オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

わたしにできると信じるのか

2011-10-31 00:00:00 | 礼拝説教
2011年11月6日 主日礼拝(マタイ福音書9:18-26)岡田邦夫


 「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。(マタイ福音書9:22)

 以前、アメリカ留学から帰ったばかりのある牧師が私と話していてしつこく質問してくるのに閉口したことがあります。アメリカの授業では質問する生徒が良い生徒、授業内容に関心があることを示しているからです。日本とは違いますが、対人関係において質問、問いかけというのは大事なことだと思います。当然、神との関係においてもそうです。主イエスが弟子たちに最も重要な質問されたのが、16章にいくと出てきます。「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。」(16:15-16共同訳)。主はペテロの信仰告白を引き出されたのです。
 ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来たので、イエスは質問しました。「わたしにそんなことができると信じるのか」(9:28)。そうだと答えるとイエスがさわって目えるようにされました。
 私たちは窮地に立たされる時があり、望みが絶たれる時があり、苦しみがこれでもかと続くことがあります。そういう時に、どうして、このようなことが自分の身に起こるのか?と神に問うことでしょう。しかし、また逆に神から問われている時でもあるのです。普段、私たちは「わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。」と信仰告白をしています。しかし、上記のような状況から救い出されたいと願う時に、「わたしにそんなことができると信じるのか」と問われるのです。そういう人生の場面で、神は私に対して事実、全能の神であると信じ受けとめられるかと問われるのです。

 現にひとりの会堂管理者の愛する娘が病気で死にました。娘の名を呼んでも返事は返ってきません。どうして親より先に逝ってしまったのかと嘆いても、もう帰っては来ないのです。現実には亡くなってしまったのですが、心はそれを受けとめられないのです。他の福音書では病気で死にかけている時に、会堂管理者がイエスのところにやってきたのですが、家に行く途中で娘が死んだのだと記されています。しかし、マタイはこの経過を短縮しています。そして、「イエスがこれらのことを話しておられると」と前の説教と結びつけているのです。これらのことというのは「新しいぶどう酒」は発酵しているので「古い革袋」には入れることをしないで、「新しい革袋」に入れるという話です。新しいキリストの福音は、ユダヤ教の形式主義の古い革袋では破れてしまうので、新しい心の革袋に入れる必要があるということです。

 死というものの見えるところは死体という形です。生きている者とは別の形です。もう何の反応もなく、生き返ることもなく、朽ちていくだけのものです。残された者がどんなに心を痛め、悲しんでも、どうにもならない現実です。ユダヤ教の形式主義者はこの死体を汚れた物として扱い、それに触れると汚れてしまうと規定したのです。イエスが家に到着した時には葬儀をもりあげる形として、泣き女や笛吹きがきて騒いでいました。
 ところが、主イエスはそのような人たちを外にしめ出し、死んだ娘と向き合うのです。「その子は死んだのではない。眠っているのです」(9:24)。何を馬鹿なことをいうのか、死んでしまっているのにとあざ笑う人々がいてもかまうことなく、うちに入られました。そして、少女の手を取られたのです。形からいうなら、死人の手に触れれば死の汚れにそまる行為です。しかし、主イエスは少女の手を取られ、命を与え、命を吹き込む行為をなさったのです。すると少女は起き上がったのです(9:25)。復活の福音のしるし、象徴として、生き返らせたのです。何とも大変なことが起きたのです。

 この新しい福音のぶどう酒を入れるのは新しい革袋の心、すなわち、信仰です。会堂管理者の心中の経緯を思い巡らしてみましょう。きっと、娘が亡くなったという現実を知って、彼の魂はもうだめだと絶望のどん底まで下ったことでしょう。しかし、昔、預言者エリヤが死んだツァレファテのやもめの息子を生き返らせたけれど、イエスという方はその預言者の再来に違いない、寄り頼んでみようと思ったことが想像されます。一方、それを打ち消す声が心に聞こえたことも想像されます。しかし、きっと最後には内なる声が聞こえてきたでしょう。「わたしにそんなことができると信じるのか」。神に問われることで、信仰が引き出されたに違いありません。イエスのみ前にひれ伏しました。「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」(9:18)

 会堂管理者が家にイエスと弟子たちを連れて行く途中に起こった奇跡もどこか似ているのです。十二年もの間、出血が止まらない病にを患い、医者にかかっても治らず、財産を使い果たした一人の女性がいました。もう、誰にも治してもらえない、誰も信じられないという絶望的状況でした。血が失われていくように生きる気力もすっかり失われてしまいました。しかし、イエスのことを聞いた時に、新しい神との問答が始まったと思います。この方はきっと預言者で私の病を治してくれるに違いないという声が聞こえてくるかと思えば、十二年も祈って医者にかかったのに治らなかったから絶対無理だという声だ聞こえたでしょう。しかし、きっと最後には内なる声が聞こえてきたでしょう。「わたしにそんなことができると信じるのか」。神に問われることで、信仰が引き出されたに違いありません。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と心のうちで考えるに至り、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわったのです(9:20)。
「イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。『娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。』すると、女はその時から全く直った」のです(9:22)。ここでも他の福音書では着物のふさにさわった、その時にすでに出血が止まる奇跡が起きたと詳しく述べているのですが、マタイはこの経過を短縮しています。新しいぶどう酒は古い革袋には入れることをしないで新しい革袋に入れるというメッセージが流れています。古い形式的な信仰でしたら、出血は汚れですから、その汚れにイエスが染まってしまうというわけです。しかし、福音の流れは逆で、主イエスのきよい命が出血を止め、この女性をきよめることになるのです。誰も信じられなくなったけれど、この預言者のようなこの方なら「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」という、この女性の信仰は新しい革袋なのです。
 そこで、「イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。『娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。』すると、女はその時から全く直った」のです(9:22)。この汚れていると決めつけられたこの女性を誰も見向きもしなければ、相手にもしないし、むしろ、避けているのです。しかし、主イエスは振り向いて、向き合ってくれたのです。十二年の果てしない苦労も、何もかも彼女のすべてが受け入れられたのです。そのような眼差しで彼女を見られたのですが、何よりも彼女の信仰に目を注がれたのです。そして、その信仰を引き出してくださったのです。「あなたの信仰があなたを直したのです」。主が喜ばれるのはこの信仰という一点なのです。それが人生を建て直すのです。それが十二年の間で崩れてしまった彼女の人生を建て直すのです。イエスを救い主と信じる信仰が人生を建て直すのです。さらに、罪によって、崩れてしまって永遠の死に、永遠の滅びに決定づけられてしまった人生を永遠の命に、永遠の救いに建て直すのです。イエス・キリストの流された命の血によって、イエス・キリストの死んでよみがえられた復活の命によって、建て直して行くです。
 主は今日、「誰々よ。しっかりしなさい。」と励ましておられるのです。私たちのために血を流し、命を注ぎだしてくださり、私たちの存在をきよめ、復活の望みを与えられた主が「ガンバレ!」とエールを送ってくださっているのです。あなたにはあなたの信仰があるではありませんか、「しっかりしなさい。」と愛と恵みをもって、私たちを建て直してくれているのではないでしょうか。

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