のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『泥象  鈴木治の世界』展

2013-08-12 | 展覧会
東電幹部の皆様が「気温40度くらいまで猛暑になれば、議会、世論ともに再稼働容認になるだろうとか、つい期待して」「あがれ、あがれと新聞の天気図に手を合わせて」いらっしゃる効果でしょうか、このところ猛暑が続いておりますね。(しかし今年はちっとも電力足らん足らん言いませんなあ)
驚愕! 東電幹部 原発再稼働へ向けて猛暑を念じ、経産省幹部へメール(dot.) - goo ニュース

ワタクシ暑いのは好きな方ですけれども、何せ育ちが北国なので、最高気温37℃ととか38℃と聞くとちょっとひるみます。
で、避暑がてらにという軽いノリで『泥象(でいしょう) 鈴木治の世界』へ行ってまいりました。
軽いノリで出かけたのではございますが、これがまた、たいへんいい展覧会でございました。

京都国立近代美術館 | The National Museum of Modern Art, Kyoto

避暑がてらなら涼しいうちに行っとけばいいのに、なんだかんだで結局いいかげん日が高くなってからおうちを出ることに。のろさん絶対こうなる。風景がゆらゆらする中、正午前ごろに美術館に到着し、哀れな自転車君を炎天のもとに残して館内へ。コインロッカー室でdakara500mlを一気飲みしてひとまず涼を取り、汗がひくのをしばし待ったのち、いつもののごとく白い階段をとんとん上がってまいります。

3階の展示室入り口に立ちますと、一見して展示作品数がかなり多いこと、しかもバラエティに富んでいることがわかります。その上に遠目から見ても心惹かれる、面白そうなかたちたちが大勢いらっしゃるじゃございませんか。チケットを切っていただきながらあたりを見回して、ああ来てよかった、と早くもほくほくしたものでございます。

冒頭を飾るのは1950年代、即ち鈴木氏20代~30代半ばの作品でございます。それぞれ作風はかなり異なるものの、「まだまだ実験中」という未熟な感じはいたしませんで、それぞれの方向で完成の高いことに驚くわけでございます。植物などの具象的なモチーフを描いた色あいも肌あいも優しい花器もあれば、ポロックが絵付けしたようなジャジーな柄の壷もあり、八木一夫に通じる軽やかさのあるオブジェもあり。そのどれもがいいんですな。
お父上が千家御用達のろくろ職人で、早くからろくろ使いの手ほどきを受けられたとのこと。陶芸家を志したころにはもう技術を充分身につけていらっして、そのぶん初めから自在な表現が可能であったということでございましょうか。

さらに進んで行きますと、仮名を模様として扱った作品や、洗練された土偶や埴輪を思わせるヴォリューム感のある作品、「走れ三角」といったユーモラスなオブジェもあれば、吸い込まれそうな色合いの青磁の茶碗といった直球な作品もあり、なんとも多彩でどんどん楽しくなってまいります。
ときにこの「走れ三角」、造形的にものすごく優れているというわけでもないのですが、不条理なタイトルも、短いパイプみたいな”足”でえっちらおっちら走る三角錐というヘンテコなモチーフも、たまらなくのろごのみな一品でございました。青磁でなかったのはちと残念でしたが、もう少し小さかったらひとつ机上に欲しいぐらいでございました。
持っててどうするんだって。眺めてにこにこするんですよ。



ところで本展で特筆したいことは、展示の構成やライティングがとてもいいということでございます。全体を見ても部分を見ても、空間的なバランスや色の対比がとても心地よく、ワタクシは移動するたびに立ち止まってぐるりを見渡したり、展示室間を行ったり来たりして、視界が変わった時のハッとする感覚を味わったりしたのでございました。

部分ということで言えば、例えば「寿盃(じゅっぱい)」と題された青磁の盃セット(もちろん全部で10個)。別の展覧会のチラシですが、作品の写真をこちらで観られます。
普通のぐい飲みサイズから、リカちゃんのサラダボウルぐらいの大きさのものまで、少しずつ大きさの違う、マトリョーシカみたいな盃でございます。本展ではこれをただ一列に並べるのではなく、一番大きい盃を中心として、だんだん小さいものへと、くるりと螺旋を描くように並べてあるんでございますね。これが各々の盃の表面につけられた、ゆるく旋回する縦方向の溝に呼応しておりまして、作品の清楚な魅力をいっそう高めているようでございました。

全体ということで言えば、例えば、大きめの陶作品を展示室の片側に集めた、思い切って広々とした空間の次に、101個もの手のひらサイズの青磁たちが迎えてくれる小部屋が控えておりまして、これなどは思わず、わあ、と声を上げたくなるような素敵な演出でございます。

さて、展示後半になると作品の抽象度、といいますか削ぎ落し度、が高くなってまいります。もの柔らかな輪郭、温度を感じさせるグラデーション、おおらかなヴォリューム感に、円みやトンガリの風情など、ちょっと絵本『もこ もこ もこ』でおなじみの元永定正氏の造形を彷彿とさせます。
いかにも前衛陶芸という感じがするわけですが、その一方で酒器や香盒といった実用品も作ってらっしゃるのですね。息抜き的に細作されたものか、遊び心が感じられるものも多く、実にかわいらしい。
また、ずっと作品を見てまいりますと、こちらも鈴木氏の造形言語に慣れてくるわけです。そうすると展示も後半になりますと、ほとんど抽象にしか見えないような形態をした作品でも、あ、これは鳥ですね、こちらは蝉ですね、とモチーフを判じるのが容易になっているんですね。これまたなかなか面白いことでございました。

”「使う陶」から「観る陶」、そして「詠む陶」へ”という本展のコピーが語る通り、後半へ行くに従って、氏の作品はほんのり文学的な様相を帯びてまいります。といっても文学作品がテーマに掲げられるということではございませんで、作品そのものが、語られない物語をはらんでいるような、あるいは前後の時間の流れ、即ち来し方・行く末を含んでいるような、ひそやかな文学性でございます。あんまりひそやかで、藤平伸氏(奇しくも同じく京都五条坂出身)の静かな詩情と比べてさえ、寡黙すぎるくらいなものでございます。藤平作品が宮沢賢治の『やまなし』あたりだとすると、鈴木作品は八木重吉の四行詩あたりになりましょうか。

第一室の眺めからは、どういう方向にでも進みうる人と見えましたが、振り返ってみますと、ほのかに文学性をまといつつ抽象と具象のあわいを行くかたち、というのは、この上なく自然な着地点のように思われるのでございました。
着地点といっても、そうした表現形式がもとから確立されていたわけではなく、八木一夫らと共に戦後の現代陶芸を牽引していらっした鈴木氏が、模索を経て開拓されたものでございます。
しかし氏の作品を前にしますと、牽引とか開拓といった大仰な言葉は、いかにも似合わないような気がいたします。
それは簡潔に、しかし暖かみを持って造形されたかたちたちが、寡黙な表層の奥から、ほんのりしたユーモアや、ひそやかな詩情でもって、観る者に親しく語りかけて来るからかもしれません。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿