送別会で、外務省の連中と乱闘が起こりそうな気配になったので、吉田中佐が「おい、貴様、もう帰ろう、帰ろう」と無理やり短剣を渡して大井少佐を外に連れ出した。
軍令部の大井少佐だけでなく、米内、山本、井上に仕える官房の副官、秘書官たちにとってはイタリア大使・白鳥敏夫とドイツ大使・大島浩の策動ぶりは目にあまり、腹に据えかねるものがあった。
同じイタリア駐在の軍務局長・井上成美少将(海兵三七次席・海大二二)などは見方がずいぶん違っていて、「イタ公」というような言葉まで使ってきつい批判をしていた。独伊と軍事同盟を結んで、その結果アメリカと戦争になったら誰が責任をとるのかと思っていた。
ドイツは三国同盟に態度をはっきりしない日本に苛立っていた。その日本では、海軍が反対するので、事が進まない。それで陸軍は海軍に苛立っていた。
昭和十四年八月八日に開かれた五相会議で、板垣征四郎陸軍大臣(陸士一六・陸大二八)が「これは軍の総意である。もはや無留保の同盟を締結すべき時が来た。これ以上の遷延は、ドイツに対する信義上も許されない」と発言した。
板垣陸相は、総理も海軍大臣も留保条件なしで同盟の条約を結ぶ気があるのか。無いというなら、席を蹴って立ちそうな気配だった。
そのとき、石渡荘太郎蔵相が「この同盟を結ぶ以上、日独伊三国が英仏米ソの四国を相手に戦争をする場合のあることを考えねばなりませんが。その際戦争は八割まで海軍によって戦われると思います。ついては、我々の腹を決める上に、海軍大臣のご意見を聞きたいが、日独伊の海軍が英仏米ソの海軍と戦って、我に勝算がありますか?」と米内海軍大臣に尋ねた。
日頃口下手の米内海軍大臣が、この時、はっきりと答えた。「勝てる見込みはありません。大体日本の海軍は、米英を向うに回して戦争するように建造されておりません。独伊の海軍にいたっては問題になりません」
「一軍人の生涯」(緒方竹虎・文藝春秋新社)によると、この米内海軍大臣の発言を知った、陸軍の息のかかった暴力右翼は、ここぞとばかり連日海軍省に暴れ込み、「米、英と戦争のできない海軍なら止めてしまえ。お前は人形か」と怒鳴り散らした。
海軍が憲兵の向うを張るため、陸戦隊を上陸させたという噂が立った。だが事実は、五・一五事件後、万一を慮って、時の軍務局第一課長・井上成美大佐が、横須賀から取り寄せていた装甲自動車を「軍事普及用」として市内を巡回させたのだった。
それが陸戦隊上陸の噂になったのだ。ともかく空気は極度に険悪で。いやがる山本五十六次官にも、一時は警視庁の護衛を付けることになった。
陸軍は非常に不満であった。板垣陸相は軍務局長・町尻量基少将(陸士二一・陸大二九恩賜)をドイツ大使館、イタリア大使館に派遣して、オットー大使、アウリッチ大使に口上書を手渡した。
口上書の冒頭は「陸軍ハ八月八日、五相会議ニオイテ、同盟ノタメ奮闘セルモ」となっていた。のちにこの文章を読んで「板垣征四郎はどこの国の陸軍大臣だったんだろう」と言った人がいたそうである。
「米内光政」(実松譲・光人社NF文庫)によると、著者の実松譲(海兵五一・海大三四)は当時中佐で、米内海軍大臣の秘書官だった。
当時、米内大臣や山本次官に面会を求めて、三国軍事同盟締結をなんとかして強行しようとする陸軍の注射を受けたと思われる右翼が、陳情と称して海軍省へ押しかけてきた。
彼らはそのほとんどが、大臣や次官に面会を強要し、異口同音に日本精神を説き、八紘一宇の天業とかいうものを強調し、独伊を礼賛して、三国同盟の即時締結を主張した。さらに、海軍の弱腰を責め、親英米主義を非難した。
実松秘書官は、こういう連中を、いちいちまともに相手にしていたのではこちらがたまらない。そこで、同僚の入江秘書官と話し合い、彼らを追っ払う秘策として「のれんに腕押し」の戦法で、相手にしないことにした。
そのころ、五相会議は、いつも首相官邸で開かれていた。会議が終わると、首相官邸の生き字引、といわれていた柳田氏から電話連絡がある。「ただいま海軍大臣はお帰りになりました」。
永田町の総理大臣官邸から、霞ヶ関の海軍省まで、自動車だと五分もかからない。実松秘書官はドアをあけて、米内海軍大臣の帰りを待つのだった。
米内海軍大臣の唇には特徴があった。いくらか右のほうが下がっている。「唇はものを言う」のであろうか、米内大臣の口元に注意すると、その日の会議の空気がだいたい想像できた。
今日はかなり激しい議論があったな、と思われる時には、唇の右が思い切り下がり、白い頬がほんのり桜色になっていたという。
軍令部の大井少佐だけでなく、米内、山本、井上に仕える官房の副官、秘書官たちにとってはイタリア大使・白鳥敏夫とドイツ大使・大島浩の策動ぶりは目にあまり、腹に据えかねるものがあった。
同じイタリア駐在の軍務局長・井上成美少将(海兵三七次席・海大二二)などは見方がずいぶん違っていて、「イタ公」というような言葉まで使ってきつい批判をしていた。独伊と軍事同盟を結んで、その結果アメリカと戦争になったら誰が責任をとるのかと思っていた。
ドイツは三国同盟に態度をはっきりしない日本に苛立っていた。その日本では、海軍が反対するので、事が進まない。それで陸軍は海軍に苛立っていた。
昭和十四年八月八日に開かれた五相会議で、板垣征四郎陸軍大臣(陸士一六・陸大二八)が「これは軍の総意である。もはや無留保の同盟を締結すべき時が来た。これ以上の遷延は、ドイツに対する信義上も許されない」と発言した。
板垣陸相は、総理も海軍大臣も留保条件なしで同盟の条約を結ぶ気があるのか。無いというなら、席を蹴って立ちそうな気配だった。
そのとき、石渡荘太郎蔵相が「この同盟を結ぶ以上、日独伊三国が英仏米ソの四国を相手に戦争をする場合のあることを考えねばなりませんが。その際戦争は八割まで海軍によって戦われると思います。ついては、我々の腹を決める上に、海軍大臣のご意見を聞きたいが、日独伊の海軍が英仏米ソの海軍と戦って、我に勝算がありますか?」と米内海軍大臣に尋ねた。
日頃口下手の米内海軍大臣が、この時、はっきりと答えた。「勝てる見込みはありません。大体日本の海軍は、米英を向うに回して戦争するように建造されておりません。独伊の海軍にいたっては問題になりません」
「一軍人の生涯」(緒方竹虎・文藝春秋新社)によると、この米内海軍大臣の発言を知った、陸軍の息のかかった暴力右翼は、ここぞとばかり連日海軍省に暴れ込み、「米、英と戦争のできない海軍なら止めてしまえ。お前は人形か」と怒鳴り散らした。
海軍が憲兵の向うを張るため、陸戦隊を上陸させたという噂が立った。だが事実は、五・一五事件後、万一を慮って、時の軍務局第一課長・井上成美大佐が、横須賀から取り寄せていた装甲自動車を「軍事普及用」として市内を巡回させたのだった。
それが陸戦隊上陸の噂になったのだ。ともかく空気は極度に険悪で。いやがる山本五十六次官にも、一時は警視庁の護衛を付けることになった。
陸軍は非常に不満であった。板垣陸相は軍務局長・町尻量基少将(陸士二一・陸大二九恩賜)をドイツ大使館、イタリア大使館に派遣して、オットー大使、アウリッチ大使に口上書を手渡した。
口上書の冒頭は「陸軍ハ八月八日、五相会議ニオイテ、同盟ノタメ奮闘セルモ」となっていた。のちにこの文章を読んで「板垣征四郎はどこの国の陸軍大臣だったんだろう」と言った人がいたそうである。
「米内光政」(実松譲・光人社NF文庫)によると、著者の実松譲(海兵五一・海大三四)は当時中佐で、米内海軍大臣の秘書官だった。
当時、米内大臣や山本次官に面会を求めて、三国軍事同盟締結をなんとかして強行しようとする陸軍の注射を受けたと思われる右翼が、陳情と称して海軍省へ押しかけてきた。
彼らはそのほとんどが、大臣や次官に面会を強要し、異口同音に日本精神を説き、八紘一宇の天業とかいうものを強調し、独伊を礼賛して、三国同盟の即時締結を主張した。さらに、海軍の弱腰を責め、親英米主義を非難した。
実松秘書官は、こういう連中を、いちいちまともに相手にしていたのではこちらがたまらない。そこで、同僚の入江秘書官と話し合い、彼らを追っ払う秘策として「のれんに腕押し」の戦法で、相手にしないことにした。
そのころ、五相会議は、いつも首相官邸で開かれていた。会議が終わると、首相官邸の生き字引、といわれていた柳田氏から電話連絡がある。「ただいま海軍大臣はお帰りになりました」。
永田町の総理大臣官邸から、霞ヶ関の海軍省まで、自動車だと五分もかからない。実松秘書官はドアをあけて、米内海軍大臣の帰りを待つのだった。
米内海軍大臣の唇には特徴があった。いくらか右のほうが下がっている。「唇はものを言う」のであろうか、米内大臣の口元に注意すると、その日の会議の空気がだいたい想像できた。
今日はかなり激しい議論があったな、と思われる時には、唇の右が思い切り下がり、白い頬がほんのり桜色になっていたという。