オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

十字架

2012-04-01 00:00:00 | 礼拝説教
2012年4月1日 棕櫚の主日礼拝(マタイ27:32-56)岡田邦夫
みのお泉教会にて

 「三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である」。マタイ27:46

 以前、ロサンジェルスで世界ホーリネス連盟の総会があった後、北米ホーリネス教会の礼拝に出席しました。しかし、その前に近くにある黒人の多く集まる教会の第一礼拝に友人と参加してみました。メッセージは言葉の端々から、出エジプトの救いだと判ったのですが、会衆が自分たちの奴隷解放と重ねて聴いている様子がたいへん印象的でした。黒人霊歌には聖書の出来事に身をおくような表現があります。新聖歌440「エジプトに住めるわが民の、苦しみ叫ぶを聞かざるか…」がそうです。

◇君もそこにいたのか:群衆として
 新聖歌113は十字架の場面です。「君もそこにいたのか 主が十字架に付(つ)くとき ああ何だか心が震える 震える 震える 君もそこに居たのか」
 ピラトがイエスを十字架につけるために兵士たちに引き渡すと、赤い外套を着せ、いばらの冠を頭にのせ、右手に葦の棒を持たせ、ひざまづいて「ユダヤ人の王、ばんざい」と言ってからかった。
 処刑場所、どくろの意味のゴルゴタに着くと、イエスを裸にし、生身のまま、十字架の木に釘付けにする。耐え難い激痛がはしる。差し出された苦みを混ぜたぶどう酒を飲もうとされなかたので、その痛みはどれほどであるか。ユダヤ人の王イエスの罪状書きを取りつけ、地に立てる。その激痛はなお増して、止むことはない。同時にふたりの強盗が十字架につけら右左に立った。
道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしった。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い」(27:40)。
 祭司長たち、律法学者、長老たちもイエスをあざけった。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから」(27:42ー43)。両隣の強盗どもも、同じようにイエスをののしった。
 罪のないお方に対して、彼らは何とひどいことをし、ひどいことを言っていたのでしょうか。しかし、「君もそこにいたのか」なのです。彼らは君自身、私たち自身なのです。私たちは釘とハンマーを手にしていたのです。道行く人、祭司長ら、強盗らとして、そこにいたのです。この口でののしったのです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」…ローマ3:10ー18。全人類が、この私が寄ってたかって、主イエスをのろいつくしたのです。君もそこにいたのです。
 レビ記16章(16:6-10)に、罪のためのいけにえに二頭のやぎを使うことが記されています。一頭は罪のためのいけにえとして殺し、一頭はアザゼルのやぎとし、罪をそのやぎにあびせて、荒野に放つというのです。主イエスは十字架の祭壇で私たちの罪のためのいけにえとなられましたが、一方で、アザゼルのやぎとして、私たちの罪をあびせられ、彼方に永遠に追放されたのです。見捨てられたのです。私たちの罪を贖うだけでなく、私たちの罪を忘れ去るためなのです。

◇君もそこにいたのか:受刑者として
 「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。)と叫ばれた」(27:45ー46)。君もそこにいたのか。私たちは十字架にかけられた側にもいたのです。この叫びは古き人の叫びです。イエス・キリストと共に古き人の君がそこにいたのです。「私はキリストとともに十字架につけられました」(ガラテヤ2:20)。私たちの古き人はこのゴルゴダの丘で断末魔の叫びをあげて、死んだのです。そして、主の復活と共によみがえり、新しき人となったのです。神は時の中に働かれますが、時を越えて働かれます。それを教え、うなずかせ、現実のもにされるお方が聖霊です。聖霊が「君もそこにいたのだ」と臨んでおられます。
 イエスのその叫びを聞いて、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる。」と言い、ほかの者たちが「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言ったが、何も起こらなかった。「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。」という結末であった(27:50)。完全に苦しみ、完全に死んだのです。完全な救いのためなのです。

◇君もそこにいたのか:証人として
 しかし、不思議なことが起きた。神殿の幕が上から下まで真二つに裂ける。地が揺れ動き、岩が裂ける。墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返る。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われるのである。
 大祭司が年一度、罪の贖いのために、聖所から、隔ての幕を通って至聖所にはいったのだが、その幕が神によって上から下まで真二つに裂けたのです。十字架の贖いによって、旧約のいけにえをささげなくても、誰でも信じる者がはばかることも、ためらうこともなく、神に近づく道が開かれたのです。ユダヤ人にも異邦人にも、男でも女でも、大人でも子どもでも、すべての国、すべての民族、すべての人種、だれでもです。地が揺れ動き、岩が裂ける、墓が開くというのは、終末のしるしです。百人隊長といっしょにイエスの見張りをしていた人々が、それを感じ取ったのか、これらの出来事を見て、非常な恐れを感じて、「この方はまことに神の子であった。」と証言したのでです。「君も気がついたのか 突然日がかげるのを ああ何だか心が震える 震える 震える 君も気がついたのか」。君も聞いていたのか、地が揺れ動くのを。ゴルゴダにおいて、天を開き、聖所を開き、地を開き、墓を開いた方こそ、神の子なのです。罪の赦しの道を開き、復活の希望のある新しい時代を開いた方こそ、神の子なのです。「君もそこにいたのか 主が十字架に付(つ)くとき ああ何だか心が震える 震える 震える 君もそこに居たのか」。私の罪のために、古き人とともに苦しみつくし、死につくされたのは神の子の無償の愛、限りない愛からでたことです。私たちの魂はその十字架の愛に震えます。こんな罪深い者を赦し救うというそのはかりしれない恵みに心は震えます。御子が私たちを永遠の滅びから永遠の救いに導かれる道を開かれた十字架を仰ぐと魂が震えます。わが人生が震えます。私たちは叫びたい。「この方はまことに神の子であった」。

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