2010年2月28日 伝道礼拝(ヨハネ11:32~36)岡田邦夫
「イエスは涙を流された。」ヨハネ福音書11:35
ある物事に直接にであうという、漢字二文字の「直面」はよくご存じだと思います。この直面は「能」においては「ひためん」と読みます。直面は、面(おもて)を着けない、素顔のことを言い、この素顔もまた、面のひとつと考えるからです。能面をつけるときと同じように、素顔という面をつけて、能面のように演じるというわけで、すべてを含めて、仮面劇なのです。無表情のようで、より深い内面をあふれだす、高度な演劇です。
人生において、人は仮面をかぶって生きています。しかし、何かに直面する時に、素顔があらわれ、それが「ひためん」となって、内面を豊かに現していくのではないでしょうか。
私たちは新しい事態に直面するとたいへん緊張します。例えば、子供が幼稚園に行くというのは、家を離れ、集団生活をするわけですから、子供は恐れたり、動揺したり、興奮したりして、対応することがたいへんなのです。いそいそ行く子もいれば、泣く子もいます。よくある光景です。そうしたことは、人生を積み重ねていく上で、ついてまわることです。そうして、人は成長していきます。
しかし、事故にまきこまれたり、重い病気になったり、大事なものを失ったり…、思ってもないことに遭遇すること、想定外のことに、直面することがあります。病弱な人は病気慣れしているせいか、気持ちは平気だったりします。しかし、元気な人が突然、病気をすると意外と動揺するようです。想定外のことに直面するからでしょう。
◇主の奇跡に直面する時
今日の聖書の箇所はドストエフスキーの「罪と罰」にも大事な所で出てきます「ラザロの復活」です。イエスが親しくしておられたマリヤ、マルタ、ラザロの姉弟がベタニヤ村にいまして、そのラザロが重い病気になったので、姉妹たちは、イエスのところに使いを送りました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」(11:3)。不測の事態、病気に直面し、死ぬかもしてないと心配し、動揺し、イエスに助けを求めたのです。
これを聞いたイエスはすぐ駆けつけるかというと、なお、2日もそこに滞在されたというのですから、いっしょにいた弟子たちには理解できません。イエスは平然とこう告げます。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。…ラザロは死んだのです。…さあ、彼のところへ行きましょう」(11:12-15)。ラザロの身に何が起こっているか、また、何が起こるか、イエス・キリストは見通しておられますが、弟子たちはその事態に直面していないので、この言葉を理解できません。
イエスが到着した時、ラザロは死んで墓に葬られ、4日もたっていました。イエスは悲しみにくれているマルタに告げます。「あなたの兄弟はよみがえります。…わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」(11:25ー26)。信じがたいことばです。イエスがほら穴式の墓に行き、ふた石を取りのかさせて、祈りました。そうして、大声で「ラザロよ。出て来なさい。」と叫ばれますと、何と死んでいたラザロが、生き返り、手と足を長い布で巻かれたまま、顔は布切れで包まれまま、出て来たのです。イエスはそこにいた人たちに言われました。「ほどいてやって、帰らせなさい」(11:43-44)。ラザロの生き返りは「しるし」でした。信じる者は死んで終わりではなく、復活があること、栄光のからだによみがえる希望があることの「しるし」でした。
◇人が死に直面する時
要点だけを話しましたが、ラザロの死と生き返りに関するプロセスということが重要だと思います。なぜなら、人は誰もが最後に直面しなければならないのが、「死」です。考えたくないことであり、まだ、自分には関係ないと思っているのが普通でしょう。しかし、必ず、やってくることなのですから、考えておくべきでしょう。
そこで、精神科医エリザベス・キュプラー・ロスという人が「死ぬ瞬間-死とその課程-」という書をあらわし、話題になりました。死を宣告された患者がその人生の最後を、どのような心の課程で過ごしていくのかを、多くの臨床の中から、まとめたものです。
第1段階は否認です。死の告知を受けると、ほとんどの臨死患者が「違う、それは真実ではない」と反応する。何かの間違いであり、死の事実を受け入れるなどとんでもないことだと否定する。
第2段階は怒りです。もはや死の可能性が否認できなくなると、怒り、憤り、羨望、恨みなどの感情があらわれる。見るものすべてが怒りの源となる。
第3段階は取り引きです。
ひょっとすると、自分の死を先へのばせるかもしれないと考える段階である。自分が良いことをすれば、神が褒美に癌を治してくれるかも知れないなどと考える。
第4段階は抑うつです。もはや自分の死を否認できなくなり、衰弱が加わってくると、喪失感が強くなってくる。抑うつはこの喪失感の一部でもある。
第5段階は受容です。痛みは去り、闘争は終わりと感じる。疲れきり、衰弱し、短く間隔をおいて眠る状態となる。ここではほとんどの感情がなくなってしまっている。
人によって違いますので、あてはまらないこともあります。しかし、おおむねこのような悲哀のプロセスをたどるものだということを知っておきたものです。また、見送る家族の悲哀のプロセスはまた違いますが、似ているところがあります。ここで、復活の信仰が与えられれば、たいへん希望のある、平安にたどり着く、展開になるでしょう。そのことを申し上げたいと思います。
◇イエスも死に直面する時
イエスはラザロを「友」と呼びました。親しい友人として関わられたのです。ですから、ラザロの死はどれほど悲しいものがあったでしょうか。聖書にはこう記されています(ヨハネ11:33ー36)。
「そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」イエスは涙を流された。そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
何事にも冷静で、超越した方のはずのイエス・キリストが霊の憤りを覚え、心の動揺を感じたのです。そして、涙を流されたのです。死人を生き返らせることができるのですし、即刻、それをしようとしているのに、憤り、動揺し、涙を流されたのです。ラザロを亡くしたマルタやマリヤの悲嘆を自らの悲嘆とされたのです。悲しむ者と共に悲しむ者となられたのです。近所の人の同情の涙とは違います。マルタ自身、マリヤ自身の悲しみをそっくり引き受けて、涙されたのです。どこにも持って行き所のない悲嘆を全部、涙に変えられたのです。
しかし、それだけではありません。きっと、死んでいったラザロの死にゆくプロセスを、経験されたのではないでしょうか。それは上記の5段階かも知れません。否認と孤立/怒り/取り引き/抑うつ/ 受容という、人間にとって壮大なプロセスをすべてを共有されたのが、イエス・キリストが霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ、そして、涙を流されたという中にこそ、あるのではないかと思います。まさにイエス・キリストは「死」というものに直面されたのです。ご自身が十字架の死に向かう時に、ゲッセマネの園で祈りました。血の滴るように汗を流し、苦しみもだえ祈られました。そして、その苦い杯をのみほすように、十字架にかかり、死の苦しみを、すべて、私たちのために担われました。
ですから、あなたがもし、死にゆく時に、決して、ひとりで戦っているのではないことを思い出してください。あなたが否認する時、ラザロの墓におられた主がかたえにおられるのです。怒りるときも、取り引きするときも、抑うつのときも、最後の受容のときは最もそばにおられるのです。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」(詩篇23:4)。
◇そして、復活に直面する時
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」と言われました(15:13)。イエス・キリストは上記のようにいのちを捨てられたのです。このように、まことの「死」を通られたからこそ、父なる神はイエス・キリストをよみがえらせたのであり、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」と言われるのです(11:25ー26)。まことに死なれたからこそ、まことに復活されたのです。ですからこそ、信じるあなたが死に直面した後に、まことの復活に直面するのです。あなたは信じますか。これから、直面することがわかっていれば、希望がありますね。
「イエスは涙を流された。」ヨハネ福音書11:35
ある物事に直接にであうという、漢字二文字の「直面」はよくご存じだと思います。この直面は「能」においては「ひためん」と読みます。直面は、面(おもて)を着けない、素顔のことを言い、この素顔もまた、面のひとつと考えるからです。能面をつけるときと同じように、素顔という面をつけて、能面のように演じるというわけで、すべてを含めて、仮面劇なのです。無表情のようで、より深い内面をあふれだす、高度な演劇です。
人生において、人は仮面をかぶって生きています。しかし、何かに直面する時に、素顔があらわれ、それが「ひためん」となって、内面を豊かに現していくのではないでしょうか。
私たちは新しい事態に直面するとたいへん緊張します。例えば、子供が幼稚園に行くというのは、家を離れ、集団生活をするわけですから、子供は恐れたり、動揺したり、興奮したりして、対応することがたいへんなのです。いそいそ行く子もいれば、泣く子もいます。よくある光景です。そうしたことは、人生を積み重ねていく上で、ついてまわることです。そうして、人は成長していきます。
しかし、事故にまきこまれたり、重い病気になったり、大事なものを失ったり…、思ってもないことに遭遇すること、想定外のことに、直面することがあります。病弱な人は病気慣れしているせいか、気持ちは平気だったりします。しかし、元気な人が突然、病気をすると意外と動揺するようです。想定外のことに直面するからでしょう。
◇主の奇跡に直面する時
今日の聖書の箇所はドストエフスキーの「罪と罰」にも大事な所で出てきます「ラザロの復活」です。イエスが親しくしておられたマリヤ、マルタ、ラザロの姉弟がベタニヤ村にいまして、そのラザロが重い病気になったので、姉妹たちは、イエスのところに使いを送りました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」(11:3)。不測の事態、病気に直面し、死ぬかもしてないと心配し、動揺し、イエスに助けを求めたのです。
これを聞いたイエスはすぐ駆けつけるかというと、なお、2日もそこに滞在されたというのですから、いっしょにいた弟子たちには理解できません。イエスは平然とこう告げます。「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。…ラザロは死んだのです。…さあ、彼のところへ行きましょう」(11:12-15)。ラザロの身に何が起こっているか、また、何が起こるか、イエス・キリストは見通しておられますが、弟子たちはその事態に直面していないので、この言葉を理解できません。
イエスが到着した時、ラザロは死んで墓に葬られ、4日もたっていました。イエスは悲しみにくれているマルタに告げます。「あなたの兄弟はよみがえります。…わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」(11:25ー26)。信じがたいことばです。イエスがほら穴式の墓に行き、ふた石を取りのかさせて、祈りました。そうして、大声で「ラザロよ。出て来なさい。」と叫ばれますと、何と死んでいたラザロが、生き返り、手と足を長い布で巻かれたまま、顔は布切れで包まれまま、出て来たのです。イエスはそこにいた人たちに言われました。「ほどいてやって、帰らせなさい」(11:43-44)。ラザロの生き返りは「しるし」でした。信じる者は死んで終わりではなく、復活があること、栄光のからだによみがえる希望があることの「しるし」でした。
◇人が死に直面する時
要点だけを話しましたが、ラザロの死と生き返りに関するプロセスということが重要だと思います。なぜなら、人は誰もが最後に直面しなければならないのが、「死」です。考えたくないことであり、まだ、自分には関係ないと思っているのが普通でしょう。しかし、必ず、やってくることなのですから、考えておくべきでしょう。
そこで、精神科医エリザベス・キュプラー・ロスという人が「死ぬ瞬間-死とその課程-」という書をあらわし、話題になりました。死を宣告された患者がその人生の最後を、どのような心の課程で過ごしていくのかを、多くの臨床の中から、まとめたものです。
第1段階は否認です。死の告知を受けると、ほとんどの臨死患者が「違う、それは真実ではない」と反応する。何かの間違いであり、死の事実を受け入れるなどとんでもないことだと否定する。
第2段階は怒りです。もはや死の可能性が否認できなくなると、怒り、憤り、羨望、恨みなどの感情があらわれる。見るものすべてが怒りの源となる。
第3段階は取り引きです。
ひょっとすると、自分の死を先へのばせるかもしれないと考える段階である。自分が良いことをすれば、神が褒美に癌を治してくれるかも知れないなどと考える。
第4段階は抑うつです。もはや自分の死を否認できなくなり、衰弱が加わってくると、喪失感が強くなってくる。抑うつはこの喪失感の一部でもある。
第5段階は受容です。痛みは去り、闘争は終わりと感じる。疲れきり、衰弱し、短く間隔をおいて眠る状態となる。ここではほとんどの感情がなくなってしまっている。
人によって違いますので、あてはまらないこともあります。しかし、おおむねこのような悲哀のプロセスをたどるものだということを知っておきたものです。また、見送る家族の悲哀のプロセスはまた違いますが、似ているところがあります。ここで、復活の信仰が与えられれば、たいへん希望のある、平安にたどり着く、展開になるでしょう。そのことを申し上げたいと思います。
◇イエスも死に直面する時
イエスはラザロを「友」と呼びました。親しい友人として関わられたのです。ですから、ラザロの死はどれほど悲しいものがあったでしょうか。聖書にはこう記されています(ヨハネ11:33ー36)。
「そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」イエスは涙を流された。そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
何事にも冷静で、超越した方のはずのイエス・キリストが霊の憤りを覚え、心の動揺を感じたのです。そして、涙を流されたのです。死人を生き返らせることができるのですし、即刻、それをしようとしているのに、憤り、動揺し、涙を流されたのです。ラザロを亡くしたマルタやマリヤの悲嘆を自らの悲嘆とされたのです。悲しむ者と共に悲しむ者となられたのです。近所の人の同情の涙とは違います。マルタ自身、マリヤ自身の悲しみをそっくり引き受けて、涙されたのです。どこにも持って行き所のない悲嘆を全部、涙に変えられたのです。
しかし、それだけではありません。きっと、死んでいったラザロの死にゆくプロセスを、経験されたのではないでしょうか。それは上記の5段階かも知れません。否認と孤立/怒り/取り引き/抑うつ/ 受容という、人間にとって壮大なプロセスをすべてを共有されたのが、イエス・キリストが霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ、そして、涙を流されたという中にこそ、あるのではないかと思います。まさにイエス・キリストは「死」というものに直面されたのです。ご自身が十字架の死に向かう時に、ゲッセマネの園で祈りました。血の滴るように汗を流し、苦しみもだえ祈られました。そして、その苦い杯をのみほすように、十字架にかかり、死の苦しみを、すべて、私たちのために担われました。
ですから、あなたがもし、死にゆく時に、決して、ひとりで戦っているのではないことを思い出してください。あなたが否認する時、ラザロの墓におられた主がかたえにおられるのです。怒りるときも、取り引きするときも、抑うつのときも、最後の受容のときは最もそばにおられるのです。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」(詩篇23:4)。
◇そして、復活に直面する時
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」と言われました(15:13)。イエス・キリストは上記のようにいのちを捨てられたのです。このように、まことの「死」を通られたからこそ、父なる神はイエス・キリストをよみがえらせたのであり、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」と言われるのです(11:25ー26)。まことに死なれたからこそ、まことに復活されたのです。ですからこそ、信じるあなたが死に直面した後に、まことの復活に直面するのです。あなたは信じますか。これから、直面することがわかっていれば、希望がありますね。