陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

170.米内光政海軍大将(10)あの人(米内)は実に立派なんだが、喧嘩をしない人なんだ

2009年06月26日 | 米内光政海軍大将
 「いつもの人を呼びますか?」。これは、海軍省に帰ってきた米内大臣を迎えたときの実松秘書官の決まり文句である。「いつもの人」というのは、山本五十六次官、井上成美軍務局長、それに軍令部の古賀峯一次長であった。

 昭和十四年八月二十三日の朝、首相官邸で平沼麒一郎首相と板垣陸相が二人で三国同盟問題を相談しているところへ、寝耳に水の「ドイツ政府がソビエトと独ソ不可侵条約を締結した」という報告が入ってきた。

 もともと三国同盟は、三年前に調印した日独防共協定を強化し、イタリアも加えた三国で、ソ連の脅威に対抗するというのを第一目的で交渉が進められてきた。その仮想敵国とドイツが手を結んだのだ。「ドイツに対する信義上」などと言っていた日本は、混乱に陥った。

 八月二十八日、平沼首相は全閣僚の辞表をまとめて参内した。辞職理由発表の平沼談義の中には「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」という言葉があった。

 この時、米内海相はドイツあるいはプロシアが、しばしば国際間の条約や信義を無視するのは古くから良く知られた事実で、今さら「複雑怪奇」と驚いてみても仕方が無いと思ったという。

 米内海軍大臣は山本五十六次官(海兵三二・海大一四)と相談し、伏見宮博恭軍令部総長(ドイツ海軍兵学校・ドイツ海軍大学校卒)の意見も聞いて、山本次官と同期の吉田善吾中将(海兵三二・海大一三)を海軍大臣の後任に押した。

 米内大臣には山本五十六という頼りになる次官がいた。だが吉田中将には、誰を持ってくるか、それが問題であった。山本は「吉田とは同期です。吉田のことは良く知っています。私を次官に残してください」と米内に言った。

 米内は拒否した。山本五十六を次官にする位なら、海軍大臣にするつもりだった。陸軍は独ソ不可侵条約ですっかりくじけたように見えるが、いずれ日独伊三国同盟問題を再燃させてくるだろう。そのとき、山本五十六なら陸軍に太刀打ちできる。

 だが、今はその時ではない。今、山本は暗殺の危険にさらされている。将来、山本は大臣として、また、首相として日本を救ってもらいたい。そのように米内は判断した。

 米内は山本に言った。「随分君も苦労したね。少し太平洋上で新鮮な空気を吸ってきたらいい。ここは空気が悪いから」。山本は米内の気持ちが痛いほど分かった。

 だが山本は「ご厚情は感謝します。ですが一身の利害得失より、海軍、日本を思えば~」とさらに次官留任を希望した。

 それにもかかわらず、米内は、それを拒んで「俺にまかせろ」と、山本五十六を連合艦隊司令長官に出した。山本は、その後海軍大臣になることもなく、南の戦場に散ってしまった。

 そのとき米内は、この時の人事をどのように思ったであろうか。では仮に山本が海軍大臣に就任していたら、真珠湾攻撃はどうなっていたか。戦史は、異なる様相が出てきたであろう。

 近衛内閣時代の厚生大臣で平沼内閣の内務大臣であった木戸幸一は、米内光政を戦後次の様に評している。

 「あの頃海軍に期待していたかっていうと、あまり期待していなかったね。あの人(米内)は実に立派なんだが、喧嘩をしない人なんだ。一応主張はするけど、それで相手がきかなきゃ、あいつは馬鹿だって顔でそのままにしちゃう」

 「そういう点では政治家じゃなかった。立派な信頼の於ける人だったけど、そういう政治的熱意とか、自己の初心を貫徹するってことはない。軍人ならそれでいいだろう。下の者がやったことを俺が責任をとるんだ、てことで、済んじゃうんだろうが」

 「だから現在の海軍力では戦争をしてもらっては困るということもはっきり言おうとしない。サイレント・ネイビーとかいって、海軍だけ守っていればいいということになってしまうんだね。国の前途とか国策ってものを考える政治的肌合いってものは、海軍にはないんだねえ」

 昭和十四年八月三十日に平沼内閣の後を受けて内閣を組閣したのは、阿部信行予備役陸軍大将(陸士九・陸大一九)だった。

 自分らで担ぎ出した総理大臣でありながら、「弱体内閣」として組閣後四ヶ月目には陸軍は倒閣運動を始めた。昭和十五年一月十五日、阿部内閣は総辞職した。

 次期総理は、近衛担ぎ出しをやっていた、陸相・畑俊六陸軍大将(陸士一二・陸大二二)が本命らしいというので注目が集まった。畑陸相なら陸軍もまとまる状況ではあった。

 ところが、その頃、「只今、侍従長の百武三郎大将(海兵一九・海大三)から、至急参内なさるよう、お召しの電話がありました」と米内光政に、こま夫人から電話があった。

169.米内光政海軍大将(9) 板垣征四郎はどこの国の陸軍大臣だったんだろう

2009年06月19日 | 米内光政海軍大将
 送別会で、外務省の連中と乱闘が起こりそうな気配になったので、吉田中佐が「おい、貴様、もう帰ろう、帰ろう」と無理やり短剣を渡して大井少佐を外に連れ出した。

 軍令部の大井少佐だけでなく、米内、山本、井上に仕える官房の副官、秘書官たちにとってはイタリア大使・白鳥敏夫とドイツ大使・大島浩の策動ぶりは目にあまり、腹に据えかねるものがあった。

 同じイタリア駐在の軍務局長・井上成美少将(海兵三七次席・海大二二)などは見方がずいぶん違っていて、「イタ公」というような言葉まで使ってきつい批判をしていた。独伊と軍事同盟を結んで、その結果アメリカと戦争になったら誰が責任をとるのかと思っていた。

 ドイツは三国同盟に態度をはっきりしない日本に苛立っていた。その日本では、海軍が反対するので、事が進まない。それで陸軍は海軍に苛立っていた。

 昭和十四年八月八日に開かれた五相会議で、板垣征四郎陸軍大臣(陸士一六・陸大二八)が「これは軍の総意である。もはや無留保の同盟を締結すべき時が来た。これ以上の遷延は、ドイツに対する信義上も許されない」と発言した。

 板垣陸相は、総理も海軍大臣も留保条件なしで同盟の条約を結ぶ気があるのか。無いというなら、席を蹴って立ちそうな気配だった。

 そのとき、石渡荘太郎蔵相が「この同盟を結ぶ以上、日独伊三国が英仏米ソの四国を相手に戦争をする場合のあることを考えねばなりませんが。その際戦争は八割まで海軍によって戦われると思います。ついては、我々の腹を決める上に、海軍大臣のご意見を聞きたいが、日独伊の海軍が英仏米ソの海軍と戦って、我に勝算がありますか?」と米内海軍大臣に尋ねた。

 日頃口下手の米内海軍大臣が、この時、はっきりと答えた。「勝てる見込みはありません。大体日本の海軍は、米英を向うに回して戦争するように建造されておりません。独伊の海軍にいたっては問題になりません」

 「一軍人の生涯」(緒方竹虎・文藝春秋新社)によると、この米内海軍大臣の発言を知った、陸軍の息のかかった暴力右翼は、ここぞとばかり連日海軍省に暴れ込み、「米、英と戦争のできない海軍なら止めてしまえ。お前は人形か」と怒鳴り散らした。

 海軍が憲兵の向うを張るため、陸戦隊を上陸させたという噂が立った。だが事実は、五・一五事件後、万一を慮って、時の軍務局第一課長・井上成美大佐が、横須賀から取り寄せていた装甲自動車を「軍事普及用」として市内を巡回させたのだった。

 それが陸戦隊上陸の噂になったのだ。ともかく空気は極度に険悪で。いやがる山本五十六次官にも、一時は警視庁の護衛を付けることになった。

 陸軍は非常に不満であった。板垣陸相は軍務局長・町尻量基少将(陸士二一・陸大二九恩賜)をドイツ大使館、イタリア大使館に派遣して、オットー大使、アウリッチ大使に口上書を手渡した。

 口上書の冒頭は「陸軍ハ八月八日、五相会議ニオイテ、同盟ノタメ奮闘セルモ」となっていた。のちにこの文章を読んで「板垣征四郎はどこの国の陸軍大臣だったんだろう」と言った人がいたそうである。

 「米内光政」(実松譲・光人社NF文庫)によると、著者の実松譲(海兵五一・海大三四)は当時中佐で、米内海軍大臣の秘書官だった。

 当時、米内大臣や山本次官に面会を求めて、三国軍事同盟締結をなんとかして強行しようとする陸軍の注射を受けたと思われる右翼が、陳情と称して海軍省へ押しかけてきた。

 彼らはそのほとんどが、大臣や次官に面会を強要し、異口同音に日本精神を説き、八紘一宇の天業とかいうものを強調し、独伊を礼賛して、三国同盟の即時締結を主張した。さらに、海軍の弱腰を責め、親英米主義を非難した。

 実松秘書官は、こういう連中を、いちいちまともに相手にしていたのではこちらがたまらない。そこで、同僚の入江秘書官と話し合い、彼らを追っ払う秘策として「のれんに腕押し」の戦法で、相手にしないことにした。

 そのころ、五相会議は、いつも首相官邸で開かれていた。会議が終わると、首相官邸の生き字引、といわれていた柳田氏から電話連絡がある。「ただいま海軍大臣はお帰りになりました」。

 永田町の総理大臣官邸から、霞ヶ関の海軍省まで、自動車だと五分もかからない。実松秘書官はドアをあけて、米内海軍大臣の帰りを待つのだった。

 米内海軍大臣の唇には特徴があった。いくらか右のほうが下がっている。「唇はものを言う」のであろうか、米内大臣の口元に注意すると、その日の会議の空気がだいたい想像できた。

 今日はかなり激しい議論があったな、と思われる時には、唇の右が思い切り下がり、白い頬がほんのり桜色になっていたという。

168.米内光政海軍大将(8) 「なにい。貴様、なにをいうか」。陸軍少佐のくせに、海軍の大佐に向って

2009年06月12日 | 米内光政海軍大将
 昭和十二年十月、「蒙古連盟自治政府」が、十二月十四日、「中華民国臨時政府」が誕生した。「激流の孤舟」(豊田穣・講談社)によると、そこで、蒋介石との交渉を打ち切る動きが上層部に出てきた。

 陸軍参謀本部第一部第一班は蒋介石との交渉継続を主張するため、「支那事変処理根本方針」案を作製して、御前会議で可否を決定することを提議した。

 昭和十二年十二月三十日午後、陸軍参謀本部の堀場一雄陸軍少佐(陸士三四・陸大四二恩賜)は、外務省で、東亜局長・石射猪太郎、陸軍省軍務局軍務課長・柴山兼四郎陸軍大佐(陸士二四・陸大三四)、海軍省軍務局第一課長・保科善四郎海軍大佐(海兵四一・海大二三恩賜)の三人と会合した。

 ところが、御前会議開催のことで、激論になった。保科海軍大佐は「なぜ、御前会議まで開く必要があるのか。すでに事変処理の方針は、第七十二議会で支那に反省を促す天皇の御詔書で明らかにされているではないか」とスジ論を述べた。御前会議は日露戦争以来開かれていなかった。

 すると堀場陸軍少佐は「いや、依然として不明確であります。戦果による欲望の増長によって和平条件が変化するやに見える一点からもそれは明らかであります。このままでは、戦争終結などは望むべくもありません」と石原莞爾(陸士二一・陸大三〇恩賜)仕込みの論法で一歩もひかぬ勢いで反発した。

 保科海軍大佐は海軍のエリートで、温厚なタイプだが、堀場陸軍少佐の態度に、むっときて、反論し、激しい応酬になった。柴山陸軍大佐も時々堀場陸軍少佐に助け舟を出すが、拡大反対派の石射局長もその場の雰囲気に当惑した。

 やがて、柴山陸軍大佐が所要で中座すると、保科海軍大佐も「ちょっと要務があるので本日は失礼する」と立ち上がり、帰ろうとした。

 すると怒った堀場陸軍少佐は「保科課長! 要務とは何ですか。これほどの国家の重大事を後回しにしてよいほどの要務がほかにあるのですか。お待ちください!」と叫んだ。

 「なにい。貴様、なにをいうか」。陸軍少佐のくせに、海軍の大佐に向って~、と保科海軍大佐は顔色を変えて、短剣に左手をかけた。

 堀場陸軍少佐も身構え、拳をつくり、全身に気合をこめた。さすがに保科海軍大佐は短剣を抜かなかったが、その後も二人は激論を続けた。その結果、保科海軍大佐はやっと御前会議開催に同意した。

 昭和十三年一月十一日の御前会議で和戦両様の「支那事変処理根本方針」が決定された。

 「米内光政」(阿川弘之・新潮文庫)によると、昭和十四年、日独伊三国同盟論議が盛んだった。軍令部三部八課(対英国情報)課長・西田正雄大佐(海兵四四3番・海大二六次席)は二年間の英国大使館付補佐官としてロンドン滞在の英国通だったが、英国滞在が長かったため返ってイギリス嫌いになった人だった。

 三部八課部員の大井篤少佐(海兵五一・海大三四)は、英国には遠洋航海の指導官で立ち寄っただけだが、日本が英米を敵にまわして戦うとどうなるか知っていた。大井少佐は米国ヴァージニア大学ノースウエスタン大学で学んでいて、米国通であった。

 その大井少佐と英国嫌いの西田課長は、よく議論した。興奮してくると、よく立ち上がって卓を叩いて議論した。アシスタントの吉田俊雄大尉(海兵五九)が「すごかったですねえ。課長相手にあそこまで食ってかかっていいんですか」と、あとで言ったりした。

 その頃、ドイツ帰りの牛場信彦ら、三国同盟に熱を上げる若い外務事務官十数人が周囲を扇動し「ぜひ白鳥敏夫を外務大臣に」と運動していた。

 白鳥は当時豪傑肌の革新外交官で、若手に人気があり、駐伊大使であった。有田八郎外相は省内の枢軸派に突き上げられ、孤立していた。

 ある日牛場信彦らのリーダー格の外交官がドイツ転勤の送別会が柳橋の料亭で開かれることになり、情報交換のため、海軍側から大井少佐と吉田栄三中佐(海兵五〇・海大三二)が出席した。

 最初のうちはあたらずさわらずの話題で和やかに飲んでいたが、やがて酔いがまわるにつれ、大井少佐のまわりには誰もいなくなり、外務省の中堅若手が向うで車座になり、歌を歌い出した。「上総が生める快男児 姓は白鳥名は敏夫」と手拍子たたいてやっている。

 大井少佐は白鳥大使の影響力の強さに驚くとともに、ムカムカと不愉快になってきて「あんたたち、それで国士のつもりか。白鳥さんが何だ」と食ってかかった。

 すると「何を」と、外務省の中堅若手連中も歌をやめて総立ちになり、「君のようなのがいるから海軍は腰抜けと言われるんだ」と叫んだ。

167.米内光政海軍大将(7) 君はなんだ、こんなところでそんなことを言っていいのか

2009年06月05日 | 米内光政海軍大将
 一方、当時陸軍は議会政治そのものに、もはや見切りをつけていた。国防予算の審議でも真面目に答弁する気はなかった。

 海軍省軍務局長・豊田副武中将(海兵三三・海大一五)は「けだもの」とか「馬糞」とかいって陸軍のやり方を極端に毛嫌いしていた。作家の志賀直哉も陸軍批判の文章を中央公論なんかに発表している。

 陸軍の評判が悪いだけ、高くなったのが海軍の評判で、当時の重臣も海軍には「敬服」しているとの声も聞こえてきた。だが、陸軍参謀本部の中堅幕僚にしてみれば、重臣が敬服するような海軍の態度が面白くなかった。

 少し海軍に活を入れてやろうという魂胆か、陸軍の息のかかった壮士の羽織袴が、海軍省構内にちょいちょい見られるようになった。

 「米内海軍大臣閣下に会ってぜひとも申し上げたいことがある。取次ぎなさい」。

 当時、大臣副官の松永敬介少佐(海兵五〇・海大三二)が押しかけてくる彼ら壮士を適当にあしらってお引取り願ったら、

 「青二才の青年副官に追い返された」と厳重な抗議文が届くこともあった。

 昭和十二年六月四日、第一次近衛文麿内閣が成立した。主な閣僚は外相・廣田弘毅、蔵相・賀屋興宣、陸相・杉山元、海相・米内光政だった。

 米内は西園寺の私設秘書の原田熊雄に憤慨して言った。

 「どうも今回の組閣においても、陸軍の中枢どころ(武藤章、佐藤賢了など)が何か裏で工作して閣僚に注文をつけるのは実にけしからん」。

 四十七歳の近衛は藤原鎌足四十六代目の当主の公爵で、当時、貴公子と呼ばれていた。一高、東大、京大を出て、貴族院議員、同議長をつとめ、軍部にも、官僚にも好感を持たれていた。

 政党人や官僚は、近衛ならある程度陸軍を抑えられるだろうと期待していた。ところが陸軍は、近衛も天皇と同じように、表面は立てて、裏面では利用して、陸軍の操り人形にしようとしていた。

 近衛は首相の座と名誉に色気を持っていたため、八方美人に振舞っており、テロをひどく恐れ、陸軍の気を悪くさせまいとした。陸軍はそこにつけこんだのである。

 「米内光政」(高宮太平・時事通信社)によると、昭和十二年七月に盧溝橋事件が起きて日華事変の引き金となったが、第一次近衛内閣の、ある日の閣議のことである。

 拓務大臣・大谷尊由が「陸軍は一体どの線まで進出しようとするのか、それが分からなければ政府としては拱手傍観するばかりであるが~」と杉山元陸軍大臣(陸士一二・陸大二二)にたずねたが、杉山大臣は黙って答えない。

 見かねた米内海軍大臣が「氷定河と保定との線で停止することに内定している」と答えた。

 すると今まで沈黙を守っていた杉山陸軍大臣が「君はなんだ、こんなところでそんなことを言っていいのか」と怒鳴った、顔を真っ赤にして。

 米内海軍大臣はキット杉山陸軍大臣の顔を見返して苦笑するのみであった。

 杉山陸軍大臣は、統帥事項について閣議などで話すべきものではないと考えていた。こういうような考え方を是正することは、明治憲法に統帥権の独立を許している時代では不可能に近かった。政治と統帥が二本立てになっていたのである。

 二本立てになっていたのでは中国との戦争はできないと思った近衛文麿首相は大本営の設置を提案した。大本営はできたが、国務と統帥の対立は解消できなかった。

 「一軍人の生涯」(緒方竹虎・文藝春秋新社)によると、そこで近衛首相は有力者を集めて戦時国策審議会である内閣参議制の設置を考えた。

 この参議の顔ぶれを揃えるに当たり、海軍からは末次信正海軍大将を採ることを考えた。近衛首相は、予め米内海軍大臣に謀ることなく、直接、末次信正大将海軍大将に交渉した。その後、近衛首相は米内海軍大臣に相談した。

 近衛首相が米内海軍大臣に対して、「海軍からは安保清種予備役大将と末次信正大将を採りたい」と相談すると、米内海軍大臣は即座に了承した。

 そして米内海軍大臣は付け加えて「末次大将が参議になる以上、予備役編入を奏請する。海軍としては、海軍大臣以外次官といえども、政治面に携わることは、容されない。況や無任所大臣にも似た参議に就任する以上、当然の処置として予備にする以外ありません」と言った。

 近衛総理はびっくりした。近衛総理は、末次は現役のままで参議になってもらえると思っていたので、予期しないことだった。

 近衛総理が「それでは海軍がお困りではありませんか」と米内海軍大臣に念を押すと、「少しも困りません」というので、取り付く島も無かった。すでに末次に内諾を得ているので、どうすることもできなかった。

166.米内光政海軍大将(6) 三味線を置くなり、「負けました」と言ってぼろぼろ涙を流して悔しがった

2009年05月29日 | 米内光政海軍大将
 米内長官は、酒は強かった。一度、「米内長官のお相手をして酔っ払わせた者に褒美を出す」と言い出した人があり、照葉という芸者が「あたし受けましょう」と買って出た。

 「照葉姐さん、いくら飲んでもきちんとしているから、一緒のお座敷だとけむったい」と若い妓に言われていた位で、自信があった。米内長官と長時間差しつ差されつ、盃を重ねているうちに、照葉はついに参って米内長官の膝を枕に寝込んでしまった。

 もう一人強いのがいた。久奴という芸者で、彼女も米内長官に挑戦した。だが、しまいにはバチが持てなくなって、三味線を置くなり、「負けました」と言ってぼろぼろ涙を流して悔しがった。

 米内長官は「俺も酔ったよ。酔った」などと言ったが、実際はそれほど酔ってはいなかった。

 昭和十一年十一月二十五日、日独防共協定が締結された。だが、これが海軍省や外務省が懸念したとおり、やがて米英をも敵とする日独伊三国同盟に変身し、日中戦争とともに、太平洋戦争の要因になる。

 米内長官は日独防共協定に、「特定の国と結び、特定の国を敵視するのはいけない」と反対していた。

 だが、井上成美参謀長や練習艦隊司令官・吉田善吾中将らは、当時次の様な認識だった。

 「コミンテルンはすでに日本、ドイツを赤化の対象としている。中国における共産主義活動は活発化していて、脅威である。日本が国際的に孤立しないためには、日独防共協定を結んだほうが良い」

 だが、後に、井上、吉田も、米内とともに日独伊三国同盟締結阻止に命を賭けるのだが、米内のほうが、井上、吉田より、将来を深く洞察していたということになる。

 昭和十一年十二月三十一日、ワシントン条約とロンドン条約は期限満了となり、以後遂に世界は不穏な軍備無制限時代に突入した。

 日本帝国海軍の艦隊派と陸軍は、鎖をはずされた犬のように歓喜した。だが、日本は、皮肉なことに、日独防共協定締結と、海軍軍縮条約破棄によって、国際的孤立にはまりこんでしまった。

 昭和十一年の晩秋、寺島健海軍中将(海兵三一恩賜・海大一二)が米内長官を訪ねてきた。寺島中将は二年前、伏見宮軍令部総長(海兵退校・ドイツ海軍兵学校卒・ドイツ海軍大学校卒)と大角峯生大将(海兵二四恩賜・海大五)によって予備役に追放され、浦賀ドック社長に就任していた。

 寺島は米内に、永野の次の海軍大臣には米内が予定されていると知らせに来た。情報の出所は、寺島と兵学校同期の長谷川清海軍次官(海兵三一恩賜・海大一二次席)だった。

 翌日米内長官は井上参謀長に、それを洩らした。井上参謀長はいい顔をしなかった。「あなたは受ける気ですか」。米内は「いやだと言っておいたよ」と答えた。

 すると井上参謀長は「あなたは、今後、連合艦隊司令長官に出なければなりません。議会で議員どもから、くだらない質問でいじめつけられるよりは、連合艦隊司令長官になって、陸奥(当時の連合艦隊旗艦)の艦橋で三軍を叱咤しなさい。あとできっと、連合艦隊長官になってよかったとおっしゃるようになりますよ」と言った。

 そのあと、井上参謀長は「議会におけるあなたの大臣姿など、見ておれません」と付け加えた。

 米内長官は、一言、「やらないよ」と同意した。

 それからまもなくの十二月一日、米内光政は兵学校同期の高橋三吉大将のあとを受け、海軍中将のまま、連合艦隊司令長官に補された。

 連合艦隊司令長官は、海軍大臣、軍令部総長とならび、海軍士官最高位のポストで、海軍士官にとっては最も魅力ある職務だった。

 だが、山本五十六次官と軍務局第一課長・保科善四郎大佐らの要請により、昭和十二年二月二日、米内光政海軍中将は林銑十郎内閣の海軍大臣に就任した。五十七歳だった。

 四月、米内は海軍大将に昇進した。米内は大臣官邸でも、読書と思索にふけり、書道の稽古にも余念がなかった。国会が始まる前には、国会答弁の虎の巻ともいうべき、一問一答を海軍省の大臣官房調査課で準備する。

 これは、問題になりそうなところは必要な数字から台詞まで備えた膨大なものだった。米内はこれを熱心に勉強したので、いつも見事な答弁ができた。

 ところがある日、海軍大臣とは直接関係のないことを、赤字決算委員会から米内に対して答弁を要求してきた。こうした質問に対する答えは、例の一問一答の中にはなかった。

 質問は統制経済に関することだったが、米内は佐官時代にヨーロッパに勤務していた当時に見聞した第一次大戦の戦中、戦後の状況から説き起こし。あざやかに答弁した。

165.米内光政海軍大将(5) 『おまえ、日令読んだか』と参謀長を怒鳴りつけるところも見ました

2009年05月22日 | 米内光政海軍大将
 昭和九年十一月の異動で、米内中将は第二艦隊司令長官に就任した。米内中将は十一月十七日、横須賀在泊中の第二艦隊旗艦鳥海に着任した。

 「米内光政」(阿川弘之・新潮文庫)によると、幕僚室で、首席参謀・石川信吾中佐(海兵四二・海大二五)が軍縮問題や海軍のあり方について熱っぽい議論をするのを、米内司令長官は「うん、うん」と聞いている。

 米内司令長官は、政治的見解は石川中佐と正反対らしいが、言下に反論したり決め付けたりは決してしない。何か言う時は、おやじが息子をさとすような調子で「君たち、日本の兵隊は強いと思っているだろうが、日露戦争中の例から見ると、ほんとうは意外に弱いよ」というようなことを、ぽつんと言った。

 米内司令長官は、暑くても暑いといわず、寒くても寒いといわない。頑固なのか、我慢強いのか、それとも感覚がないのか、常人ではとうていできない芸当であった。

 酒は好んで飲むという風には見えないが、注げばいくらでも飲んで辞退せず、始終、形をくずさないのが不思議であった。

 食物も別にやかましいことはなかったが、特に豆腐は大好物であった。あるとき、上海の出の宴会で、米内司令長官は主賓で、豆腐の田楽をぺろりと平らげてしまった。

 空になった米内司令長官の皿を取り替えて、豆腐の田楽を出すと、また平らげる。次から次に、豆腐の田楽を平らげて、七、八人分は食べたという。

 昭和十年十二月二日付で、米内中将は横須賀鎮守府司令長官に補された。参謀長は井上成美少将(海兵三七恩賜・海大二二)である。翌年の昭和十一年二月二十六日、二・二六事件が勃発した。

 「昭和の名将と愚将」(半藤一利・保坂安正康・文芸春秋)によると、二・二六事件が勃発した時、米内司令長官は、築地の芸者のところにいて、横須賀にはいなかったという。

 事件の一報を聞いたのは、井上参謀長で、当の米内司令長官は、次の朝、連絡を受けて、あわてて横須賀線の一番列車で帰った。カミソリと言われた井上参謀長が万事心得ていて、あたかも米内長官が横須賀にいるように振舞って、事なきを得た。

 朝九時頃のんびり鎮守府に現れた米内司令長官を見て、事情を知らない者達は、大きな事件が起きているのに動じない、器の大きな人だと感心したという話もある。後に大臣と次官で名コンビと言われた米内、井上の二人の関係は、この頃から確立されていた。

 「米内光政」(阿川弘之・新潮文庫)によると、横須賀鎮守府では、事件に対する長官の訓示を行うことになった。起案するのは先任参謀の役目だが、先任参謀・山口次平中佐(海兵四一)も副官らも、陸軍の決起部隊を、一体何と呼んでいいか見当がつかずにいた。

 その時、米内長官は一言、「叛乱軍」と、少しもためらわずに言った。

 そして「今回の叛乱軍の行動は、絶対に許すべからずものだ。横鎮管下各部隊の所轄長を参集させろ。それまでに、これを印刷に付しておくように」と自分で書いた訓示を副官・阿金一夫大尉(海兵五二・海大三六)に渡した。これで横須賀における海軍部隊の動揺は完全に抑えられた。

 副官の阿金大尉は横須賀鎮守府で永野修身、末次信正、米内光政、百武源吾の四代の長官に仕えた。阿金大尉は歴代の司令長官や参謀長の感想を次の様に述べている。

 「まあ、一番やかましかったのが末次さんで、自動車の中で『おまえ、日令読んだか』と参謀長を怒鳴りつけるところも見ました。また、昔、第一水雷戦隊司令官当時、艦長に白墨投げつけたのも見ています」

 「そのあとの井上成美参謀長は、これまたさわったら切れそうな、剃刀みたいな感じで、ものを言いに行くのがこわかったですが、長官の米内さんときたら、二・二六事件のようなことでもなければ、普段はまことに穏やかな、いつもにこにこしていて、慈眼衆生を見る仏様の如き長官でしたな」

 だが、米内司令長官は、締めるところは締めていた。近く首になる某大佐が、「葉隠」に関する所見を書いて、印刷の上隷下に配布したいと申し出た。

 井上成美参謀長が「所轄長かぎり参考として閲読させるならよろしいと思います」と意見を付して米内長官に廻した。ところが米内長官は読後、「葉隠は自殺奨励だよ。危険だからいけない」と返したという。

 横須賀で少将、中将級の海軍の宴会といえば、たいてい「小松」が使われた。米内長官もよくやってきた。米内長官は、酒は強かった。米内長官と双璧の美丈夫、横須賀工廠長の古市龍雄少将など、あだ名を「浅草紙」といい、酔うとくしゃくしゃになってしまうが、米内長官は少しも崩れなかった。

164.米内光政海軍大将(4) 以後米内と末次は、会っても口もきかない犬猿の仲になった

2009年05月15日 | 米内光政海軍大将
 演習を展開中は、演習の想定や構成などが、司令部から信号で伝えられる。その内容について疑義があったのか、米内艦長は、司令部の先任参謀に信号でただした。

 先任参謀は、司令部の威信にこだわったのか、米内の意見をいれて命令を改めることをせず、こじつけがましい返事をした。

 すると米内艦長は、いつもの沈黙を破って、少々度が過ぎると思われるほど自説を主張してゆずらなかった。はたにいた候補生は、こうした艦長の態度を、けげんな顔をしてみつめていた。

 やがて、演習は終わった。米内艦長は、候補生を集めて次の様に訓示した。

 「諸君は将来、艦長や幕僚になるのであるが、陛下からおあずかりした艦の保安については万全を期さねばならぬ。艦の運動については、けっしてあいまいなことは許されない」

 実松と兵学校同期の正木生虎候補生(後、海軍大佐、戦後、司馬遼太郎の『坂の上の雲』の先生)が「死」の問題で悩んでいた。自分の死だけでなく、部下の死にも直面する指揮官たるものの苦悩であった。

 この遠洋航海で、正木の念頭から「死の問題」は離れなかった。かれは悩み続け、神経衰弱症状の様相だった。そんな時、正木は米内艦長から呼ばれた。

 艦長室に入ると、米内艦長は笑顔で「どうだ、正木候補生、君はなにか深く考えこんでいるんじゃないか」と言った。正木候補生は気持ちがほぐれ、「死の問題」を打ち明けた。

 米内艦長はじっと、耳を傾けていたが、「考えることはいいことだ。だがあまり眼を近づけすぎると、かえって実体が良く見えないものだ。時には眼を遠ざけたほうがいい。また、瞬きもしないで見つめると、眼がつかれて、対象がぼやける。すこし時間をおいて考えなおしてみたらどうか」と言った。

 そして、「これを読んでみたまえ」と、半紙二枚に毛筆で書いたものを正木候補生に渡した。「心の力」という書物から摘記したもので次の様に書かれていた。

 「心はこれ身の王 王に威ありて国泰し 心を尊び心を養ふ その徳即ち身に現す 疫癘もこの人を襲わず 毒蛇もこの人を螫さず 昼は煩ひ無くして居泰く 夜は夢無くして睡り穏なり 出る息よく律に合し 人る息よく呂にかなふ 精力毛髪の末に溢れ 顔色常に嬰児の如し 眼曇らす足迫らず 晴天を戴き天地を踏む 行けば端気これを譲る 妖気いかでか犯さむ 語ればこの声雲に徹す 天童耳を傾けて聴かむ」

 正木候補生はこの「心の力」を、何度も何度も読み返しているうちに、神経衰弱は回復していった。

 軍艦磐手が横須賀軍港に停泊していたときのこと。あるとき米内艦長が鎮守府に用があって、艦載汽艇に乗り、百メートルほど舷側を離れたとき、本艦から、「帰れ」という信号があった。

 艦長の乗艇に対して帰れというのだから、よほどの事件でも突発したのだろうと、急いで戻った。すると信号をしたのは副長で、乗り遅れた士官を乗せるためと分かった。

 このときは、米内艦長は怒った。上陸を中止した米内艦長は副長を艦長室に呼びつけ、厳然と訓戒した。「いやしくも艦長の乗艇を、こうした理由で呼び戻すとはなにごとか。軍規の上からも許しがたい」。副長は軽率を詫びたという。

 昭和七年五月十五日、海軍の青年将校、陸軍士官学校生徒、民間人らによる五・一五事件が起き、犬養毅首相が暗殺された。

 後に末次信正海軍中将(海兵二七・海大七)が第二艦隊司令長官で鎮海に入港した時、酒の上で、米内中将と末次中将が口論となった。

 日頃おとなしい米内中将が、「五・一五事件の陰の張本人は君だ。ロンドン会議以来、若い者を炊きつけてああいうことを言わせたり、やらせたり、甚だけしからん」と二期先輩の末次中将の胸ぐらをつかんで詰め寄った。

 末次中将は憤然としていたが一言も言葉を返さなかったという。以後米内と末次は、会っても口もきかない犬猿の仲になった。昭和八年の海軍の定期異動で末次中将は連合艦隊司令長官、米内中将は佐世保鎮守府司令長官に補された。

 小島秀雄中佐(海兵四四・海大二三)が海軍省副官だったとき、米内佐世保鎮守府司令長官から一通の手紙が副官宛に来た。開いて見ると義済会の金の借用申込みであった。

 米内司令長官は父親の遺した借金を背負って、軍人になって以来ずっと返済していた。だから中将になり、鎮守府司令長官になっても貧乏は少しも変わらなかった。さらに公用以外の宴会費はすべて自弁であったので、階級が進めば進むほど料理屋の払いも増えてくるのだった。

 佐世保鎮守府司令長官ともなれば、部外の友人や知己から借りようと思えば幾らでも借りることはできるが、米内はそういうことは決してしなかった。これ位の地位にいて義済会に借金を申し込んだ者は、恐らく前後にないだろうと、副官はすっかり感激したという。

163.米内光政海軍大将(3) ナニ、艦長はおれをよい士官にしてやろうと思って鍛えて下さるんだ

2009年05月08日 | 米内光政海軍大将
 しかし、日露戦争時、旅順港口閉塞隊の指揮官であった有馬校長は「ほう、そうかね」と、「面白いことをやりおる」という顔をしただけで、あとは何も言わなかったという。

 「米内光政」(高宮太平・時事通信社)によると、米内光政は明治三十四年十二月、海軍兵学校を卒業すると、少尉候補生となり練習艦隊の金剛に乗って遠洋航海に出発、オーストラリアなどをまわった。半年後横須賀に帰り、今度は軍艦常盤に乗り組みを命じられ、明治三十六年一月海軍少尉に任官した。

 常盤艦長の野元綱明大佐(海兵七)はどういうものか、米内少尉をいじめた。たぶん牛のように鈍重なのが気に入らなかったのだろう。それでずいぶん無理な作業を命じたり、叱ったりした。

 誰が見ても艦長の言うことが無理だから、同級生たちは「なぜ米内をあんなにいじめるのか」と、艦長を恨むやら米内に同情するやら、いつも艦内の話題になっていた。

 だが米内少尉はケロリとしていた。「ナニ、艦長はおれをよい士官にしてやろうと思って鍛えて下さるんだよ」と少しも苦にしない。同級生は「あいつ、まったく鈍感だよ」と歯がゆがった。

 「一軍人の生涯」(緒方竹虎・文藝春秋新社)によると、米内中佐は、軍事視察のためロシア国出張を命じられ、大正七年八月九日付で軍令部参謀の資格で浦塩派遣軍司令部付を命じられた。浦塩はウラジオである。

 ロシアは革命勃発のため無政府状態になり、シベリア方面は治安状況が悪化したので、米国も日本に出兵を要請してきたので、八月二日、大谷喜久蔵陸軍大将(陸士旧二)を派遣軍司令官に、沿海州からザバイカル地方まで軍を進めた。海軍も陸軍の作戦に協力した。

 米内中佐の任務は特務機関長とも言うべきもので、下に少佐二人、大尉二人がいた。浦塩には、三笠を旗艦とする第五艦隊が碇泊し、その司令官は加藤寛治海軍少将だった。

 米内中佐の配下にハルピン駐在の杉坂悌次郎海軍少佐(海兵三三)がいた。杉坂少佐は、羽振りのよい陸軍のハルピン特務機関と違って、経費はなし、組織もなく、酒も飲めず憂鬱な日々を送っていた。

 そんなある日、米内中佐から突然、三百円が届けられた。米内は自腹を切って送ってくれた。杉坂は感激して、後で「これだけは受け取れません」と返却した。

 それから、杉坂少佐は、他の駐在員らと、米内中佐のところへ報告を兼ねて浦塩の米内中佐のところへ出かけて、酒をたんまり飲んだ。

 杉坂少佐は、ロシア関係、満州関係情報、陸軍情報など詳細を米内中佐に報告した。また、杉坂少佐は米内中佐とともに加藤司令官にも報告した。

 そのような時、加藤司令官は陸軍との対立感情を露骨に現し、まるで杉坂少佐が陸軍の謀略を阻止しないのは怪しからんというような調子で叱り飛ばした。

 側で聞いている米内中佐は宿舎に帰ると、「司令官はああいう御性格だから少しも気にかけることはないよ」と慰めてくれた。近くにいても米内中佐は特別な用事がない限り加藤司令官を訪ねることはなかった。

 加藤司令官はそれが気に入らない。そこで杉坂少佐の報告に事よせて米内中佐をも叱っていた模様だった。けれども米内中佐はそれが判っていても、空と呆けて聞き流していたという。

 「米内光政」(実松譲・光人社NF文庫)によると、大正十二年三月、米内光政は軍艦磐手艦長に補された。六月、磐手は八雲、浅間とともに練習艦隊に編入された。

 七月、海軍兵学校、機関学校、経理学校を卒業して少尉候補生となった四百三十五人を乗せて、練習艦隊は遠洋航海に出た。著者の実松譲も海兵五一期でこの遠洋航海に参加した。実松は磐手乗組みで、初めて艦長の米内光政と出会っている。

 米内艦長は、候補生の指導については、ことのほか熱心だった。旅順、大連の見学について、艦長は候補生に所感を提出させた。

 機関科候補生・吉田純二の所感の中に、「Might is right(力は正義)」という文字があった。これを見た米内艦長は、次の要旨の批評を半ページにしたためて、吉田をいましめた。

 「日本海軍は正義の後ろ楯となるものであって、力すなわち正義ではなく、また、そうあってはならぬ」

 南洋方面を航海中のことであった。ある日、エメラルド色の海上で三隻の練習艦が、敵味方に分かれて演習を展開していた。

162.米内光政海軍大将(2) しかし米内は、政治は駄目だよ。米内じゃ部内にも部外にも受けないだろ

2009年05月01日 | 米内光政海軍大将
 「米内光政」(阿川弘之・新潮文庫)によると、前述のように、昭和十二年二月二日の米内海軍大臣実現の推進者は、保科善四郎大佐と山本五十六次官だった。

 米内と同期の高橋三吉(海兵二九・海大一〇)や藤田尚徳が大将になっているのに、米内はまだ中将だったが、序列を考えている場合ではなかった。

 海軍省軍務局第一課長の保科善四郎大佐は「このむつかしい時期に、海軍大臣を引き受けてもらうのは、まず私心の無い人、勇気のある人、これが第一条件と思うが」と、課長連中の意見を聞いてまわった。

 保科大佐自身は米内中将なら自信を持って推薦できるし、米内さん以外に人はいないと思っていた。山本五十六次官から「各課長の意見、どうだ」と聞かれたので、保科が「中には、米内さんに今政治的な傷をつけてはいかん、連合艦隊司令長官として洋上に留まってもらうべきだ、という意見もありますが、大体は米内中将でまとまっています」と答えた。

 保科大佐が「ただ海相永野修身大将(海兵二八次席・海大八)が留任を望んでいる気配が見えます。辞めてくださいとは申し上げにくい」と言うと、「君たちのまとまった意見として言え」と山本次官がけしかけた。

 保科大佐は永野大将のところへ行って「この際海軍の伝統を保持するには、よほどの勇断を以って新しく事にあたれる人が必要で、米内中将と交替していただきたい」と持ちかけた。

 永野大将は、承知しながらも「しかし米内は、政治は駄目だよ。米内じゃ部内にも部外にも受けないだろ」と答えた。

 保科大佐は米内中将を東京の自宅に訪ねた。「永野海相の使者として参りました。次期内閣の大臣にご出馬願えるかどうか伺ってこいとのことでございます」という保科大佐の話を、米内中将は黙って聞いていた。イエスともノーとも言わなかった。

保 科大佐は海軍省に帰って、永野海相、山本次官の両人に「お受けになる意思はあると思います」と報告した。昭和十二年一月末日、米内連合艦隊司令長官は組閣本部から電話で上京を求められた。

 山本次官は保科大佐のように米内中将に部下として接した経験は無かったが、大尉時代に同じ職場になって以来、その人格と識見に惚れ込んでいた。もし米内が断れば「お国のためです」と説得するつもりだった。

 海軍では年功序列、ハンモック・ナンバー(海軍兵学校卒業席次)を重視した昇進制度が確立されていた。加藤友三郎以後歴代海軍大臣はみな兵学校恩賜組か恩賜に近い人ばかりで、米内中将みたいに、六十八番などというのはいなかった。

 米内中将を大臣にしたのは、山本次官の英断だった。こうして昭和十二年二月二日、米内光政中将の海軍大臣就任が実現したのだった。

 だが、米内中将は、朝日新聞主筆の緒方竹虎(後に衆議院議員・自由党総裁)に、すこぶる面白くない面持ちで「今度は軍人から軍属に転落ですか」と言った。海軍大臣に就任後四月一日、米内光政は海軍大将に昇進した。

 米内中将のあとの連合艦隊司令長官には、永野修身大将がお手盛りで引き継いだ。永野大将は旗艦の戦艦「陸奥」に着任した。

 「米内光政」(生出寿・徳間文庫)によると、明治四十四年十二月、高野(山本の旧姓)五十六大尉は、海軍砲術学校教官兼分隊長となった。

 同じ教官に兵学校で三期上の米内光政大尉がいた。一メートル六十センチ余りの小柄で才気煥発ですばしこい高野大尉と反対に、米内大尉は大柄で平々凡々で鈍重であった。

 高野大尉の海軍兵学校第三十二期の卒業席次は百九十一名中十一番だった。同期には、一番の堀悌
吉、二番の塩澤幸一、十二番の吉田善吾、二十七番の嶋田繁太郎らがいる。

 米内大尉と高野大尉は、互いに自分にない良さを認め。水と魚のように親しくなった。米内大尉は山本大尉の茶目っ気を愛した。

 若い二教官は一つの部屋にベッドを並べ起居を共にしていたが、やがて、手裏剣投げの競争をし始めた。室外のゴミ箱に的の図を貼りつけ、それに腰の海軍短剣を抜いて投げる競争を始めた。

 ところがその物音がひどくデカいので、周囲の人々を驚かせた。また、ゴミ箱を壊すので、校長副官から文句をつけられ、校長の有馬良橘少将(海兵一二・後海軍大将)に報告された。

161.米内光政海軍大将(1)米内、残念だったなあ。せっかく俺の後に連合艦隊を預かってもらったのに

2009年04月24日 | 米内光政海軍大将
 最後の海軍大将で知られる井上成美(海兵三七恩賜・海大二二)は戦後、サイレント・ネイビーに徹し、清廉潔白、隠遁の生活を死ぬまで貫いた。

 戦時中、井上が仕えた米内光政大将(海兵二九・海大一二)の七年を偲ぶ集いが、昭和二十九年の春開催されたが、井上は一言の理由も付け加えず「欠席」の返事を出した。井上は戦後世に出ないと決めていたので、自分をごまかす事は死ぬまでしなかった。

 井上が尊敬する海軍将星は皆無に近かったと言われている。きらめく海軍大将にしても井上の評価はほとんど三等大将だった。そのような井上の尊敬する数少ない人物の一人が米内光政海軍大将で、井上の評価は一等大将だった。

 昭和十二年二月二日、廣田弘毅内閣の後を受けて、予備役陸軍大将・林銑十郎(陸士八・陸大一七)に組閣の大命が降下、米内光政中将は海軍大臣に就任した。

 この内閣の組閣前の話だが、「米内光政」(阿川弘之・新潮文庫)によると、海軍はこの内閣に誰を大臣として出すか問題であった。初め軍事参議官・藤田尚徳大将(海兵二九・海大一〇)、軍事参議官・末次信正大将(海兵二七・海大七恩賜)という噂があり、次に米内光政の声が出てきた。当時米内中将は連合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)だった。

 だが、海軍省軍務局第一課長の保科善四郎大佐(海兵四一・海大二三) が中心になり、海軍中央の意見をまとめ、山本五十六次官(海兵三二・海大一四)の強い要望で米内の海軍大臣が実現した。

 「激流の孤舟」(豊田譲・講談社)によると、米内と同期で連合艦隊司令長官として、米内の前任者であった高橋三吉大将(海兵二九恩賜・海大一〇)は、米内の海軍大臣就任を聞いて「なんだ、たった二ヶ月で大臣になってしまったのか」と驚いた。

 艦隊派の闘将である高橋は、同じ艦隊派の先輩である末次信正大将のあとをついで、昭和九年十一月十二日から昭和十一年十二月三十日まで丸二年間、連合艦隊司令長官として、みっちりと連合艦隊の訓練を行ったという自信を持っていた。

 後に高橋は米内に会ったとき、「おい米内、残念だったなあ。せっかく俺の後に連合艦隊を預かってもらったのになあ。大臣じゃ戦闘訓練もできまい」と言った。

 高橋は、ハンモックナンバー(海軍兵学校卒業席次)は百二十五人中五番の恩賜組である。米内は卒業席次六十八番の鈍才だった。

 このときの高橋の心理、感情は複雑だったといわれている。同期の高橋としてはこの鈍才の米内に、せめて半年でも連合艦隊の指揮をとらしてやりたかったという気持ちがあった。

 その反面、艦隊派でない米内がわずかな期間で連合艦隊から赤レンガの海軍省に行ったので高橋は、ほっとしたのかも知れない。

 さらに高橋としては、二期先輩で、同じ艦隊派の末次信正大将に海軍大臣になってもらいたいという気持ちもあったはずである。何といっても大臣は人事権を握っているのだ。これらのことから、高橋大将は米内中将の海軍大臣就任に複雑な感情を抱いていた。

 しかし、このとき高橋大将は、この鈍才の米内中将が、何代にも渡って海軍大臣を歴任し、海軍のみならず国の運命を一身に背負う総理までなり、最後には日本帝国の臨終をみとり、葬儀委員まで勤める大物になろうとは夢想だにしていなかった。

 <米内光政(よない・みつまさ)海軍大将プロフィル>

明治十三年三月二日岩手県盛岡市に旧盛岡藩士米内受政の長男として生まれる。
明治三十四年(二十一歳)十二月海軍兵学校卒業(二九期)。卒業成績は百二十五人中六十八番。
明治三十六年(二十三歳)一月海軍少尉。常盤乗組。
明治三十七年(二十四歳)七月海軍中尉。
明治三十八年(二十五歳)日露戦争に従軍。磐手分隊長心得、海軍砲術学校。
明治三十九年(二十六歳)六月大隈宗の娘こまと結婚。九月海軍大尉。新高分隊長心得。
明治四十一年(二十八歳)四月海軍砲術学校教官兼分隊長。
明治四十五年(三十二歳)十二月海軍少佐。
大正三年(三十四歳)五月海軍大学校卒業(一二期)。
大正四年(三十五歳)二月ロシア国駐在武官補佐官。
大正五年(三十六歳)十二月海軍中佐。
大正六年(三十七歳)五月ロシア国駐在を免じ佐世保鎮守府参謀兼望楼監督官。
大正八年(三十九歳)九月富士副長兼海軍大学校教官。
大正九年(四十歳)六月ベルリン駐在。十二月海軍大佐。
大正十年(四十一歳)十一月ポーランド駐在員監督。
大正十一年(四十二歳)春日艦長。
大正十二年(四十三歳)三月磐手艦長。
大正十三年(四十四歳)戦艦扶桑、陸奥艦長。
大正十四年(四十五歳)十二月海軍少将。
昭和三年(四十八歳)第一遣外艦隊司令官。
昭和五年(五十歳)十二月海軍中将。鎮海要港部司令官。
昭和七年(五十二歳)十二月第三艦隊司令長官。
昭和八年(五十三歳)十一月佐世保鎮守府司令長官。
昭和九年(五十四歳)十一月第二艦隊司令長官。
昭和十年(五十五歳)十二月横須賀鎮守府司令長官。
昭和十一年(五十六歳)連合艦隊司令長官兼大一艦隊司令長官。
昭和十二年(五十七歳)二月二日林銑十郎内閣の海軍大臣。四月海軍大将。六月第一次近衛内閣海軍大臣(~昭和十四年一月)。
昭和十四年(五十九歳)一月平沼騏一郎内閣の海軍大臣。米内海軍大臣、山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長のトリオで日独伊三国同盟締結に反対する。九月軍事参議官。
昭和十五年(六十歳)一月内閣総理大臣。七月総理大臣辞職。
昭和十九年(六十四歳)七月二十二日小磯内閣海軍大臣(副総理格。小磯・米内連立内閣)。
昭和二十年(六十五歳)四月鈴木貫太郎内閣海軍大臣。八月東久邇宮稔彦王内閣海軍大臣、十月幣原喜重郎内閣海軍大臣。
昭和二十三年四月二十日、脳溢血で肺炎を併発して死去。六十八歳。