オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

嘆きから見えてくるもの

2017-05-07 00:00:00 | 礼拝説教
2017年5月7日 主日礼拝(ヨブ記3:1~10)岡田邦夫

 「私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている」(ヨブ記3:26)。「彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられた。…彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(イザヤ53:4~5抜粋)。

 ヨブは東洋一の資産家で10人の子供に恵まれ、幸せな人で、それでいて、信仰は厚く潔白でした。しかし、災難が降りかかります。資産はすべて略奪され、子供の命も災害でみな奪われ、何もかも失います。さらに象膚病と思われる病に侵され、七転八倒の苦しみに追いやられてしまいます。しかし、ヨブは「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」としっかり信仰の告白をし、罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかったのです(1:21-22)。すべてが備えられても完璧、すべてを失っても完璧な信仰者でした。
しかし、実はここからが本当の苦悩に向かうのです。ヨブは大声で泣き、衣服を裂き、灰をかぶって、嘆きに嘆きます。精神的苦悩です。正しく歩んでいたはずなのに、なぜ、このような苦しみに合わなければならないのかという納得できない思いです。もがけばもがくほど、底知れない深い沼に引きずられて行くようなものです。みなさんも大なり小なり、そういうところを通っておられるでしょう。それぞれの気ばらすものがあって、生活していることでしょう。それも良いことです。しかし、ヨブのように懐疑的苦痛におかれた時に、その深い底から、かつてない光が見えてくることをヨブ記は指し示しているのです。

◇やり場のない苦悩…嘆き
 もう一度言います。主は与え、主は取られると言って、平然としたのではありません。大声で泣き、衣服を裂き、灰をかぶって、嘆きに嘆きます。私たちは他人の嘆きを聞きたいとは思わないでしょう。でも、ヨブの嘆きは私の嘆きとして聞きましょう。
「その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。ヨブは声を出して言った。私の生まれた日は滅びうせよ。『男の子が胎に宿った。』と言ったその夜も。その日はやみになれ。神もその日を顧みるな。光もその上を照らすな」(3:1-4)。こんなにも辛い、苦しい、いっそ生まれてこなければよかったと生まれた日をのろうのです。さらに「死を待ち望んでも、死は来ない」とも言って嘆きます(3:21)。これ以上辛いことはない。「私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている」(3:26「静けさも、やすらぎも失い、憩うこともできず、わたしはわななく」共同訳)。
これは「やり場のない苦しみ」です。肉体に襲った全身、象の皮膚のようになり、痛くてかゆくて、灰の上に座って、土器の破片でかくしかないという身の置き所なさなのです。どうにもならない、やり場のない苦しみなのです。
心はかき乱され、わななくのです。ですから、人は嘆くのです。信仰者も嘆くのです。言い換えれば、嘆くことを許されているのです。
 詩篇を見ますと神をたたえる賛美の詩も多くありますが、それより多いのが嘆きの詩です。それは何を物語っているかというと信仰者は賛美する人であり、また、嘆く人だということなのです。嘆いてはいけない、感謝して、賛美しなくてはと思いがちですけれど、嘆くことも重要なことなのです。やり場のない苦しみに襲われた時には、特にそうなのです。そのわけは次にお話ししましょう。

◇逃れ場のある希望…
ヨブは信仰の告白をした時、「神に愚痴をこぼさなかった」と記されていました。他の訳では“神に向かって愚かなことを言わなかった”“神を非難することなく”“神に背いて愚かなこともしなかった”と多様です。愚痴というのは神に背いて愚かなこと、罪なことを言うことといえましょう。しかし、「嘆き」は腸から出てくるもので。神を信じていても出てくるものです。
ある体育の教師が頸椎(けいつい)損傷で、首から下が全く動かなくなって、入院している時、「チクショウ、チクショウ」と嘆いていました。この方も教師、30を過ぎて、難病の進行性筋萎縮症と診断され、体の自由が奪われていきました。クリスチャン・ホームを作り、イエス・キリストに仕えているのに、なんでこのような難病にされたのか、くそったれ神様と嘆きました。決して、神を非難したり、背を向けたりしたのではありません。いい言葉ではないとしても、むしろ神と向き合った嘆きの言葉でした。だから、嘆き求めたのです。そして、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」と言われる方に出会って、乗り越えたのです(マタイ11:28-29)。
 やり場がないと思われたところに、イエス・キリストという「逃れ場」を見ることが出来るのです。嘆きのるつぼの底にゴルゴダがあるのです。そこに「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と十字架で嘆かれたイエス・キリストがおられるのです。私たち、罪びとの嘆きを全身全霊で担われたのです。肉体の苦痛以上の「どうして」という精神的、霊的苦痛を私に代わって担われたのです。十字架において人類の罪を担われたので、神に見捨てられたのです。神に見捨てられたのですから、主は天地のどこにも場をなくしたのです。とことん「やり場のない苦痛」にみまわれ、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と最大級の嘆きを神に向けられたのです。
 その嘆きこそ聞かれたのです。死んで葬られ、よみにくだり、そこから栄光の体によみがえられ、神の右に引き上げられたのです。嘆きは届いたのです。やり場のないあなたの苦しみは主が一番ご存知です。あなたが嘆くとき、主も共に嘆いておられます。だから、その嘆きは無意味ではありません。自分を知り、神を知る道なのですから。さらに飛躍すれば天国への道があるのです。「私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」(ローマ8:17)。

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