オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

時が来れば

2018-05-13 00:00:00 | 礼拝説教
2018年5月13日(日)主日礼拝(イザヤ書27:2~6)岡田邦夫


「時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。」(イザヤ27:6)

 聖書の中で教会の看板に最も使われていたのが、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)。これこそ、福音の神髄(ずい)です。私自身もこのみ言葉で救われてきましたし、何度もこの聖句から伝道説教してきました。ところが、これまで、次の句をどちらかというと軽く触れていた様な気がします。年を重ねて、この頃はこの句の方がいかに重要か身に染みて感じています。
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(11:29-30)。くびきというのは牛二頭で荷車などを運ぶのに、並んだ牛の首につける横木のことです。主イエスのくびきを負って、弟子として学ばせていただくのです。それは軽く、結果はたましいに安らぎがくるという訓練なのです。
くびきで主とつながっているということですが、今日も主とつながっている、そのつながり方を学びたいと思います。

◇麗しいぶどう畑
 ぶどう畑の歌を詠んでみましょう。
「その日、麗しいぶどう畑、これについて歌え。わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。わたしはもう怒らない。もしも、いばらとおどろが、わたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。しかし、もし、わたしのとりでにたよりたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす」(27:2-6)。
 和を結んでつながっていれば実を結ぶようになるとの預言です。主イエスはこれを指して「わたしはまことのぶどうの木」と「まことの」を強調されました。つながっていれば永遠に残る実を結ぶと恵みを語られました(ヨハネ15:1~)。多くの実を結ぶので「見事なぶどう畑」(共同訳)、見る方の思いで「楽しいぶどう畑」(バルバロ訳)と訳されていますが、新改訳、口語訳は「麗しいぶどう畑」。父なる神のわが子を見つめる愛を感じさせる訳です。父なる神はイエス・キリストにつながっている私たちを「麗しい」と感じておられるのです。ですから、私たちは昼夜、見守られており、絶えず恵みの水が注がれているのです。
 私、教会で借りている畑で野菜を、特に黒豆を作っています。種を蒔けば、芽が出るまで気になる。水を欠かしていないか、気温がどうだろうか、とにかく気になる。朝に夕に見に行く。芽が出れば出たで、安心はするものの、天候、虫や鳥、病気、肥料…等々、気を使う。その成長を見るのは楽しい。「麗しいぶどう畑」と訳された訳者の心境が解ります。天の父はそういう風に神の子らをご覧になり、世話をしていてくれるのだと思うとジンときます。

◇麗しいぶどうの房
 そして、どうなっていくのか。6節に注目を。「時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす」。時が来れば…時間が必要です。命は時間だと言えます。根を張るのに時間がいります。黒豆の種を蒔くのが6月、へそと呼ばれているところを下にして種を植えます。根がそこから延びるからです。芽が出てから、双葉がでて、本葉がでて、と伸びていく間に、三度、土を寄せます。これが大変きつい作業です。それは横へ、下へ根を張らせるためです。根が広く張れば、幹は太くなり、木は大きくなり、実も大きくなり、たくさん成ります。私たちはそのように信仰の根を張ることが成長につながります。恵みを求め、み言葉を求め、聖霊を求め、愛を求め、真実を求め、何でも求めて、根を張りましょう。
 葉っぱからは空気中の二酸化炭素を取り入れ、光合成で自らのからだを作っていきますが、窒素も取り入れて、根っこに窒素肥料として蓄えます。それが根瘤です。人が酸素を取りこみ、血管を通して運ぶシステムのようにするのです。それが成長させる要因です。信仰者もみ言葉を心の内に蓄えましょう。それが信仰者の成長に結実に大いに役立ちます。とくに困った時や危機に際して、それらのみ言葉が救ってくれます。
 ですから、黒豆の場合、花が咲いてから、土の上に肥料をまきます。実を結ぶ時に最も養分を必要としているからです。人生の最後もそうなのでしょう。最も恵みを必要としているのです。信仰者は特にそうです。豊かな実を結ぶためにです。登山であれば、8合目、9合目です。一番きついですが、頂上はすぐそこです。もうすぐ頂上だと思えば、きつくても頑張れるのです。以前、教団の伝道部には盲人伝道という部門がありました。その代表が盲人の牧師で、常々、言っていました。人は誰でも高齢者になれば、いろいろ出来なくなって障害者になるものだ、人はみな「障碍者」だと考えて伝道してほしいと…。
 厳しい高齢状況であったり、試練の中にあったり、確かにそれはきつい、しかし、重荷はイエス・キリストにおろし、ゆだね、弟子として、イエス・キリストのくびきを負わせていただき、信仰を学び、信仰の実、恵みの実を実らせていただきましょう。
 根っこに恵みを蓄えておくことも必要、結実のために天からまかれた恵みも必要。神のなさることは時にかなって麗しい。麗しいぶどう畑、これについて歌え。今日の聖句を自分の信仰人生に当てはめ、恵みの言葉として信じましょう。それは教会にも当てはまります。
「時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。」(イザヤ27:6)

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。