のろや

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『ソフィアの夜明け』

2010-12-31 | 映画
正午過ぎても室温5度。

それはさておき

「おれの明日は、まだかよ」というコピーに心惹かれて、ブルガリア映画『ソフィアの夜明け』を観てまいりました。本年はこれにて観納め。

映画『ソフィアの夜明け』公式サイト

うーむ、秀作でございました。
ブルガリア版『ベルリン 天使の詩』という雰囲気がなくもない、あれほど詩的ではないにしても。

舞台はブルガリアの首都ソフィア。
物語の軸となるのは年齢も立場も違う3人の男女。
それぞれに閉塞感を抱え、それぞれの場所でもがいております。
美術学校を卒業したものの、作品を発表する場所も金もなく、麻薬中毒からのリハビリに通院しながら単調な木工の仕事で生計を立る主人公イツォ。
威圧的な父親や「くだらないテレビばかり見ている」継母にうんざりし、ネオナチに引き寄せられて行くイツォの弟ゲオルギ。
そして裕福なトルコ人家庭のお嬢さんであるウシュルは、旅行で世界のあちこちを訪れながらもそこにある問題には目を向けようとしない、両親の偏狭な態度に疑問を抱いています。

離ればなれで、それぞれの場において孤独であった3人はある事件をきっかけに近づき、お互いの生活にかすかな、しかし確かな、希望の糸口をもたらすのでございました。
各々の抱えた問題に決定的な解決や救済が与えられるわけではなく、ほんのかすかな「夜明け」のきざしが描かれるのみである所に、かえって作品の誠実さを感じます。



社会の閉塞感。ゼノフォビア(外国人嫌悪)。均質化する街の風景。現代社会の富や便利さを享受する一方、そこから生まれた痛みや歪みからは目を背けるブルジョワ的な利己主義。
ブルガリアは遠い国でございますが、本作に描かれている問題は決して私たちに馴染みのないものではございません。

鬱屈した若者がスキンヘッドや入墨といったファッションからネオナチに近づき、取り込まれ、「これをやってこそ男だ」という暗黙のプレッシャーに突き動かされて、次第にサッカー場での喧嘩や外国人襲撃といった暴力行為へと巻き込まれて行くさまには、じっとりと重たいリアリティがございました。

また理想の自己像と現実とのギャップに苦しむイツォや、反抗心やエネルギーをどこに向けたらいいか分からないゲオルギは、自他を傷つける諸刃の剣を握りしめているようであり、その不器用さが痛々しく胸に迫ります。
イツォを演じたフリスト・フリストフは監督の友人で、そもそもこの物語のモデルとなった人物でございますから、つまり自分自身を演じているということになりますね。映画はイツォが希望を手に生きて行くであろうことを暗示して幕を閉じます。しかし現実のフリストフ氏は撮影直後、映画が完成する前にお亡くなりになりました。スクリーンの中の繊細な表情を見ながらふと、ああこの人はもういないのか、と思うと、やるせなくもあり勿体なくもあり、こうしてたった一度だけフィルムに刻み付けられたその姿が世界中で映し出されていることが何やら不思議でもあり、何とも奇妙な気持ちに襲われたのでございました。



さて
のろの明日は、まだかよ。まだだってよ。
下手すると寝てる間に凍え死にしそうなこの寒さ。
無事に明日が迎えられるかいささか心配な所でございます。