オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

ヨブを贖うものは生きている

2017-05-21 00:00:00 | 礼拝説教
2017年5月21日 主日礼拝(ヨブ記19:21~29)岡田邦夫

 「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。」(ヨブ記19:25共同訳)

ヨブ記は1~2章はわかりやすいし、教訓になりますが、その後がなかなか、とっつきにくいものです。しかし、じっくり読むと実に味わいのあるものです。文学的にも哲学的にも、また神学的にも心理学的にも、鋭く、深いものがあると評されています。ゲーテはこれをもとに“ファウスト”を発想したし、ドストエフスキーはここから“カラマゾフの兄弟”全巻を構想したといいます。ヨブ記は万民の書でもあるはず、私たちもヨブ記を通して、信仰を深めていきたいと思います。

◇失望…神は私の望みを木のように根こそぎにする。
ヨブは強かった。何もかも失われるという、たいへんな災難にあったのですが、これを神からの試練と受け止め、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言って勝利しました。実に強い信仰。
友人が「だれが罪のないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか」、罪の報いでこの災いが起こったのではないか、因果応報なのだ、悔い改めよと諭そうとします(2:7)。しかし、ヨブは潔白で正しい者を君たちは物笑いにするのか、「あなたがたは偽りをでっちあげる者、みな、脳なしの医者だ」、偽善者だと友人を厳しく非難します(12:4,13:4)。「私は全能者に語りかけ、神と論じ合ってみたい。」とかなり、強気です(13:3)。

しかし、ヨブは弱かった。「神は私を四方から私を打倒し、私の望みを木のように根こそぎに」されたのです(18:10)。そのいちばん助けが必要な時なのに、誰も理解者がいない。これ程、辛いことはないのです。「神は私の兄弟たちを私から遠ざけた。私の知人は全く私から離れて行った。私の親族は来なくなり、私の親しい友は私を忘れた。…私の親しい仲間はみな、私を忌みきらい、私の愛した人々も私にそむいた」(19:13-19)。実に孤独。
厳しく非難した友人にもすがりたくなるのです。「憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ。神の手がわたしに触れたのだ。あなたたちはわたしの友ではないか」(19:21共同訳)。何ともやるせない気持ちです。
 強いけれど、また、弱いヨブ、それは私たちの姿だと思います。しかし、それより、先に進んでいくのがヨブ記です。

◇希望…私の皮がはぎとられて後、私の肉から神を見る。
 そのように、耐えられないほど辛いとき、人はなおも理解者が欲しい、わかってほしいと訴えます。「どうか、わたしの言葉が書き留められるように。碑文として刻まれるように。たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され、いつまでも残るように」(19:23-24共同訳)。
「木には望みがある。たとい切られても、また芽を出す。…しかし、人間は死ぬと、倒れたきりだ。人は、息絶えると、どこにいるか」(14:7、10)。激しい試練に合うと、自分自身を見ても、周囲を見ても、望みがないことを知るのです。しかし、神に望みをおくしかありません。
「私は知っている。私を贖う方は生きておられる」(19:25a)。神は創造者、全知全能の方です。さらに法廷の審判者のように見ていました。しかし、ここで、翻って、神を「贖う方」と見るのです。贖う者とは、元来は親族中の助力者を表しました。人手に渡った近親者の財産や土地を買い戻すという救済のシステムです。ルツ記がそれです。神は近親者のようにヨブの状況を思い、買い戻すようにして、救ってくれる神なのだと言うのです。

見えるところでは、歴史の上で、主なる神が臨み、イスラエルの民が贖われました。「わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、(エジプトに対して)大いなる審判によってあなたたちを贖う。」の約束通り、事実、奴隷から解放されました(出エジプト6:6共同訳)。贖いによる救いを現実に見たのです。民にとって初めに出エジプトありきです。神は現れた神なのです。
しかし、試練のただ中にある者には、神は隠れて見えません。暗闇の中にあるのですが、おぼろ月夜のようなものです。はっきりしませんが、月はある。求めていくと、見えてくるのです。「私を贖う方」がです。その方は昔ではない、今ここに生きておられると霊的に感じるのです。信仰の感性です。ヨブ記の中では最後的に神が現れ、臨むのですが(38:1、40:6)、まず、神がおぼろにわかってくるのです。
ヨブを贖う方は生きておられる、これは希望の言葉です。後に、試練でちりの上で苦しんでいる自分のかたわらに立たれることを確信し、また、命が損なわれても、この身をもって神を仰ぎ見るに違いないと希望をもつのです。ヨブは言います。「この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない」(19:27)。

 ヨブのいう「贖う方」はやがて現れる救い主、イエス・キリストをおぼろげに見えたのでしょう。今や私たちの前には贖い主、イエス・キリストは現れたのです。キリストはおぼろ月のようではなく、義の太陽として、私たちを照らしているのです。私たちの罪への贖いの代価は十字架において払われています。血の代価、命の代価、受難の代価が払われ、私たちは贖われています。
 私、イエス・キリストを救い主、贖い主と信じて、クリスチャンになって、最初の伝道会でいきなり救いの証しをさせられました。そのとき、路傍伝道で歌われていた「来たれ誰も」を友人と一緒に歌いました(新聖歌185)。その4節が特に心に響いていました。「来れ何も持たでイエスに、主の死によりて代価すべて払われたり、すでにすでに。主イエスは安きを与え給わん。来りイエスの手に委ねよ。汝(な)が重荷を」。2000年前の十字架において、すでに代価は払われ、贖われているのですが、私にとっては「今」すでに払われていると信じたのです。言い換えれば、今、私は贖い主がわかって、言い知れない平安を得たのです。

 家内が聖書学院で学んでいる時、神の御心はどうしたらわかるのでしょうかと、教授の千代崎秀雄先生に個人的に聞きに行きました。「神様がどういう方かわかれば、御心もわかります」という答え。そうなんだと納得して帰ってきたとのことです。ヨブは自分の苦悩を理解してほしいと願い、訴えていました。ルツ記にあります。土地も夫も失くしてしまって故郷に帰ってきたナオミ、死んだ息子の妻ルツもいっしょ。それを理解したボアズが土地も人も贖い助けるのです。贖う方は理解者なのです。苦しんでいる者の理解者なのです。ヨブは理解されていることを理解していったのです。それは相互理解というものです。相互理解ほど安心なことはない、うれしいことはないのです。神はお心をわかってほしい、私も私の心をわかってほしい、その接点が「贖う方」なのです。贖い主の十字架が唯一の決定的な接点なのです。
 相互理解ができるようにと「私を贖う方は生きておられ」のです。

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