のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

藤田嗣治展2

2006-06-12 | 展覧会
6/10の続きでございます。

さて、様々な画風を試して独自の表現を模索した
初期の作品を経て、展示は例の「素晴らしき乳白色」、裸婦と猫の時代へと移って行きます。
こちらを見据える美女や思い思いのポーズをとった裸婦、という「フジタといえば、こうよな」的作品も、もちろんございますし
パリのアトリエで、墨と硯をかたわらに、誇らしげに面相筆を構える自画像や
江戸の風俗屏風のごとく背景全体に金箔をあしらった、キリストの十字架降下図など
「西のもの」と「東のもの」のミキシングをはっきりと表している作品もございます。
こうした作品からは、この頃のフジタが
西洋文化のただ中で、東洋人である自分がどんな表現をしうるか、ということを
とりわけ強く意識していたことが感じられます。

さてさてその次にまいりますのが
あっとびっくり中南米時代でございます。
それまでの、細い輪郭線と淡い色彩の画面からはうって変わり
熱く豊かな色彩と陰影で、中南米や沖縄の風俗を描いているのでございます。
とはいえ線描淡彩の表現手法をやめたわけではなく、相当に毛色の異なる2つの手法を平行して制作を続けていました。
展示室の左右にかかる作品は、同一人物の手になるものとは信じがたいほどです。

またこの頃から、複数の人物が重なるように配置された、群像表現への取り組みもなされます。

ところが
新しい表現の可能性を探るフジタを
あらゆる芸術、あらゆる文化活動にとっての 最大悪 が襲います。

戦争です。

多くの人物が画面の中に重なり合う群像表現は、
戦意高揚のための戦争画において生かされねばなりませんでした。

4枚の大きな戦争画、とりわけ『アッツ島玉砕』
本展最大の呼び物のひとつです。

↓で見られます。ずーーっと下の方までスクロールして行ってください。

第7回「戦前」と「戦後」は断絶しているのだろうか?:社会メディア論 II

敵も味方もない乱戦状態を描いたこの作品では
生者も死者も、泥の塊のように一体となって絡み合い、地獄絵図をくり広げています。
個人は群像の泥沼に埋没し、米兵・日本兵の区別なく
皆一様に狂気の表情で、目の前の人間を殺しにかかっています。

戦争画といえば戦意を高揚し、敵への憎しみを喚起するという役割を担ったものですが
この作品は、個を群の中に埋没させることによって、
「お国」というイデオロギーや敵味方の区別以前に
戦争という現象が持っている単純な事実、即ち
「人間同士の殺し合い」という事実の悲惨さと愚かしさを
生々しく表現しているのです。

これらの戦争画は、西洋古典絵画の技法に全く忠実に、写実的に描かれています。

かつて黒田清輝らの教える古典的西洋画に飽き足らず、
渡仏して独自の表現を探し求めた藤田嗣治。

努力と模索のすえに確立した彼のオリジナルな表現は、
すっきりと細い輪郭線と、漆黒のアクセントによって
淡い色彩の中からモチーフを屹立させるものでした。

その独自の表現手法を捨てて描いた、これらの戦争画を見ると
渾然となって重なり合い、埋没し合う群像は
フジタがこの時期、「個」であることをやめざるを得なかったことを
示しているようにも見えるのです。


もう一回ぐらい続きます。


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