「いつもの人を呼びますか?」。これは、海軍省に帰ってきた米内大臣を迎えたときの実松秘書官の決まり文句である。「いつもの人」というのは、山本五十六次官、井上成美軍務局長、それに軍令部の古賀峯一次長であった。
昭和十四年八月二十三日の朝、首相官邸で平沼麒一郎首相と板垣陸相が二人で三国同盟問題を相談しているところへ、寝耳に水の「ドイツ政府がソビエトと独ソ不可侵条約を締結した」という報告が入ってきた。
もともと三国同盟は、三年前に調印した日独防共協定を強化し、イタリアも加えた三国で、ソ連の脅威に対抗するというのを第一目的で交渉が進められてきた。その仮想敵国とドイツが手を結んだのだ。「ドイツに対する信義上」などと言っていた日本は、混乱に陥った。
八月二十八日、平沼首相は全閣僚の辞表をまとめて参内した。辞職理由発表の平沼談義の中には「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」という言葉があった。
この時、米内海相はドイツあるいはプロシアが、しばしば国際間の条約や信義を無視するのは古くから良く知られた事実で、今さら「複雑怪奇」と驚いてみても仕方が無いと思ったという。
米内海軍大臣は山本五十六次官(海兵三二・海大一四)と相談し、伏見宮博恭軍令部総長(ドイツ海軍兵学校・ドイツ海軍大学校卒)の意見も聞いて、山本次官と同期の吉田善吾中将(海兵三二・海大一三)を海軍大臣の後任に押した。
米内大臣には山本五十六という頼りになる次官がいた。だが吉田中将には、誰を持ってくるか、それが問題であった。山本は「吉田とは同期です。吉田のことは良く知っています。私を次官に残してください」と米内に言った。
米内は拒否した。山本五十六を次官にする位なら、海軍大臣にするつもりだった。陸軍は独ソ不可侵条約ですっかりくじけたように見えるが、いずれ日独伊三国同盟問題を再燃させてくるだろう。そのとき、山本五十六なら陸軍に太刀打ちできる。
だが、今はその時ではない。今、山本は暗殺の危険にさらされている。将来、山本は大臣として、また、首相として日本を救ってもらいたい。そのように米内は判断した。
米内は山本に言った。「随分君も苦労したね。少し太平洋上で新鮮な空気を吸ってきたらいい。ここは空気が悪いから」。山本は米内の気持ちが痛いほど分かった。
だが山本は「ご厚情は感謝します。ですが一身の利害得失より、海軍、日本を思えば~」とさらに次官留任を希望した。
それにもかかわらず、米内は、それを拒んで「俺にまかせろ」と、山本五十六を連合艦隊司令長官に出した。山本は、その後海軍大臣になることもなく、南の戦場に散ってしまった。
そのとき米内は、この時の人事をどのように思ったであろうか。では仮に山本が海軍大臣に就任していたら、真珠湾攻撃はどうなっていたか。戦史は、異なる様相が出てきたであろう。
近衛内閣時代の厚生大臣で平沼内閣の内務大臣であった木戸幸一は、米内光政を戦後次の様に評している。
「あの頃海軍に期待していたかっていうと、あまり期待していなかったね。あの人(米内)は実に立派なんだが、喧嘩をしない人なんだ。一応主張はするけど、それで相手がきかなきゃ、あいつは馬鹿だって顔でそのままにしちゃう」
「そういう点では政治家じゃなかった。立派な信頼の於ける人だったけど、そういう政治的熱意とか、自己の初心を貫徹するってことはない。軍人ならそれでいいだろう。下の者がやったことを俺が責任をとるんだ、てことで、済んじゃうんだろうが」
「だから現在の海軍力では戦争をしてもらっては困るということもはっきり言おうとしない。サイレント・ネイビーとかいって、海軍だけ守っていればいいということになってしまうんだね。国の前途とか国策ってものを考える政治的肌合いってものは、海軍にはないんだねえ」
昭和十四年八月三十日に平沼内閣の後を受けて内閣を組閣したのは、阿部信行予備役陸軍大将(陸士九・陸大一九)だった。
自分らで担ぎ出した総理大臣でありながら、「弱体内閣」として組閣後四ヶ月目には陸軍は倒閣運動を始めた。昭和十五年一月十五日、阿部内閣は総辞職した。
次期総理は、近衛担ぎ出しをやっていた、陸相・畑俊六陸軍大将(陸士一二・陸大二二)が本命らしいというので注目が集まった。畑陸相なら陸軍もまとまる状況ではあった。
ところが、その頃、「只今、侍従長の百武三郎大将(海兵一九・海大三)から、至急参内なさるよう、お召しの電話がありました」と米内光政に、こま夫人から電話があった。
昭和十四年八月二十三日の朝、首相官邸で平沼麒一郎首相と板垣陸相が二人で三国同盟問題を相談しているところへ、寝耳に水の「ドイツ政府がソビエトと独ソ不可侵条約を締結した」という報告が入ってきた。
もともと三国同盟は、三年前に調印した日独防共協定を強化し、イタリアも加えた三国で、ソ連の脅威に対抗するというのを第一目的で交渉が進められてきた。その仮想敵国とドイツが手を結んだのだ。「ドイツに対する信義上」などと言っていた日本は、混乱に陥った。
八月二十八日、平沼首相は全閣僚の辞表をまとめて参内した。辞職理由発表の平沼談義の中には「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」という言葉があった。
この時、米内海相はドイツあるいはプロシアが、しばしば国際間の条約や信義を無視するのは古くから良く知られた事実で、今さら「複雑怪奇」と驚いてみても仕方が無いと思ったという。
米内海軍大臣は山本五十六次官(海兵三二・海大一四)と相談し、伏見宮博恭軍令部総長(ドイツ海軍兵学校・ドイツ海軍大学校卒)の意見も聞いて、山本次官と同期の吉田善吾中将(海兵三二・海大一三)を海軍大臣の後任に押した。
米内大臣には山本五十六という頼りになる次官がいた。だが吉田中将には、誰を持ってくるか、それが問題であった。山本は「吉田とは同期です。吉田のことは良く知っています。私を次官に残してください」と米内に言った。
米内は拒否した。山本五十六を次官にする位なら、海軍大臣にするつもりだった。陸軍は独ソ不可侵条約ですっかりくじけたように見えるが、いずれ日独伊三国同盟問題を再燃させてくるだろう。そのとき、山本五十六なら陸軍に太刀打ちできる。
だが、今はその時ではない。今、山本は暗殺の危険にさらされている。将来、山本は大臣として、また、首相として日本を救ってもらいたい。そのように米内は判断した。
米内は山本に言った。「随分君も苦労したね。少し太平洋上で新鮮な空気を吸ってきたらいい。ここは空気が悪いから」。山本は米内の気持ちが痛いほど分かった。
だが山本は「ご厚情は感謝します。ですが一身の利害得失より、海軍、日本を思えば~」とさらに次官留任を希望した。
それにもかかわらず、米内は、それを拒んで「俺にまかせろ」と、山本五十六を連合艦隊司令長官に出した。山本は、その後海軍大臣になることもなく、南の戦場に散ってしまった。
そのとき米内は、この時の人事をどのように思ったであろうか。では仮に山本が海軍大臣に就任していたら、真珠湾攻撃はどうなっていたか。戦史は、異なる様相が出てきたであろう。
近衛内閣時代の厚生大臣で平沼内閣の内務大臣であった木戸幸一は、米内光政を戦後次の様に評している。
「あの頃海軍に期待していたかっていうと、あまり期待していなかったね。あの人(米内)は実に立派なんだが、喧嘩をしない人なんだ。一応主張はするけど、それで相手がきかなきゃ、あいつは馬鹿だって顔でそのままにしちゃう」
「そういう点では政治家じゃなかった。立派な信頼の於ける人だったけど、そういう政治的熱意とか、自己の初心を貫徹するってことはない。軍人ならそれでいいだろう。下の者がやったことを俺が責任をとるんだ、てことで、済んじゃうんだろうが」
「だから現在の海軍力では戦争をしてもらっては困るということもはっきり言おうとしない。サイレント・ネイビーとかいって、海軍だけ守っていればいいということになってしまうんだね。国の前途とか国策ってものを考える政治的肌合いってものは、海軍にはないんだねえ」
昭和十四年八月三十日に平沼内閣の後を受けて内閣を組閣したのは、阿部信行予備役陸軍大将(陸士九・陸大一九)だった。
自分らで担ぎ出した総理大臣でありながら、「弱体内閣」として組閣後四ヶ月目には陸軍は倒閣運動を始めた。昭和十五年一月十五日、阿部内閣は総辞職した。
次期総理は、近衛担ぎ出しをやっていた、陸相・畑俊六陸軍大将(陸士一二・陸大二二)が本命らしいというので注目が集まった。畑陸相なら陸軍もまとまる状況ではあった。
ところが、その頃、「只今、侍従長の百武三郎大将(海兵一九・海大三)から、至急参内なさるよう、お召しの電話がありました」と米内光政に、こま夫人から電話があった。