米内長官は、酒は強かった。一度、「米内長官のお相手をして酔っ払わせた者に褒美を出す」と言い出した人があり、照葉という芸者が「あたし受けましょう」と買って出た。
「照葉姐さん、いくら飲んでもきちんとしているから、一緒のお座敷だとけむったい」と若い妓に言われていた位で、自信があった。米内長官と長時間差しつ差されつ、盃を重ねているうちに、照葉はついに参って米内長官の膝を枕に寝込んでしまった。
もう一人強いのがいた。久奴という芸者で、彼女も米内長官に挑戦した。だが、しまいにはバチが持てなくなって、三味線を置くなり、「負けました」と言ってぼろぼろ涙を流して悔しがった。
米内長官は「俺も酔ったよ。酔った」などと言ったが、実際はそれほど酔ってはいなかった。
昭和十一年十一月二十五日、日独防共協定が締結された。だが、これが海軍省や外務省が懸念したとおり、やがて米英をも敵とする日独伊三国同盟に変身し、日中戦争とともに、太平洋戦争の要因になる。
米内長官は日独防共協定に、「特定の国と結び、特定の国を敵視するのはいけない」と反対していた。
だが、井上成美参謀長や練習艦隊司令官・吉田善吾中将らは、当時次の様な認識だった。
「コミンテルンはすでに日本、ドイツを赤化の対象としている。中国における共産主義活動は活発化していて、脅威である。日本が国際的に孤立しないためには、日独防共協定を結んだほうが良い」
だが、後に、井上、吉田も、米内とともに日独伊三国同盟締結阻止に命を賭けるのだが、米内のほうが、井上、吉田より、将来を深く洞察していたということになる。
昭和十一年十二月三十一日、ワシントン条約とロンドン条約は期限満了となり、以後遂に世界は不穏な軍備無制限時代に突入した。
日本帝国海軍の艦隊派と陸軍は、鎖をはずされた犬のように歓喜した。だが、日本は、皮肉なことに、日独防共協定締結と、海軍軍縮条約破棄によって、国際的孤立にはまりこんでしまった。
昭和十一年の晩秋、寺島健海軍中将(海兵三一恩賜・海大一二)が米内長官を訪ねてきた。寺島中将は二年前、伏見宮軍令部総長(海兵退校・ドイツ海軍兵学校卒・ドイツ海軍大学校卒)と大角峯生大将(海兵二四恩賜・海大五)によって予備役に追放され、浦賀ドック社長に就任していた。
寺島は米内に、永野の次の海軍大臣には米内が予定されていると知らせに来た。情報の出所は、寺島と兵学校同期の長谷川清海軍次官(海兵三一恩賜・海大一二次席)だった。
翌日米内長官は井上参謀長に、それを洩らした。井上参謀長はいい顔をしなかった。「あなたは受ける気ですか」。米内は「いやだと言っておいたよ」と答えた。
すると井上参謀長は「あなたは、今後、連合艦隊司令長官に出なければなりません。議会で議員どもから、くだらない質問でいじめつけられるよりは、連合艦隊司令長官になって、陸奥(当時の連合艦隊旗艦)の艦橋で三軍を叱咤しなさい。あとできっと、連合艦隊長官になってよかったとおっしゃるようになりますよ」と言った。
そのあと、井上参謀長は「議会におけるあなたの大臣姿など、見ておれません」と付け加えた。
米内長官は、一言、「やらないよ」と同意した。
それからまもなくの十二月一日、米内光政は兵学校同期の高橋三吉大将のあとを受け、海軍中将のまま、連合艦隊司令長官に補された。
連合艦隊司令長官は、海軍大臣、軍令部総長とならび、海軍士官最高位のポストで、海軍士官にとっては最も魅力ある職務だった。
だが、山本五十六次官と軍務局第一課長・保科善四郎大佐らの要請により、昭和十二年二月二日、米内光政海軍中将は林銑十郎内閣の海軍大臣に就任した。五十七歳だった。
四月、米内は海軍大将に昇進した。米内は大臣官邸でも、読書と思索にふけり、書道の稽古にも余念がなかった。国会が始まる前には、国会答弁の虎の巻ともいうべき、一問一答を海軍省の大臣官房調査課で準備する。
これは、問題になりそうなところは必要な数字から台詞まで備えた膨大なものだった。米内はこれを熱心に勉強したので、いつも見事な答弁ができた。
ところがある日、海軍大臣とは直接関係のないことを、赤字決算委員会から米内に対して答弁を要求してきた。こうした質問に対する答えは、例の一問一答の中にはなかった。
質問は統制経済に関することだったが、米内は佐官時代にヨーロッパに勤務していた当時に見聞した第一次大戦の戦中、戦後の状況から説き起こし。あざやかに答弁した。
「照葉姐さん、いくら飲んでもきちんとしているから、一緒のお座敷だとけむったい」と若い妓に言われていた位で、自信があった。米内長官と長時間差しつ差されつ、盃を重ねているうちに、照葉はついに参って米内長官の膝を枕に寝込んでしまった。
もう一人強いのがいた。久奴という芸者で、彼女も米内長官に挑戦した。だが、しまいにはバチが持てなくなって、三味線を置くなり、「負けました」と言ってぼろぼろ涙を流して悔しがった。
米内長官は「俺も酔ったよ。酔った」などと言ったが、実際はそれほど酔ってはいなかった。
昭和十一年十一月二十五日、日独防共協定が締結された。だが、これが海軍省や外務省が懸念したとおり、やがて米英をも敵とする日独伊三国同盟に変身し、日中戦争とともに、太平洋戦争の要因になる。
米内長官は日独防共協定に、「特定の国と結び、特定の国を敵視するのはいけない」と反対していた。
だが、井上成美参謀長や練習艦隊司令官・吉田善吾中将らは、当時次の様な認識だった。
「コミンテルンはすでに日本、ドイツを赤化の対象としている。中国における共産主義活動は活発化していて、脅威である。日本が国際的に孤立しないためには、日独防共協定を結んだほうが良い」
だが、後に、井上、吉田も、米内とともに日独伊三国同盟締結阻止に命を賭けるのだが、米内のほうが、井上、吉田より、将来を深く洞察していたということになる。
昭和十一年十二月三十一日、ワシントン条約とロンドン条約は期限満了となり、以後遂に世界は不穏な軍備無制限時代に突入した。
日本帝国海軍の艦隊派と陸軍は、鎖をはずされた犬のように歓喜した。だが、日本は、皮肉なことに、日独防共協定締結と、海軍軍縮条約破棄によって、国際的孤立にはまりこんでしまった。
昭和十一年の晩秋、寺島健海軍中将(海兵三一恩賜・海大一二)が米内長官を訪ねてきた。寺島中将は二年前、伏見宮軍令部総長(海兵退校・ドイツ海軍兵学校卒・ドイツ海軍大学校卒)と大角峯生大将(海兵二四恩賜・海大五)によって予備役に追放され、浦賀ドック社長に就任していた。
寺島は米内に、永野の次の海軍大臣には米内が予定されていると知らせに来た。情報の出所は、寺島と兵学校同期の長谷川清海軍次官(海兵三一恩賜・海大一二次席)だった。
翌日米内長官は井上参謀長に、それを洩らした。井上参謀長はいい顔をしなかった。「あなたは受ける気ですか」。米内は「いやだと言っておいたよ」と答えた。
すると井上参謀長は「あなたは、今後、連合艦隊司令長官に出なければなりません。議会で議員どもから、くだらない質問でいじめつけられるよりは、連合艦隊司令長官になって、陸奥(当時の連合艦隊旗艦)の艦橋で三軍を叱咤しなさい。あとできっと、連合艦隊長官になってよかったとおっしゃるようになりますよ」と言った。
そのあと、井上参謀長は「議会におけるあなたの大臣姿など、見ておれません」と付け加えた。
米内長官は、一言、「やらないよ」と同意した。
それからまもなくの十二月一日、米内光政は兵学校同期の高橋三吉大将のあとを受け、海軍中将のまま、連合艦隊司令長官に補された。
連合艦隊司令長官は、海軍大臣、軍令部総長とならび、海軍士官最高位のポストで、海軍士官にとっては最も魅力ある職務だった。
だが、山本五十六次官と軍務局第一課長・保科善四郎大佐らの要請により、昭和十二年二月二日、米内光政海軍中将は林銑十郎内閣の海軍大臣に就任した。五十七歳だった。
四月、米内は海軍大将に昇進した。米内は大臣官邸でも、読書と思索にふけり、書道の稽古にも余念がなかった。国会が始まる前には、国会答弁の虎の巻ともいうべき、一問一答を海軍省の大臣官房調査課で準備する。
これは、問題になりそうなところは必要な数字から台詞まで備えた膨大なものだった。米内はこれを熱心に勉強したので、いつも見事な答弁ができた。
ところがある日、海軍大臣とは直接関係のないことを、赤字決算委員会から米内に対して答弁を要求してきた。こうした質問に対する答えは、例の一問一答の中にはなかった。
質問は統制経済に関することだったが、米内は佐官時代にヨーロッパに勤務していた当時に見聞した第一次大戦の戦中、戦後の状況から説き起こし。あざやかに答弁した。