

 昭和四年十月、マクドナルド首相自らアメリカに赴き、米国首脳と会談した結果、昭和五年一月を期し、ロンドン会議を開催することになった。

 日本では昭和四年七月、田中義一内閣が退陣し、濱口雄幸(はまぐち・おさち・高知・東京帝国大学法学部卒・大蔵省・専売局長官・大蔵次官・衆議院議員・大蔵大臣・内務大臣・勲一等旭日桐花大綬章)が内閣を組閣した。

 ロンドン会議の首席全権は、濱口首相が若槻礼次郎(わかつき・れいじろう・島根・東京帝国大学法学部卒首席・大蔵省・主税局長・大蔵次官・大蔵大臣・内務大臣・首相・勲一等旭日桐花大綬章・男爵)を選んだ。

 また、全権には海軍大臣・財部彪大将、松平恒夫駐英大使(福島・東京帝国大学・外務次官・駐米大使・宮内大臣・参議院議長)、永井松三駐白(ベルギー)大使(愛知・東京帝国大学・外務次官・国際連盟日本代表・国際オリンピック委員会委員・貴族院勅撰議員・勲一等旭日大綬章)が選ばれた。

 海軍随員には次の六名が任命された。

 左近司政三中将(さこんじ・せいぞう・山形・海兵二八・海大一〇・英国駐在武官・戦艦長門艦長・軍務局長・練習艦隊司令官・海軍次官・中将・第三艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・北樺太石油社長・商工大臣・勅撰貴族院議員・国務大臣)。

 山本五十六大佐(新潟・海兵三二・海大一四・米国ハーバード大学・米国駐在武官・空母赤城艦長・第一航空戦隊司令官・航空本部長・海軍次官・連合艦隊司令長官・大将・戦死後元帥・勲一等加綬旭日大綬章・大勲位菊花大綬章・功一級金鵄勲章)。

 豊田貞次郎大佐(和歌山・海兵三三首席・海大一七首席・英国オックスフォード大学・英国駐在武官・戦艦山城艦長・軍務局長・佐世保鎮守府司令長官・航空本部長・海軍次官・大将・商工大臣・外務大臣・軍需大臣・貴族院議員・勲一等旭日大綬章)。

 中村亀三郎大佐(高知・海兵三三・海大一五・戦艦長門艦長・教育局長・練習艦隊司令官・軍令部第一部長・中将・海軍大学校長・佐世保鎮守府司令長官・勲一等旭日大綬章)。

 岩村清一大佐(東京・海兵三七・海大一九首席・英国駐在武官補佐官・戦艦扶桑艦長・横須賀鎮守府参謀長・艦政本部総務部長・中将・第二戦隊司令官・第二南遣艦隊司令長官・戦後日本事務能率協会理事長・勲一等旭日大綬章)。

 山口多聞中佐(東京・海兵四〇次席・海大24首席・米国プリンストン大学・米国駐在武官・戦艦伊勢艦長・第一連合航空隊司令官・第二航空戦隊司令官・中将・勲一等旭日大綬章・戦死後功一級金鵄勲章)。

 「岡田啓介」(岡田大将記録編纂会)によると、政府が若槻全権に与えた訓令は、次の「三大原則」だった。

 一、巡洋艦の比率を総トン数において、日本七、米国十の比率とする。二、大型巡洋艦において、右の比率とする。三、潜水艦については米国のトンに拘わらず、日本は七万八千トンを保有する。