オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

新しい歌を主に向かって歌え

2018-01-01 00:00:00 | 礼拝説教
2018年1月1日(日)元旦礼拝(イザヤ42:10~13)岡田邦夫


「新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え。」(イザヤ42:10共同訳)

 新年あけましておめでとうございます。新年で何がおめでたいのかと、正月気分に浸りながら、おちょくる人がいます。かつて、数え年という年齢の数え方があって、1月1日にみな一斉に一つ年をとるという風習です。暦が新しくなったことよりも、人の年が新しくなった、ここまで皆、生きて来られた、もう一年一緒に生きていきましょうという意味合いで、「新年齢おめでとう」だと思います。
 牧師は定年延長年、サッカーなら勝負がつかなかったので、延長戦。それでも勝負がつかなければ、PK戦になる。はたしてどうなるか、やってみなければわかりません。昨年、励まされた書がありました。105歳で召される7ヵ月前に一か月の間(昨年の今頃)、インタビューをされたものが本になった、日野原重明さんの「生きていくあなたへ」です。死に行く人が生きていくあなたへのメッセージというものです。その最後のことばが一編の詩のようでした。私、それを通して思いめぐらしてる時に与えられたのが、このみ言葉です。「主に向かって新しい歌を歌え」。

◇永遠の命
 日野原さんは「命の授業」を全国の10歳の子供たちにしてきました。子どもに問います。「命はどこにあると思う?」色んな答えが出て最後に先生は伝えます。「命というのは君たちが使える時間の中にあるんだよ」。そして、その時間を人のために使うように、時間が終わった時神様の天秤にかけられ、人のために使った時間が多い人が天国に行けるんだよ…と。そうして、先生は「命」のことを伝えて来られました。
 命というのはいつも新しくされているものです。昨日の私と今日の私では、ずいぶん細胞が新しくされているので、違うものです。命の特質は新しさといえます。信仰も生きたもの、たえず新しくされていくのです。そこに新しい歌が生まれるのです。主日礼拝ごとに、信仰の旅路において「主に向かって新しい歌を歌え」なのです。福音の伝道師パウロは強調しています(ガラテヤ6:14-15)。「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」。大事なのは新しい創造、信仰者が十字架によって新しく造られていくことなのです。
 愛の宣教師ヨハネは誰でも新しく生まれなければ神の国に入れないと言い、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。この永遠の命も新しさなのです。
 召されゆく日野原さんの最後の言葉は“クラークさんは「ボーイズビーアンビシャス」という「言葉」を遺して北海道を去ったけれども、私は「キープオンゴーイング」。この「言葉」を若い人と一緒に、みなさんと一緒に口にして、みなさんと一体化して行動すること。感謝な気持ちで、キープオンゴーイング。…さらに、前進また前進を私達は続けなくちゃならない。喜びと感謝でキープオンゴーイング。(p208-209)”
 永遠の命は無限に動く自働機械ではない。永遠に向かって新しくされていく命なのです。だから、新しく歌い続けるのです。


◇主の晩餐
 命の源泉は食事、活動、休息です。信仰の命を新しくするのも食事、活動、休息です。食事はみ言葉の糧、霊の糧。活動は礼拝、奉仕。休息は安息日、静思の時などです。それらは習慣化されるとともに、その都度、新鮮な思いでのぞんでまいりましょう。重要なのは新しく造られることです。新しい歌を歌うことです。
 ままた、日野原さんの言葉を借りましょう。“苦しみが強かっただけに、今の感謝は以前の感謝よりも何倍も何倍も大きなものとして、私をリバイバルさせてくださった。リバイバルの思いが、私にとって大きな自己発見ですね。苦しみを越えていくそのダイナミックさっていうのを、感じるのです。それが大きな自己発見。(p193-194)” リバイバルは生き返り、信仰復興です。苦難を通して、その思いにかられるのです。
 ではそのリバイブされる源泉は何でしょう。主の晩餐です。最後の晩餐の時に弟子たちにパンを差し出し、これはわたしのからだであると言われ、ぶどう酒を差し出し、これはわたしの血であると言われ、弟子たちがそれに与ったのです。後々、記念として行うよう命じられたのが聖餐式です。それでカトリック教会は聖餐を中心のミサをし、プロテスタントは聖餐の意味するところの福音の言葉を中心として礼拝をしています。
 どちらも重要なのはイエス・キリストが最も重要なのは十字架と復活の福音であり、そこからずれないように、そして、絶えずそこから永遠の命に預るようにと命じられたことだと思います。形においても、言葉においても、十字架と復活の福音に与り、信仰が絶えずリバイブされることを主がお望みなのです。
 私、中学年の担任の先生には良くしてもらいました。私はめだたないぞんざいですから、友達からは「岡田、生きてるか」と声をかけられ、通知書には書きようがないので「真面目」の一言。でもその先生は違っていた。クラスで学習部を作ると言われ、私は数学部に選んでくれた。数学の問題を見つけてきて、それをプリントしてクラスに配るというもの。そんな風なのでクラスのみんなは生き生きしていた。牧師になってから、その先生がクリスチャンだったことを知りました。夜勤になると、校舎の屋上で聖歌「カルバリ山の十字架」を涙を流して歌っていたと言います。きっと生徒の一人一人のため祈っていてくれたに違いない。それで生徒の個性が読めていたのに違いないと思います。かなり想像ですが、いずれの日にか生徒の誰かが信仰を持つように祈っていてくれたので、私は救われたのではないかと思いめぐらすのです。何しろ、主の十字架の福音に涙する方ですから…。そこに源泉をおいておられた聖徒だったから…。
 新しい歌は十字架と復活の福音に与るところから、湧き出てくるのです。2018年の私たち、新しい歌を主に向かって歌いましょう。
「新しい歌を主に向かって歌え。
地の果てから主の栄誉を歌え」。



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。