のろや

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怒りをこめて、ハデスのこと

2013-08-22 | 映画
前回の記事、 When You're Evil の最後の所で、ディズニー映画の悪役たちが登場するAMVのことをちらっと申しました。それらの中に、『ライオン・キング』のスカーや『ノートルダムの鐘』のフロロなんかと並んでよく登場するのが『ヘラクレス』のハデスでございます。
ワタクシはディズニー映画の『ヘラクレス』を観ておりません。未鑑賞の作品についてとやかく言うのはワタクシの主義にいささか反しますけれども、ことこの作品におけるハデスの扱いに関しては、ぶつぶつ言わせていただこうかと。
(ちなみに『美女と野獣』のガストン同様、『ノートルダムの鐘』のフロロは”悪役”ではあっても”邪悪”ではないので、このWhen You're Evilという曲にはそぐわないとワタクシ思うのですが、それはひとまず於くことといたします)

もう10年以上前ということになりますけれども「ディズニーの次回作はギリシャ神話が舞台、悪役は冥界の王ハデス」と聞いた時、ワタクシはずいぶん腹が立ちました。今でも腹が立っております。と申しますのも、ゼウス、ハデス、ポセイドンのクロノス3兄弟のうちハデスは最も、いや他を引き離し断トツで、身持ちがよくて性情の穏やかな神だからでございます。

ディズニーの映画では、どうやら好色で横暴かつコミカルなキャラとして描かれているようですが、好色といったらゼウスの方が断然上でございますし、怒りに任せて人間を酷い目に会わせるのは、ハデスではなくポセイドンのおはこでございます。
それから映画ではハデスが幼いヘラクレスを殺そうと試みるシーンもあるようですけれども、これはとんでもない濡れ衣であって、赤ん坊のヘラクレスに蛇を差し向けたのはゼウスの正妻ヘラでございます。それどころか、ハデスとヘラクレスが敵対的な関係になったことは一度もございません。

そもそもハデスのやった「ひどいこと」なんて、ペルセフォネ略奪くらいしか思い浮かびません。それだって、母親のデメテルがつむじをまげたもんだから、1年のうち4分の1の間だけ地下で一緒にいることにして、あとの4分の3は親元に返してあげるんですよ。聞き分けのいい旦那じゃありませんか。さらにその略奪自体も、実はゼウスにそそのかされたからだって話もあります。
本妻以外の女性によろめいたという話も、たった1回だけ。...いや、今Wikipediaで確認したら2回でした。それだって、ゼウスとポセイドンの放埒ぶりに比べればぜんぜん可愛いもんです。逆に細君のペルセフォネの方が、夫の数少ないよろめきの対象に嫉妬して、彼女を雑草に変えてしまったり、美少年アドニスをめぐってアフロディテとの間で泥仕合を繰り広げたりという修羅場を展開してらっしゃいます。

それに対して、ゼウスなんかどうです。
ガニュメデスを引っ掠い、エウロパを誘拐し、最初の正妻メティスさえも、予言怖さにお腹の子供ごとごっくんと飲み込んじまう始末。
ここにヘラの嫉妬が絡むと、さらに悲惨でございます。
セメレーは一瞬で灰になり、イオは牝牛に変えられ、カリストは熊に変えられ(拒否のすえ騙されて犯されたのにこの仕打ち!)、レトは出産する場を求めて身重の身体を引きずって世界をさまよわねばならなかったわけです。それからおしゃべり好きだったニンフのエコーが相手の言葉を繰り返すことしかできない身になったのも、もとはといえばニンフたちと遊んでいたゼウスがヘラから逃げるのを助けてあげたせいですから、彼女もこの浮気夫と嫉妬妻コンボの犠牲者に数えられましょう。

ポセイドンもたいがいですよ。
姉のデメテルを手込めにし、また一説では美女だったメドゥーサが怪物に変えられる要因を作り(所もあろうにアテナの神殿で彼女と交わった)、ニンフといわず人間といわず、あまたの愛人をこさえております。
オデュッセウスがあんなに長旅をしなくちゃならなかったのも、要するにポセイドンが怒ったからですね。
それからとりわけひどいのが、皆様ご存知とは思いますけれども、ミノタウロスの出生をめぐるお話でございます。ここで怒りを被ったのは、生け贄に捧げるはずだった牡牛を惜しんだミノス王ですが、ポセイドンはこの生け贄横領事件にはなーんの関与も罪もないはずの、ミノスの妻パシパエを狙うんでございます。しかもただシンプルに罰するのではなく、彼女がくだんの牡牛に対して情欲を抱くよう仕向けて牛と交わらせるんでございますね。その結果パシパエは体は人間・頭は牛のミノタウロスという怪物を生むわけでございますが.....海神、ちょっとやることが陰険すぎませんか?

陰険といえば、ゼウスがプロメテウスに与えた罰も相当なもんでございましょう。人間に火を与えた罰として、岩山に縛り付けられてハゲタカたちに生きながら肝臓をついばまれる日々。これが永劫に続く予定だったんですぜ。それだけじゃ飽き足らず地上にパンドラを遣わして、世界に災厄大拡散ひゃっはあ。

それに対して、ハデスが人間に対してしたことといったら、ええと。
亡き妻エウリュディケを慕って冥界まで追って来たオルフェウスに、エウリュディケを返してあげた.....



いいひとじゃないですか!
しかもオルフェウスが奏でる竪琴に感動したペルセフォネのとりなしを受けて...って、微笑ましいほど妻にべた惚れじゃないですか!
ペルセフォネも、さらわれた相手がハデスでよかったじゃありませんか。これがゼウスがポセイドンだったら、まず遊んでポイですよ。2人とも、猛アタックかけてた女性(テティス)すら「彼女の生む子は父より偉大になる」という予言が下されるや、双方さっと手を引いて彼女を他の男にあてがってしまうようなひとたちですもの。

クロノス3兄弟のみならず、ギリシア神話に登場する主要な神々の中でも、ハデスは一番穏やかで公正な部類に入ると申してよろしうございましょう。アレスは流血や戦闘を好む荒々しい神であり、アフロディテは浮気性な上に息子の恋人に対しては陰険な鬼姑であり、ヘルメスは平気で嘘をついたり狡猾に立ち回ったりするのが常のトリックスターでございます。アポロンもアルテミスも、また知恵の女神アテナでさえも、怒りに任せて人間を動物や怪物に変えるなど、時には理不尽で残酷な罰を下すことが知られております。ヘパイストスはまあ、あんまり派手な噂は聞きませんけれども、アテナを手込めにしようとして失敗するという、かなりイタいエピソードの持ち主でございます。

それに比べてハデスのなんと温厚なこと。しかも愛犬家でもあったりして。(ヘラクレスが12の試練を達成するため、冥府の番犬ケルベロスを地上へと引っ張り出す許可をハデスに求めた時、ハデスは愛犬の連れ出しを「武器を使わないこと=傷つけないこと」を条件に許可してあげたのでした)
もっとも、ハデスは冥界から出て来ることがほとんどないので、他の神々、特に兄2人のように遊び回る機会が圧倒的に少ないということもございましょう。なんだか遊び人の長男、暴れん坊の次男、引きこもりの三男という構図を思い浮かべてしまいます。

などというひどい例えを申しておいてナンではございますが、ディズニー映画のハデスのような、本来のパーソナリティを改変してしまう創作物というのは、ギリシア神話やその中に登場する神々へのリスペクトを甚だ欠くものであると、ワタクシは思うのですよ。
冥界の王だから悪、という短絡的なキャスティングもいただけません。オシリスや閻魔様が悪ではないように、ハデスもまた、悪ではございません。畏怖すべきものと忌み嫌うべきものを一緒くたにしてはイカンでしょう。imdbのレヴューに「ハデスとサタンを混同するな」と怒ってらっしゃるかたがおりましたけれども、全く同感でございます。

当のろやご常連の皆様はご存知の通り、元来ワタクシは悪役というやつが大好きでございます。このディズニーの「ハデス」にしても、ギリシア神話の冥王とは全然関係のないただの悪役として見たならば、おそらくかなり好きな部類に入るキャラクターでございます。
しかし神話の中のハデスとは似ても似つかぬこのキャラに、3000年以上の長きにわたっていかめしくも穏やかな神として知られて来た冥界の神の名前とステイタスを与えるのは、甚だ冒涜的なことであり、ギリシア神話ファンを馬鹿にする行為でもあるのではございませんか。


またこれはディズニーに限った話ではございませんが、主人公をカッコ良く見せ、正当化するために、神々をおとしめたような作品がたまにございますね。あれも本当に嫌なものでございます。
ワタクシ、漫画『アリオン』は終止ぷんぷんしながら読まねばなりませんでしたし、中学生の時に友人が「面白いから」と貸してくれた藤本ひとみの『王女アストライア』シリーズに至っては、歯を食いしばるようにしてなんとか1巻だけ読んだものの、それ以上は無理でございました。もっとも、この作品において堪え難かったのは神々の扱い云々というより、テーマや文体だったかもしれませんが。

反対にギリシア神話やギリシア古典文学へのリスペクトを感じる創作物といいますと、まっきに思い浮かぶのは『アルテウスの復讐』『ミノス王の宮廷』『冒険者の帰還』という3冊シリーズのゲームブックでございます。
ゲームブックったって、今の若い人はご存知ないかもしれませんけれども、要するに書籍版RPGゲームでございます。
本作は「もし英雄テセウスがミノタウロス殺しに失敗したら」という所から始まります。田舎で母と共に暮らす主人公・アルテウスのもとに、兄テセウスがミノス王の迷宮で命を落とした、という知らせが届き、アルテウスは兄に代わってミノタウロスを倒すために旅立つわけです。

旅のはじめに、今後庇護を受けることになる神を選ぶことができまして、選んだ神によって、旅の間、つまりゲームの途中で受ける特典が異なるんでございます。たしかヘラ、アポロン、アレス、アフロディテ、ポセイドンの5択だったと思いますが、ワタクシはいつもアポロンばかり選んでおりましたので、他の神々の特典がどんなだったか思い出せません笑。とにかくそれぞれの神の特性を生かした特典でしたので、たしかアレスの庇護は戦闘の時に有利だったはずです。アポロンから下される恩恵は予言の力で、戦闘時以外の不測のダメージを回避することができる、というものでした。

ダメージといっても体力だけの問題ではございません。主人公はそんじょそこらの冒険者ではなく、英雄テセウスの弟でございますから、やっぱり英雄らしい振る舞いが求められるわけです。そのため「名誉点」と「恥辱点」というポイントが設けられておりまして、プレイヤーがさもしい行為におよぶとこのポイントにおいて容赦なく罰を下されます。
たまに守護神や他の神々と話をすることもできる一方、うっかりすると敵対関係に入ってしまうことも。ワタクシのご贔屓守護神アポロンは、いつも閃光とともに現れてはささっと神託を告げ「じゃ、私はこれから妹と一緒に狩りに行くんで、これで」とか何とか言ってまたささっと消えてしまうのでございました。

これだけでもお分かりかと思いますが、大筋からも細部からも、ギリシャ神話に対する制作者の愛と理解とリスペクトがふんだんに感じられる作品でございます。ワタクシはあっちこっちに指をはさみながら遊び倒したものでございました。
えっ。前のページに指を挟みながらやるなんて卑怯じゃないかって。
だってえ。うっかりすると、プロクルステスに足を切られたり、ロータス・イーターの島でのんびりしすぎて帰れなくなったり、シュムプレガデスの大岩に船が挟まれたり、生け贄の子犬を助けたばかりにヘカテの怒りを買ったりするんですよ!

それから、映画ではパゾリーニの『王女メディア』が思い浮かびます。(『アポロンの地獄』は未鑑賞)
初めて見たときはケンタウロスの姿に爆笑してしまいましたけれども。

あとは、そうですねえ、山岸凉子の漫画「パエトーン」とか。
あれはギリシア神話がメインではないだろうって。まあそうなんですが、世界を寓意的に語るという神話の機能を現代に適用したという点で、正しい解釈のなされた作品と呼びうるとワタクシは思います。しかし1988年に世に出たこの作品が今なお、いや残念ながら、今だからこそいっそう重々しい意味合いを持っておりますのは、神話という普遍的な物語に取材しているからではないのでございました。

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いやはや、思わず知らずこんな長話になってしまいました。
積年のモヤモヤを吐き出した恰好のお目汚しでございます。
しかし地球上において、ディズニー映画でのハデスの扱いに憤慨しているギリシア神話ファンは決して少なくないこととと思います。ワタクシもその一人として、この機会にちともの申しておかねば気が済まなかったという次第でございます。