陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

163.米内光政海軍大将(3) ナニ、艦長はおれをよい士官にしてやろうと思って鍛えて下さるんだ

2009年05月08日 | 米内光政海軍大将
 しかし、日露戦争時、旅順港口閉塞隊の指揮官であった有馬校長は「ほう、そうかね」と、「面白いことをやりおる」という顔をしただけで、あとは何も言わなかったという。

 「米内光政」(高宮太平・時事通信社)によると、米内光政は明治三十四年十二月、海軍兵学校を卒業すると、少尉候補生となり練習艦隊の金剛に乗って遠洋航海に出発、オーストラリアなどをまわった。半年後横須賀に帰り、今度は軍艦常盤に乗り組みを命じられ、明治三十六年一月海軍少尉に任官した。

 常盤艦長の野元綱明大佐(海兵七)はどういうものか、米内少尉をいじめた。たぶん牛のように鈍重なのが気に入らなかったのだろう。それでずいぶん無理な作業を命じたり、叱ったりした。

 誰が見ても艦長の言うことが無理だから、同級生たちは「なぜ米内をあんなにいじめるのか」と、艦長を恨むやら米内に同情するやら、いつも艦内の話題になっていた。

 だが米内少尉はケロリとしていた。「ナニ、艦長はおれをよい士官にしてやろうと思って鍛えて下さるんだよ」と少しも苦にしない。同級生は「あいつ、まったく鈍感だよ」と歯がゆがった。

 「一軍人の生涯」(緒方竹虎・文藝春秋新社)によると、米内中佐は、軍事視察のためロシア国出張を命じられ、大正七年八月九日付で軍令部参謀の資格で浦塩派遣軍司令部付を命じられた。浦塩はウラジオである。

 ロシアは革命勃発のため無政府状態になり、シベリア方面は治安状況が悪化したので、米国も日本に出兵を要請してきたので、八月二日、大谷喜久蔵陸軍大将(陸士旧二)を派遣軍司令官に、沿海州からザバイカル地方まで軍を進めた。海軍も陸軍の作戦に協力した。

 米内中佐の任務は特務機関長とも言うべきもので、下に少佐二人、大尉二人がいた。浦塩には、三笠を旗艦とする第五艦隊が碇泊し、その司令官は加藤寛治海軍少将だった。

 米内中佐の配下にハルピン駐在の杉坂悌次郎海軍少佐(海兵三三)がいた。杉坂少佐は、羽振りのよい陸軍のハルピン特務機関と違って、経費はなし、組織もなく、酒も飲めず憂鬱な日々を送っていた。

 そんなある日、米内中佐から突然、三百円が届けられた。米内は自腹を切って送ってくれた。杉坂は感激して、後で「これだけは受け取れません」と返却した。

 それから、杉坂少佐は、他の駐在員らと、米内中佐のところへ報告を兼ねて浦塩の米内中佐のところへ出かけて、酒をたんまり飲んだ。

 杉坂少佐は、ロシア関係、満州関係情報、陸軍情報など詳細を米内中佐に報告した。また、杉坂少佐は米内中佐とともに加藤司令官にも報告した。

 そのような時、加藤司令官は陸軍との対立感情を露骨に現し、まるで杉坂少佐が陸軍の謀略を阻止しないのは怪しからんというような調子で叱り飛ばした。

 側で聞いている米内中佐は宿舎に帰ると、「司令官はああいう御性格だから少しも気にかけることはないよ」と慰めてくれた。近くにいても米内中佐は特別な用事がない限り加藤司令官を訪ねることはなかった。

 加藤司令官はそれが気に入らない。そこで杉坂少佐の報告に事よせて米内中佐をも叱っていた模様だった。けれども米内中佐はそれが判っていても、空と呆けて聞き流していたという。

 「米内光政」(実松譲・光人社NF文庫)によると、大正十二年三月、米内光政は軍艦磐手艦長に補された。六月、磐手は八雲、浅間とともに練習艦隊に編入された。

 七月、海軍兵学校、機関学校、経理学校を卒業して少尉候補生となった四百三十五人を乗せて、練習艦隊は遠洋航海に出た。著者の実松譲も海兵五一期でこの遠洋航海に参加した。実松は磐手乗組みで、初めて艦長の米内光政と出会っている。

 米内艦長は、候補生の指導については、ことのほか熱心だった。旅順、大連の見学について、艦長は候補生に所感を提出させた。

 機関科候補生・吉田純二の所感の中に、「Might is right(力は正義)」という文字があった。これを見た米内艦長は、次の要旨の批評を半ページにしたためて、吉田をいましめた。

 「日本海軍は正義の後ろ楯となるものであって、力すなわち正義ではなく、また、そうあってはならぬ」

 南洋方面を航海中のことであった。ある日、エメラルド色の海上で三隻の練習艦が、敵味方に分かれて演習を展開していた。