陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

162.米内光政海軍大将(2) しかし米内は、政治は駄目だよ。米内じゃ部内にも部外にも受けないだろ

2009年05月01日 | 米内光政海軍大将
 「米内光政」(阿川弘之・新潮文庫)によると、前述のように、昭和十二年二月二日の米内海軍大臣実現の推進者は、保科善四郎大佐と山本五十六次官だった。

 米内と同期の高橋三吉(海兵二九・海大一〇)や藤田尚徳が大将になっているのに、米内はまだ中将だったが、序列を考えている場合ではなかった。

 海軍省軍務局第一課長の保科善四郎大佐は「このむつかしい時期に、海軍大臣を引き受けてもらうのは、まず私心の無い人、勇気のある人、これが第一条件と思うが」と、課長連中の意見を聞いてまわった。

 保科大佐自身は米内中将なら自信を持って推薦できるし、米内さん以外に人はいないと思っていた。山本五十六次官から「各課長の意見、どうだ」と聞かれたので、保科が「中には、米内さんに今政治的な傷をつけてはいかん、連合艦隊司令長官として洋上に留まってもらうべきだ、という意見もありますが、大体は米内中将でまとまっています」と答えた。

 保科大佐が「ただ海相永野修身大将(海兵二八次席・海大八)が留任を望んでいる気配が見えます。辞めてくださいとは申し上げにくい」と言うと、「君たちのまとまった意見として言え」と山本次官がけしかけた。

 保科大佐は永野大将のところへ行って「この際海軍の伝統を保持するには、よほどの勇断を以って新しく事にあたれる人が必要で、米内中将と交替していただきたい」と持ちかけた。

 永野大将は、承知しながらも「しかし米内は、政治は駄目だよ。米内じゃ部内にも部外にも受けないだろ」と答えた。

 保科大佐は米内中将を東京の自宅に訪ねた。「永野海相の使者として参りました。次期内閣の大臣にご出馬願えるかどうか伺ってこいとのことでございます」という保科大佐の話を、米内中将は黙って聞いていた。イエスともノーとも言わなかった。

保 科大佐は海軍省に帰って、永野海相、山本次官の両人に「お受けになる意思はあると思います」と報告した。昭和十二年一月末日、米内連合艦隊司令長官は組閣本部から電話で上京を求められた。

 山本次官は保科大佐のように米内中将に部下として接した経験は無かったが、大尉時代に同じ職場になって以来、その人格と識見に惚れ込んでいた。もし米内が断れば「お国のためです」と説得するつもりだった。

 海軍では年功序列、ハンモック・ナンバー(海軍兵学校卒業席次)を重視した昇進制度が確立されていた。加藤友三郎以後歴代海軍大臣はみな兵学校恩賜組か恩賜に近い人ばかりで、米内中将みたいに、六十八番などというのはいなかった。

 米内中将を大臣にしたのは、山本次官の英断だった。こうして昭和十二年二月二日、米内光政中将の海軍大臣就任が実現したのだった。

 だが、米内中将は、朝日新聞主筆の緒方竹虎(後に衆議院議員・自由党総裁)に、すこぶる面白くない面持ちで「今度は軍人から軍属に転落ですか」と言った。海軍大臣に就任後四月一日、米内光政は海軍大将に昇進した。

 米内中将のあとの連合艦隊司令長官には、永野修身大将がお手盛りで引き継いだ。永野大将は旗艦の戦艦「陸奥」に着任した。

 「米内光政」(生出寿・徳間文庫)によると、明治四十四年十二月、高野(山本の旧姓)五十六大尉は、海軍砲術学校教官兼分隊長となった。

 同じ教官に兵学校で三期上の米内光政大尉がいた。一メートル六十センチ余りの小柄で才気煥発ですばしこい高野大尉と反対に、米内大尉は大柄で平々凡々で鈍重であった。

 高野大尉の海軍兵学校第三十二期の卒業席次は百九十一名中十一番だった。同期には、一番の堀悌
吉、二番の塩澤幸一、十二番の吉田善吾、二十七番の嶋田繁太郎らがいる。

 米内大尉と高野大尉は、互いに自分にない良さを認め。水と魚のように親しくなった。米内大尉は山本大尉の茶目っ気を愛した。

 若い二教官は一つの部屋にベッドを並べ起居を共にしていたが、やがて、手裏剣投げの競争をし始めた。室外のゴミ箱に的の図を貼りつけ、それに腰の海軍短剣を抜いて投げる競争を始めた。

 ところがその物音がひどくデカいので、周囲の人々を驚かせた。また、ゴミ箱を壊すので、校長副官から文句をつけられ、校長の有馬良橘少将(海兵一二・後海軍大将)に報告された。