ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

思い出し話

2021-03-12 12:04:00 | 日記
不幸な知らせは、突然にやってくる。

コロナ禍のせいで確定申告は一か月延長になっている。そのため例年なら必死で仕事しているこの時期も、比較的のんびりと仕事ができる。そんな夕刻、妹から電話があった。

不思議なもので、それが不幸な知らせであることは、ありきたりの挨拶の口調から分かってしまった。先週、父が亡くなり、今夕お通夜があるとのこと。

父といっても離別して半世紀、今は後妻さんと暮らしていることぐらいしか知らない。こちらから積極的に連絡をとることは控えていたし、後妻さんにとっても、なかなか連絡しづらかったのだろう。

しかし、急といえば急だ。仕事を強引に切り上げて、教えられた斎場に出向いた。コロナ禍のせいで、参列者は少ない。初対面の後妻さんに挨拶し、長居はせずに引き上げる。

その後の告別式は妹に任せ、私は欠席した。長子なので非常識に思われるだろうが、父の家族は後妻さんであり、私ら子供は距離を置かざる得ない。特に長男の私が必要以上にでしゃばれば、後々のトラブルになる可能性さえある。

仕事柄、相続のトラブルは嫌というほど見てきたので、自分から種を播くことは避けたい。第一、名前しか聞いたことがない前妻の子の私が居ては、後妻さんも気が休まらないだろうと思う。

そうは言っても、父を悼む気持ちはある。

父母が離婚したのは、私が小学生2年生の頃だ。もう一年近く、あまり家に居つかなかったので、なんとなく予感はあった。夫婦喧嘩を子供も前でする人たちではなかったが、関係がおかしいのは子供でも分かる。

率直にいえば、私は父に見捨てられたとの思いが拭いきれず、冷たい怒りさえ感じていた。人間、哀しむよりも怒るほうが良い場合もあると思う。後年、父がその頃既に、後に再婚することになる後妻さんとの不倫関係にあったらしいと知ったので、私の怒りは正しいと思っている。

ただ、父母の軋轢の原因にも少し分かると思っている。仕事人間の父は決して家庭的な夫ではなかった。また母は三人の子供を抱えて大わらわであり(当然だ)、妻であることよりも母であることを優先していたことも父の不満であったのだろう。

更に思い出すと、父は母に対する姿勢も、かなり一方的に過ぎたと思う。父は当時、タイヤの販売会社で営業をしていた。その販売促進のためだと思うが、軽トラックの荷台に女性のマネキンを載せてキャンペーンをやろうとしていた。

問題は、その女性マネキンに母のお気に入りの水着を着せたことが。今でもけっこう覚えているが、縦縞のすっきりしたデザインのワンピース型の水着で、母がけっこう気に入っていたと思う。

その水着をマネキンに着せて、軽トラックを走らせたのだが、これが母をえらく怒らせた。その一件以降、母はその水着を着なくなったと記憶している。父はそのことも不満であったらしく、しかも母の気持ちがさっぱりと分からなかったらしい。

このあたり、父はかなり我儘というか、人の気持ちに寄り添えない人であったと思う。幼い子供の私でさえ、母が本気で嫌がっていたのが分るのに、何故に強行したのか。こんなことも離婚の原因ではないかと思う。

離別以降、その地を離れ二度の引越しをしたので、父とはまったく会うことはなかった。もう顔も声も忘れた頃、私が一人家に居るときに父から連絡があった時は本当に驚いた。

母や妹にばれないように休日、待ち合わせの渋谷駅前に行って再会した。なんの用かと思ったら、大金の入った通帳3冊を渡してきて「これで大学に行け」とのこと。

父は私たちを探すために興信所を使ったようで、その際子供たち、とくに私が素行の良くないことを知ったらしい。まぁ、そうだろう。母子家庭の子供として、中学を卒業したら働くつもりだったので、碌に勉強しなかった。

私はしばしば手伝っていた近所の香具師の弟子入りをするつもりであった。もし、そうなっていたら私の人生は、今とは全く違ったものになっていただろう。

ちなみに母は、私を遠縁の親戚が営む工務店に務めさせるつもりだったらしい。別に大工仕事に憧れていた訳でもないので、何故に母がそんなことを考えたのか良く分からない。

父から頂いた金があったので、私は方針変更で普通科の都立高を目指すことにした。これた当時、仲が良かったはずの友人たちの怒りを買い、数か月間イジメの対象とされたのが一番堪えた。

意地っ張りな私は元に戻ることはなく、むしろ勉学に励み大方の予想を裏切り、都立の普通科に合格できた。落ちこぼれであった中一の時の担任に喜ばれて、親子丼を奢ってもらったのは懐かしい思い出だ。

以降、高校から大学の間、時折父に連れられて食事などに行くことがあった。ただ、父親と息子の会話をした記憶はない。息子にどう接したら良いのか分からなかったらしく、上司と部下の関係のような会話になることがほとんどだった。

ちなみに妹たちは、甘えることで上手く父と娘の関係を構築していたように思う。いささか甘え過ぎのように思えたが、あれはそれまで放置していたことへの仕返しだったのかしらん?と思うほどであった。

そして、私は甘え下手である。母に対しても甘えることはないというか、意識して甘えることが出来ない不器用な息子であった。もっとも妹たちは、母は私に甘いと思っていたらしい。わからんものである。

私にとって人生の一つのピークは大学時代である。ここで生涯付き合うことになるであろう奴らと知り合い、今もその付き合いは続いている。高校時代の友人とも付き合いはあるが、やはり最終学歴の友人が一番近い存在となる。

父からの経済的支援があったからこそであることは、私も強く意識している。私を育ててくれたのは母だが、父の援助が重要であったことへの感謝は忘れたことはない。

だが、不器用な私はその感謝を伝え切れたのか、少々自信がない。言葉にして言うのは難しいと思い、手紙に少し書いたこともある。父はその手紙を大切にしていたと伝え聞いているので、ある程度は分かってもらえたと思う。

それでも父への想いは複雑だ。私が父を「お父さん」と呼ぶのに十数年かかったことを、父は気づいていただろうか。また私は父の人生をほとんど知らない。いろいろ多難な人生を歩んだらしいが、それを当人の口から聞くことはなかった。

今少し、息子としてまともに会話をしておくべきだったと、今にして思う。もう、なにも出来ないのですけどね。
コメント (4)
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