オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

苦悶の重さが量られたら

2017-05-14 00:00:00 | 礼拝説教
2017年5月14日 主日礼拝(ヨブ記6:24~30誌上説教)岡田邦夫

 「ああ、私の苦悶の重さが量られ、私の災害も共にはかりにかけられたら。それは、きっと海の砂よりも重かろう」(ヨブ記6:2)。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)。

 ある日、病院にお見舞いに行きました。小脳が委縮し、運動機能が衰えていくという難病の女性でした。その方がこう言われました。「さっき、病室を出ていった人、私、きらいなの。福祉活動をいろいろやっていてね、忙しい中、来てくれたの。でもね、あれもしてる、これもしてる、バリバリやってる話をするの。そういう元気な話は病人にとって、すごくしんどいのよ。それに、ハイヒールはいて速足でコツコツと音立てて、来て、帰るのよ。その高い音が体に響いてこたえるのよ。実は私、難病なの……」。初対面なのにこちらが牧師だからと心の内を話してくださいました。これに似た光景がヨブ記にでてきます。辛い病の中におかれたヨブを気の毒に思い、友人が見舞いにくるのですが、ヨブを苛立たせてしまいます。そこには単純にはわりきれない、複雑なやり取りが繰り広げられていきます。

◇真直ぐな言葉は心に刺さる
 財産も家族も健康も失われても、ヨブは神への信仰は揺るぎませんでした。しかし、なぜ義人がこんな目に合うにかと考え出したら、果てしなく辛くなってきました。生まれてこなかった方がよかった、でも、死ねない、悩みのるつぼにはまってしまうのです。それに対して、友人エリファズはこう諭そうとします。
夜の幻を見たと言います。「そのとき、一つの霊が私の顔の上を通り過ぎ、私の身の毛がよだった。それは立ち止まったが、私はその顔だちを見分けることができなかった。しかし、その姿は、私の目の前にあった。静寂…、そして私は一つの声を聞いた」(4:15-16)。神秘的な啓示のようなものを受けたわけです。友人の言葉の間に、ヨブの気持ちになって、思いをいれて述べてみましょう。
「人は神の前に正しくありえようか。人はその造り主の前にきよくありえようか」(4:17)。それはそうだ。「人は生まれると苦しみに会う」(5:7)。創世記でアダムによって罪が入り込んだため、人は苦しむことになったとあるから、それも正しい教えだ。「神は大いなる事をなして計り知れず、その奇しいみわざは数えきれない」(5:9)。その通りだ。 “神は悪者の策略を破壊し、弱者を保護される方なのだ(5:10-16要約)。”そうであってほしいし、教育者も世の知者もそう教える。現実はそうじゃないのに。
 そうして、名句名言にあげてもいいような言葉で友人が教えてくれるけど、それは自分には耐えられない。「ああ、幸いなことよ。神に責められるその人は。だから全能者の懲らしめをないがしろにしてはならない。神は傷つけるが、それを包み、打ち砕くが、その手でいやしてくださるからだ。神は六つの苦しみから、あなたを救い出し、七つ目のわざわいはあなたに触れない」(5:17-19)。それはそうかもしれないけれど、私だけ、どうして全能者の懲らしめを受けなければならないのか、責められるような悪いことをした覚えがないのに、理不尽だ。こんなにも苦しいではないか。

 それで、ヨブはこう言うのです。「ああ、私の苦悶の重さが量られ、私の災害も共にはかりにかけられたら。それは、きっと海の砂よりも重かろう。…全能者の矢が私に刺さり、私のたましいがその毒を飲み、神の脅かしが私に備えられている(脅迫の陣を敷かれた)」(6:2-4)。ここに神を信じる者の苦悩があります。神はどうして、私をこのような苦しい懲らしめに合わせるのかと苦悶し、のたうちます。読者には先に光が見えるのですが、まずは「何が」信仰者を苦しめているかを知ることが大切です。
 「まっすぐなことばはなんと痛いことか。あなたがたは何を責めたてているのか。あなたがたはことばで私を責めるつもりか。絶望した者のことばは風のようだ(と思うのか)」(6:25-26)。これまで、友人の言ってきたことは「正論」です。その“まっすぐなことば”が苦悩する者の心を突き刺し、相当の痛い思いをさせるのです。

◇豊かな言葉は心を翻させる
 ヨブは生きることが虚しくなり、嫌になったと言います。「私にはむなしい月々が割り当てられ、苦しみの夜が定められている。横たわるとき、私は言う。『私はいつ起きられるだろうか。』と。夜は長く、私は暁まで寝返りをうち続ける。私の肉はうじと土くれをまとい、私の皮は固まっては、またくずれる。私の日々は機の杼(はたのひ)よりも速く、望みもなく過ぎ去る。…私はいのちをいといます。私はいつまでも生きたくありません。私にかまわないでください。私の日々はむなしいものです」(7:3-6、7:16)。
 そして、問います。「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは」(7: 17)。この言葉は詩篇8:4にも144:3にも出てきますが、創造者の偉大さをたたえ、「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました」と感謝の言葉が歌われています。「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは」は感嘆の言葉です。しかし、ヨブはそれを裏返して、皮肉に述べているのです。「また、朝ごとにこれを訪れ、そのつどこれをためされるとは」と。御心を留めないでくれ、ほっといてくれと言います。

 私は受洗したての頃、牧師館に呼ばれて、牧師夫人の本郷春子師に言われたことを忘れることが出来ません。“信仰というのは紙一重ですよ。多くの信者は信じているとはいえ、こっち側にいます。向こう側に行かなければなりません。それはちょっとの違いのようで、全然違うのです。岡田さんはそれを超えて、本物の信仰者になりなさいよ。”ヨブはこの苦悩が延々と続くようですが、信仰に突き抜けるには、紙一重のところがあるのではないかと、私は思います。「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは」と彼が言っているのは嘆きの言葉です。その言葉を裏返せば、賛美の言葉になります。それは易しいようで難しい、難しいようで易しいことです。
 結局、主は嵐の中からヨブにこう聞き返されます。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは」(38:2= 42:3共同訳)。言葉を裏返していただき、信仰に突き抜けたのです。「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」(42:5)。

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